22・月下

「はぁ……疲れた」

 アレックスはシャルシエルの部屋を辞して、自室に帰ってきたばかりだった。

 招待された茶会には、結局みっちり二時間ほど付き合わされた計算である。

 これなら士官候補生時の訓練の方がよほど楽だったと思いながら、ソファに腰を下ろす。

「おつかれ様でございました。そんなに気を使われたのですか?」

 心配するような表情をして近付いて来るサラに、脱いだコートを手渡す。

「ああ、油断していたよ。まさか他家の令嬢まで招待されているとは予想していなかった」

 ウエストコートの立て襟の首元のホックも外して、一息つく。

「まぁ、それは大変でございましたね。招待状には他の方のお名前はなかったのに……」

「本当に、シャルシエル嬢は油断ならない人だよ……それでも、茶会に参加したのは無駄ではなかった」

 天井を見上げながら、先ほど辞した部屋にいた令嬢達を思い浮かべる。

 思った通り、全員が政治的に重要なポストを得ている家の令嬢だった。

 ビビアンは現宰相クロウェル侯爵弟の娘で、イデアは財務長官の二女、キティは司法次官の一女だったのだ。

 会話の内容も実に油断ならないもので、普通に世間話かと思えば、女性特有のとりとめのない噂話にまぎれた政治の話だった。

 それぞれが国権の中枢に居る家の令嬢というだけあって、恐ろしいくらいに政情に詳しかった。

 女性は表の舞台では活躍できないというが、夜会で得られる情報と言うのも馬鹿にできないらしい。

 内容の九割以上は実のない話だが、その残りの一割に重要な情報が紛れているのを身をもって体験してしまった。

 驚いたのは、アゼリア・ハイリンガムが正妃候補から外されていた事だ。関わり合いたくないので忘れていたが、そういえば茶会の席にも居なかったな、とその時初めて認識した。

 令嬢達が言うには、城内で流れた自分アレックスの噂を広めたのがアゼリアの侍女であったのを知った王太子が、貴族としての品位を損ねたとして処分を下したらしい。

 あの男の手腕については何となく分かっているからそれについてはさもありなんといったところだが、彼女達がそれを知っているということの方に驚愕を禁じえない。

 おそらくサラも知っていたのだろうが、自分を気遣ってあえて言わなかったのだろうという事はわかる。

 シャルシエルには社交嫌いを見透かされていたが、彼女の言うとおりその考えを改めなくてはならないのは実感した。だが、実感したとはいえ気が重いのもまた事実だった。

「あまり気乗りはしないが、今後こういった機会は増えると思う……またサラのご実家に無理を言うことになると思うけど、その時は頼むね」

「我が家がお役にたてるのでしたら、ご遠慮なく。母なんてアレックス様からのお手紙が余程嬉しかったようですから。懇意にしていただけるだけでありがたいと手紙に書いてありました」

「そうか、それなら良かった。今回のケーキ、なかなか好評だったよ」

 茶会のテーブルにはクリームやジャムの添えられた定番の焼き菓子や飴菓子、旬の果物が並んでいたが、重い味の焼き菓子に慣れた味覚にはシトロンの爽やかさは新鮮だったようで、どの令嬢も美味しいと言って口にしていた。

「それはよろしゅうございました」

 褒められたのが嬉しかったのだろう、サラが満面の笑みを浮かべている。

 アレックスも付き合いでいくつかの焼き菓子と果物を少量ずつ口にしたが、食べる事は早々に放棄してしまった。

 あの令嬢たちはそれなりに華奢なのに、なかなかの量の菓子と茶を口に運んでいた。皆よくあれだけ甘いものが進むものだと感心する。

 そして、止まることなく続く会話だ。淀みなく流れる会話に割って入ることもできず、首振り人形と化して聞いていたのみである。

 女性の茶会は怖い―――それがアレックスの偽らざる本心だった。

 

 

 近衛に移動になったセーラムは、王太子の自室扉前の夜間警備の為、その日二人組になった近衛と共に執務室でベリタスから警護を引き継いで、カイルラーンを挟む形で内宮の廊下を歩いていた。

 目指していた部屋に到着すると、前方を担当していた近衛が内側に不審者の有無を確認しに入室したのと同時に、金色の瞳が振り返って己の瞳を見つめる。

 それを怪訝に思っていると、視線は動かず利き手に紙片が挟まれたのを感じた。

 驚いて目を見開くと、王太子は口元に人差し指をあて、すぐに扉の方に視線を戻してしまった。

 しゃべるなと言う事は、誰にも悟られるなという事なのだと理解して、セーラムは隊服のポケットに紙片をすぐにしまいこむ。

 部屋の確認が済んだ近衛が出てきたのを確認して、王太子は「ご苦労」とだけ言い残して内側に消えて行った。

 翌朝、夜間警備の任を終えたあと、近衛隊長に業務報告をして事務所を出る。人気のない場所で昨夜手渡された紙片を開くと、そこには内宮の一部分と思しき地図が手書きで描かれている。

