23・支度
朝、いつも通り師団事務所に顔を出すと、そこには珍しく副師団長のソルマレーレが立っている。
「おはようございます、副師団長」
「ああ、おはようアレックス。ちょっと師団長室まで来い」
業務連絡は通常副師団長補佐であるユーゲント中佐から伝えられるが、今日に限って珍しいこともあるものだ。その上師団長室に来いとは、なにかまずいことでも起こったのだろうかと身構える。
部屋に入って、ソルマーレが座った向かい側の席に腰を下ろす。
「お前、弓は引けるのか?」
軍において弓は、本来弓射部隊が一手に引き受けている。隊を率いる士官にとって弓は優先度が低いからだ。矢が尽きれば終わりの弓よりも、折れぬ限りは戦い続けることができる剣や槍斧の方が重要視される。弓射隊をもっているのは、白兵戦に長けたスウォン師団だ。後方支援に布陣するからである。シルバルド師団は激戦地に布陣する可能性の高い王太子を護って戦うことが求められる性質上、騎馬、剣、槍斧に特化した師団だった。
「どの程度の精度を求めておられるのか分かりませんが、馬上から鳥を狩る程度で良いのであれば引けます」
アレックスの答えにソルマーレは一瞬真顔になったが、すぐに思い出したようににこやかな笑みを浮かべた。
「よろしい、業務命令だ。お前は星渡り祭の神事の射手に抜擢された。女性近衛隊長のリネット・ライゼル大佐の要請に王妃リカチェ様の後押しもある。カイルラーン殿下を通しての要請ゆえ断る事はできん」
仕事であればそれを断る気はないが、ソルマーレの最後の言葉に不穏なものを感じる。
建前上はリネットの名前だが、この要請を出したのは十中八九王妃だろう。彼女が師団長である王太子を通して要請したという事は、春の茶会でのこちらの対応への意趣返しと受け取るべきだ。
あの王妃の要請がただの神事で終わるような気はしないが、断る事はできないとソルマーレが言うくらいだ。おそらく王太子も了承済みという事なのだろう。
何を仕掛けてくるかわからないが、断れないのであれば仕方がない。
「わかりました。お受けいたします」
変わらず怖いくらいに笑顔のソルマーレが気になった。
―――他にも絶対何かある。
内宮の奥まった場所にある池の上空に、畔から矢が打ち上げられる。この矢には矢尻がなく、代わりに砂の入った袋が付けられている。
アレックスはそれを対岸から狙って射掛けているが、今に至るまで成功していない。
馬上から鳥を狙って射落とす事など、これに比べたら簡単だったのだと思い知る。
弓から弾き出された矢の射速は驚く程速い。そして、上がってしまえば落下速度を予測して狙う必要があり、鳥とくらべて的が小さい分だけ寄せて行くのに勘と技術が必要になる。
月明かりが湖面を照らして、夜だというのに意外にも天を仰いだ視界は明るい。その分、地に近づく程に闇は深くなる。
対岸にある外灯の薄ぼんやりとした灯りの下で、綺麗な形で矢をつがえる王太子の所作が見えた。それを認めて、自分もまた弓を構える。
おそらく、矢を目で追っていても間に合わない。射手の動きを読んで、射出からの速度と、物理法則に従って落下してくるタイミングを見極めなくてはならないのだ。
引かれていく弦を、食い入るように見つめる。
呼吸も、視覚も、聴覚も、全ての感覚を研ぎ澄ませて、変化していくその弓の姿に合わせて己も弦を引く。
わずかに、ビン、と対岸の弓が啼いた。
刹那の間を置いて、予測した場所に矢を放つ。
自分の手から解き放たれた矢は、放物線を描いて落ちてくる矢羽根に近い場所を射抜いて落ちていった。当たりこそしたが、落下地点を変えただけで成功とは呼べないありさまだった。今夜幾度目か、落下したそれが水面を貫いて沈んでいった。
ギリ、と歯を噛み締める。
仕事として引き受けておきながら、それを遂行できない自分の能力不足に腹が立つ。
なまじ狩猟としての弓の腕を磨いた経験があったから、安易にできるだろうと考えていた自分の思い上がりに嫌気がさす。
「今のは惜しかったな」
背後から掛けられた声は、副師団長ソルマーレのものだ。
「練習初日でそれだけ寄せて行けるのだから、大したものだ」
神事ゆえに失敗は許されない。不測の事態に備えて数回のやり直しは認められるようだが、それでも初手で決めることができなければ、儀式に泥をつけるようなものだ。
繊細な技術が要求されるから、祭までの間、夫役の王太子と女神役の射手であるアレックスとの練習時間が設けられることになった。その間、夜間警備の任からは外されるようだが、練習相手があの王太子だというのだから素直に喜べない。
自分が上手くできなければ、できるようになるまで延々とこの練習に付き合わせることになってしまうのだ。
「失敗は失敗ですから……多忙な殿下に申し訳ないです」
「そう肩肘を張るな。殿下はそのような事を咎める方ではない。胸を借りるつもりでやれ」
咎めないのは分かっている。そう言われても、悔しさが軽減されるわけではない。
男として不十分なのだから、せめて働きくらいは満足にしたいのに、まだまだ自分は未熟なのだと思い知る。
「はい」
返したその言葉が、胸の中に矢尻となって残るような気がした。納得など、できるはずもなかった。
結局その日の練習では、対岸から放たれた矢を射抜く事はできなかった。
「ライゼル大佐からの要請がきた時はどうなるかと思いましたが、何とかなりそうですね」
午後、政務が一段落したのを機に、執務室で
新しく側近となったセーラムに加え、今日は珍しくソルマーレの姿もそこにあった。
今までは多忙で午後に休憩を取ることはあまりできないでいたが、人手が増えた事で時間的に余裕が持てるようになっていた。
セーラムは筆圧が高いのか、すぐにペン先で紙を破く癖があるので書き損じできない書類は任せられないが、その分他の仕事を割り振れるようになって、ベリタスの仕事も楽になっていた。事前に予想していた通りそれなりに能力の高いセーラムは使える男だった。
王太子執務室の隣に簡易の給湯室があるので、そこでベリタス自らが茶を淹れて休憩をとることが多い。
いくら優秀な側近とは言え、貴族階級出で不慣れなベリタスが淹れた茶など軍の携帯食の茶よりマシという程度の代物だ。上質な茶葉の分だけ味は保証されているが、味わうというよりは喉の渇きを潤す為に飲んでいるようなものだ。
茶会の優雅さのようなものはかけらもなく、休憩を取って作業効率を上げる為の時間に過ぎなかったが、今日は珍しくベリタスが茶菓子を切り分けている。
銀製のナイフで、白い蜜のようなものがかかった長方形のケーキを、人数分以上に切り分けていく。
「以前頂いたアイスワイン、妻がとても喜んでおりました。こちらは妻から殿下にと預かってまいりました」
切り分けられたそのケーキから無作為に四切れを取り出して、さらにそれを四等分する。
銀製の皿にそれぞれから一個ずつを取り出して盛り付けたあと、フォークとともに各人の前に置いて行く。
「珍しいな、見たことがないぞこの焼き菓子」
ソルマーレが手にした皿を目線にあげて観察している。
「今王都で流行りの菓子なのだそうですよ。なんでも、ベルモント商会が貿易で輸入した果実を使っているらしくて」
人気があるからなかなか手に入らないとかで、使用人に並ばせてまで求めたと妻が言っていた。
ベリタスが席についたのを確認して、カイルラーン以外の者たちはそれぞれが好きなように茶と菓子を口に運ぶ。
いち早くケーキを口に放り込んだソルマーレが、うまい、と呟いている。
主が供された物に手を付けるのが遅くなるのはいつもの事なので、皆それを気にしない。時間差で口にするのは毒見を兼ねているからだ。
豪快にケーキを平らげ、口の中の甘味をまだ熱い茶で流し込んだソルマーレが口を開く。まさに軍人は早飯を地で行く男である。
「練習初日は殊勝な事を言っていたぞ。殿下に申し訳ないと」
ソルマーレが穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、カールラーンの眉がピクリと動く。
「殊勝なんじゃない。あれは負けん気が強いだけだ……あらかた上手くできない自分を俺に見せたくないとかそういうやつだ」