 よく見ると、それが王太子の自室の窓下に位置している庭園だとわかる。

 その庭園の奥まった場所の生垣付近に印がついていて、その下部に走り書きのような字で、指示が記されている。

『5の月二週緑曜日23時 隊服を着て指定の場所へ。誰にも見られずに来る事。万一見つかった場合は、王太子が紛失した剣飾を探しにきたと報告せよ』

 具体的な日時まで指定されているが、それが三日後の交替勤務終わりの時間だと分かって苦笑する。

 近衛所属の騎士の勤務時間まであの王太子がどうやって把握しているのか謎だ。側近のベリタス・アルラッセ大佐経由なら、わざわざ隠れて紙片を渡すような真似をしなくていい。という事は、どんな手を使ってかわからないが、夜間警備の目を掻い潜って、一人で庭園まで出てくるつもりなのだろう。本来護衛など必要ないほどあの王太子は強いが、その立場上単独行動はできないことになっている。

 ベリタスは紙片を再び隊服にしまって、頭をガリガリと掻く。

 面倒な事になる予感しかなかった。


 指定された日時に、人目を忍んで内宮の庭園にたどり着く。つい最近まで尉官割り当て区域の夜間警備をしていたおかげで、どの時間帯に人がどのように配置されているのかが大まかにわかって、思った以上にすんなりたどり着けて拍子抜けする。

 それでも誰に出くわすかわからないので、できるだけ足音を立てないように移動する。

 地図に記された場所に行くと、そこには既に王太子の姿があった。

 側近くまで行き、その場で片膝をついて跪く。

「参上いたしました、殿下」

 顔を伏せているので、王太子の表情は見えない。

「ここでの会話は何を言っても一切咎めぬ。俺も痛くもない腹を探られてはかなわんのでな」

 おそらく、近衛に知られていない秘密の道があるのだろう。そこが見つかってしまえば、封じられかねない。だからこそ、咎めぬ代わりに本心を話せと言っているのだと悟った。

「は。ご用向きを伺いたく」

「まずは立て」

 王太子の指示に従って、その場で立ち上がる。

 顔を前に向ければ、鋭い視線が己の瞳に飛び込んで来る。

「何故今更近衛に上がってきた」

 王太子の声は抑揚がなく静かだった。だが、声音に反してその眼光はまるで威嚇されているようだ。

 人が悪いな、と心の中で思う。直感的に、季節外れの移動理由を見透かされているのが分かった。咎めないというのだから、腹を括るしかない。

「もちろん、目的はアレックスですよ」

「正妃候補と分かっていながら恋着するか」

 その表情に、嫉妬や焦燥は浮かんでいない。石像のように無表情であるにも関わらず、視線だけは油断なくこちらを見据えている。

 王太子の腹の中は全く見えなかった。

「難しいですね……恋というなら恋なのかもしれませんが。男が男に惚れ込むってのがあるでしょう? イルキスなんかその典型なんだと思うんですがね。俺の場合はついて行きたい、というんじゃなく、肩を並べていたいというんですかね」

「では、女として見ている訳ではないと?」

「そこもまた難しいですね。もしもあいつが女になるなら、もちろん俺は自分のものにしたいと思っています。でも、そうなったら、殿下が正妃に選ぶでしょう? 殿下と違って俺の場合、あいつが受け入れない可能性もありますが」

 この王太子が相手では勝目がないのは最初から分かっている。王族に婚姻を申し込まれて断ることができる臣下などほぼいない。この男が本気でアレックスを正妃にと望めば、それを阻止する手立てなどない。だが、負けると分かっていても引けない時がある。自分にとっては今がまさにその時だ。

 綺麗に誤魔化して、心を偽って何になる。

「誰を正妃に据えるかは吟味している最中だ。あれを正妃にするとなぜ言い切れる」

「それはまぁ、俺が惚れたからとしか言い様がありませんね」

「そこまで入れ込んでおきながら、本当に男として見ることができるのか? お前が言うようにもし俺がアレックスを正妃に選んでも、王家に忠誠を誓えるのか」

 淡々と、まるで書類でも読み上げるような物言いなのに、その身に纏った空気は刺すように鋭い。

 戦場で闘気を纏って戦う姿を遠目に見た事はあるが、あの時となんら変わらない。

 距離がより近い分、気圧されて背中が粟立つ。

「人の心は移ろいますからね、未来の事は俺には分かりません。ですが、俺は心を寄せていなくても女は抱けます。頭と体は別なので。だから、そういう相手はアレックスでなくとも構わない。でも、共に戦うならあいつがいい……理屈じゃないんです。あいつが王家に忠誠を誓うなら、俺も共に歩みますよ」