渋い表情をしながらあらぬ方向を向いて背もたれに体重を預けているカイルラーンを見て、ベリタスが楽し気な表情で口を開く。
「かわいいところがあるじゃないですか、負けん気結構。それも成長するには必要な要素ですよ……負けん気と向上心は同義です」
「まあな……師団裏で弓の練習までせんでも良いとは思うがな」
初日に成功させられなかったのが余程悔しかったのか、業務後に師団裏の人気のない場所で黙々と弓の練習をするアレックスを腹心のルカが見かけたというのを聞いて、ソルマーレは大笑いしたものだ。
難易度の高い仕事をさせているのは関係者なら分かっている。ここ数年王太子と組んで相手役を勤めていたキリルでさえ、最初の頃は矢の高度を合わせる事すらできなかったのだ。それをあの負けず嫌いはたった三回目の練習で九割方射落とすまでに仕上げてきたのだから、上出来というものだ。
「リカチェ様も準備に辣腕を振るってらっしゃると聞きますし、当日が楽しみですね、殿下」
また黒い笑みを浮かべたベリタスの言葉に、カイルラーンは憮然とした表情で「知らん」とだけ返し、皿に載った一欠片を手掴みで口に放り込む。
日常甘いものを習慣的に摂る事のないカイルラーンだが、口の中に広がった爽やかな味が、少しだけ自分の苛立ちを緩和してくれるような気がした。口のなかにまとわりつくような甘さは苦手だが、これはなかなかに美味いものだと思う。
「うまかったと奥方に礼を言っておいてくれ」
「お口に合ったようでなによりです。妻も喜びますよ」
母が何か企んでいるのには気づいている。アレックスを害するようなことにはもちろんならないだろうが、それがあの負けず嫌いの心を折るような事にならなければ良いのにと思わずにはいられない。
どちらにせよ、神事にばかり気を揉んでいても始まらない。なるようにしかならないのだから、自分がやるべきことを精一杯勤めるのみだ。
頭の中から懸念を振り払うように少しぬるくなった茶を口に含んで、気持ちを切り替える。仕事はまだ残っているのだ。
カイルラーンが再び書類に手を付け始めたのを一瞥して、ベリタスは向かい側の席に座るセーラムを見る。
出来上がってきた書類を関係各所に届けるため、丸めて封蝋を掛けている最中だった。
できる後輩はこうして雑談していても、それに割って入るような事もない。話題がアレックスの事になっても、顔色さえ変わらない。
その澄ました端正な顔が主との不毛な戦いでどう変わって行くのだろう。ますます楽しくなってきたな、と内心でほくそ笑んだ所で、ソルマーレが席を立つ。
出来上がったばかりの軍部関連の書類を手にして、執務室を出て行った。
今は楽しんでいる場合ではないな、と茶器を端に追いやって、再び書類を手元に並べた。
星渡り祭の当日、アレックスは神事の衣装に着替える必要があるということで、内宮にある一室に呼び出されていた。
時は夕刻、空がうっすらと橙に染まりつつある頃合である。
部屋に届いた女性近衛隊長からの手紙には、何故か部屋付き侍女も伴って来るようにとの指示があった。人数の記載がなかった為、キミーとサラ両方を連れて行く事にした。
部屋に入ると、そこには内宮に所属している侍女が数名待ちかまえている。
年齢を見比べたのだろう、内宮付き侍女はキミーに儀式衣装一式を手渡す。
「王妃様より、アレクサンドル様の御召替えは部屋付きの方にお任せするように言われております。お二人にお任せ致しますので、あちらでお支度をお願いいたします。上から順に身につけて頂ければ良いようになっております。着せ方が分からない場合には、遠慮なくお尋ねくださいませ」
衣装を受け取ったキミーはかしこまりました、と返事をする。
三人で目配せしあって、部屋の奥まった場所にある衣装室の中に移動する。
今日の為に用意された部屋なのだろう。部屋全体は掃除が行き届いて空き部屋特有の埃っぽさは感じられないが、中は衣装の一つもなく空っぽでがらんとしていた。
着替え始めると、部屋付き侍女を連れてくるように言われた訳がわかった気がした。
手渡された衣装を覆った布包みを開くと、一番上は女性用の下着だった。
「ああ、こういう事か」
思わず顔を利き手で覆う。
王妃リカチェが高笑いする様子が目に浮かぶようだ。
これこそ完全にまんまとハメられた訳だが、ここまで来てはもう逃げられない。
日常紳士物しか着用しない事を知っているキミーとサラが心配そうな顔をして立ち尽くしているのに気付いて、二人に笑いかける。
どこで誰が聞いているか分からないから、うかつな事は口にできなかったのだろう。
「大丈夫、心配しないで」
諦めて着替える事にして、服を脱ぎ始める。
下着を履き替える時は二人共アレックスを気遣って、脱いだ物を畳んだりして見ないようにしてくれた。
厚手の胸当ての付いた腰丈のチューブ状の肌着と、女性用の下履きを身につける。臀部に薄い布が張り付いているようで、履き慣れない身には少し違和感がある。それは、尻が半分露出しているような気持ち悪さだ。慣れるしかないのだろうが、心もとなさに下半身に力が入ってしまう。なんでも良いから早く衣装を着込んでしまいたい。
下着が無事着用できたのを確認したキミーが次に手にしたものは、腰巻のような形をしている。ウエストを一周以上できる長い腰紐に、踝丈の長い布が二枚縫い付けられている。それを体の前後に来るように巻いて、腰紐で抑えて固定する。
最後は柔らかく真っ白い布で出来たガウンだった。前合わせの袖なしで、項や肩甲骨、鎖骨に二の腕まで見えて、露出度は高い。ウエストを帯で固定して完成だが、腿上から左右に布が分かれているため、歩けばひざ下から素足も見える。丈は踵につくかつかないかぐらいだ。
まさに女神たる装いで、それは完全に女装だった。
「お似合いでいらっしゃいますよアレックス様」
キミーが笑顔で言う。それにサラもうんうんと頷いているが、鏡がないのでどんな状態になっているのかアレックスには分からなかった。
外側から「御召替えは終わられましたか?」と声が掛かる。
「包みの中の物は全て身につけられました」
サラがそう返すと、失礼しますと内側に入って来る。
その侍女はサンダルを手にしていた。
確かにここまで履いてきた靴では衣装にそぐわない。つま先に揃えて置かれたサンダルを履いて、アレックスは衣装室を出る。
数名居た侍女の顔が、揃いも揃って驚愕したような表情で困惑する。それはどう言う意味の顔なのだろう。
職務を思い出したのだろう、その中の一人が、こちらへと鏡台の前の席を示す。
それに頷いて、アレックスはその椅子に腰をかける。
鏡の中の自分は、特に問題があるとは思えなかった。強いて言うなら衣装だが、違和感を覚える程おかしいわけでは無かった。
鏡の中には上半身しか映って居ないので、全体を見ればまた違うのだろう。
髪でも結うのかと油断していると、あろうことか侍女達は化粧道具の置かれたワゴンを引いてくる。鏡の中でそれが近付いて来るのを確認して、大きく目を見開いた。
「……う゛っ」
思わず、喉の奥から呻くような声が漏れる。
副師団長のあの笑顔の意味が分かった気がした。これを知っていたな、と腹の中で苦々しく思う。
何もかも、もうどうしようもなかった。半分は女なのだ、と開き直って、内宮侍女たちにされるがままに任せて瞳を閉じる。目を開いていても何やら恐ろしいだけで、あえてそれを凝視する勇気はなかった。
おまけに顔に塗りたくられたり、髪を弄り倒されているのは分かったが、その上宝飾類まで纏わされている感触が伝わって頭を抱えたくなる。
無心でやり過ごす事しばらく、終わりました、と声が掛かったのを耳に拾って恐る恐る目を開くと、そこには自分ではない者が映りこんでいて唖然とした。
複雑に編みこまれ結い上げられた髪に、別人のように彩られた化粧。首元には光る粉をはたかれて、何故かそれが艶かしい。ヘッドティカにそれと対になるデザインのイヤリングが耳朶にぶら下がっている。二の腕にバングル、手首にブレスレット。着けられたアクセサリーの分だけ物理的質量も気分も重かった。
―――どうして引き受けたんだろう、私。
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