 しばらく、月明かりの下に沈黙が降りる。

 昼間の大気は蒸しているが、この時期の夜はまだ肌に心地よい空気が漂っている。

 それも、今はこの王太子のおかげであまり感じないが。

「わかった……お前を近侍にする。断る事はまかりならん。王家はアレックスをいかようにもできる事を心得ておけ」

 明白な脅しだが、本音を晒したのだからそれを呑むしかなかった。結局のところ、惚れたほうが弱い。そして、それをいとも簡単に利用してくる王太子は、義務と感情は切り離せる人間なのだろう。

 わざわざ側近の居ない時間に呼び出してまで確認するのだから、この王太子にとってアレックスが特別なのはわかる。それが恋なのか、正妃候補ゆえの所有欲なのか、あるいは違う何かなのかは判別できないが。

「承知しました。お仕えいたします」

「追って通達が行く。近侍として仕えた日に返せ」

 そう言って、王太子は手にした剣から剣飾を取り外して差し出した。

 それを黙って受け取ると、カイルラーンもまた何も言わずに去って行く。

 暑くもないのに、額から汗が一筋こぼれ落ちた。剣飾がない方の手を固く握っているのを自覚して、指を開くと同時に弛緩して深い呼吸が溢れ出る。

 セーラムはその時初めて、自分が緊張していたのだと分かった。

 会話の内容を咎めないと明言したからといって、真実それが保証されるかどうかは分からなかった。内容が内容だけに、王太子自ら手打ちにされていたとしてもおかしくは無かった。それでもバカ正直に本音を話してしまったのは、あの男がそれを違えないだろうと言う事を直感していたからだ。

 士官候補生に上がる時、どの師団に所属するかの希望を出すのにシルバルド師団を選んだのは、誰に命を消費されるのがマシなのかと考えた末に、あの王太子が一番マシだと思ったからだ。

 結局のところ、自分自身があの男を認めてしまっている。

 どうあがいても勝てない相手に勝負を挑んでしまった己の馬鹿さ加減に、自嘲気味な笑みを浮かべて天を仰ぐ。

 細い月から降り注ぐ光がアレックスの髪の一筋を連想させる。

 あのはにかんだような笑顔が守れるならば、喜んで自由など捨ててやる、とセーラムは思った。



「キリルが産休? それはまたこの時期に困ったわね」

 王妃リカチェは自室で朝の支度をしながら、側付のリネットからの報告を聞いて渋面を作る。

 キリルは女性近衛に属する弓の名手だが、それがこの時期に長期の休みに入ることになったと聞いて思案する。事情が事情だけに咎められるわけもなく、かと言っていきなり他の女性近衛に代役をさせるのは危険すぎた。

「騎士団内で弓の名手に打診しますか」

「神事に男の代役を立ててどうするのです」

 六月の半ばに国を挙げて開催される星渡り祭は、国民の休日と定められている。

 もちろん、休めるのは一般市民だけで、国政に携わる者や騎士団は休むことなど出来ない。

 国の基になった神話によると、女神アレシュテナの夫は人間であった。その夫との間に出来た子の末裔とされているのがアレトニア王家である。神の国から人の地に渡る道を作るため、夫の代役である王族の男子と、女神の代役である女性が協力して、年に一度のその神事は行われる。

 王宮の池の真上に向かって、燐光する石の粉末を入れた袋をつけた矢を打ち上げ、火矢でそれを射抜くのである。

 上手く射られれば夜空でそれが燃え爆ぜて、アレシュテナが渡る道ができるとされている。

 燐粉を打ち上げる側の夫役の王族―――カイルラーンにも弓の腕は要求されるが、問題なのはそれを射抜く女性の方だ。

 キリルに何かがあった場合に備えて他の女性近衛にも弓の練習をさせてはいたが、万年人手不足であるのと、弓にもセンスが要求されるため、成果は芳しくなかった。

 そこにきてキリルの産休である。

「殿下に火矢を担当していただくのは無理なのでしょうか」

 より精度が求められる火矢よりも、燐粉を打ち上げる側の方がまだ神事がつつがなく終わる可能性は高い。

「高く上げないと落下が早いから……」

 より高く射てこそ、それに合わせて火矢を射掛けることができるのだ。それには男の腕力が必要だ。落下が早くては燃える位置が低くなってしまう。

「いや……今年は適任がいるじゃないの」

 リカチェはそう言って、紅を引いた妖艶な口元を楽しげに歪めた。

「カイルラーンを呼んで頂戴」

 かしこまりました、とリネットは頭を下げた。

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