16・変化

 騎馬修練場に冬の名残をとどめた太陽が沈もうとしている。

 遠く浮かんでいる雪雲の灰色と濃い赤焼けが混ざり合って流れて行く。

 広大な馬場と空の間を、ただ一つ馬を駆る黒い影が疾走していく。黒く見えるのは馬が青毛だからで、その背に騎乗する人影は白い。

 馬上槍術用の木製の長い棍を肩に担いだまま器用に手綱を捌いて、走り足りない愛馬を駆っている。

 午後の馬上訓練を終えて同僚達はすでにこの修練場は後にしている。訓練終わりにもう少し走りたい様子を見せたレグルスに付き合って、相棒を好きに走らせていた。

 そのまましばらく走らせていると、納得したのか速度が落ちた。やがてゆっくりと徐行して停止する。

 ブルブルと鼻を鳴らすレグルスのそれを、前かがみになってなでてやる。鼻先は汗をかいてしっとりと濡れていた。

 訓練中は上着を脱いでいるから、自身の熱はあまり感じない。心地よい風に吹かれながら、ほんの少しの間空を眺めてから太ももに力を入れた。

「帰ろう」

 レグルスを城内に入れてからもうひと月になる。師団の厩舎への道もすっかり覚えたようで、帰ろうと声をかければ手綱を引かずとも勝手に帰ってくれる。

 厩舎の前でレグルスの背を降り、手綱を手にして与えられた馬房に向かう。

 先に修練場を出ていた者たちの姿がちらほら見える。皆黙々と馬の世話をしているので、声は掛けない。

 軍人にとって馬は半身と言って良い。だから皆自分の馬はできるだけ自分で世話をする。そうやって馬との信頼関係が出来上がるからだ。

 訓練や任務の都合上、どうしても毎日世話をしてやれないこともあるので、厩舎に常駐した馬丁に任せる事もあるが、訓練終わりは必ず世話をするようにしている。

 馬房にレグルスを入れて手綱と鞍を外し、壁に掛けていた布で丁寧に汗を拭う。

 厩舎裏の井戸で新鮮な水を汲んできて、鼻先にそれを置いてやる。するとレグルスはそれを飲み始めた。

 相棒が水を飲んでいる間に馬房の中を綺麗に掃き出して、飼葉桶に新しい牧草を入れてやる。

 ひとしきり水を飲んだあと、今度は牧草を食み始めた。黙々と咀嚼している間に、ブラシを掛ける。何種類かを使い分けて体やたてがみ、長い尾を解きほぐしたあと、使った道具を片付ける。脱いでいた上着を着込んで帰る準備を整えた。

 相棒の首に手を当てて、軽く撫でながら叩くようにする。

「今日もおつかれ様。戻るよ」

 耳を横に寝かせて、レグルスは鼻を一つだけ鳴らした。

 人間でいうなら「おう」といったところか。

 去り際に黒い瞳を覗き込んでから、棍を持って厩舎をあとにした。

 備品庫に棍を返しに行くのに師団入口に差し掛かると、普段ならこの時間には人の途絶えた演習場に、珍しく大勢の者が集まっているのが見える。

 もう日は落ちているのに明るいのを疑問に思うと、演習場の外燈に火がいれられているのがわかった。

 普段なら厄介事は極力避けたいからそんなことはしないのに、今日に限って吸い寄せられるようにそちらに足を向けてしまった。

 人垣の隙間を縫って内側に入り込み演習場を覗き込むと、そこにいるはずの無い人物を認めて目を見開く。

 そこには、王太子カイルラーンと師団に所属する佐官と副師団長、それにいつも王太子が連れている側近の近衛の姿が見えた。

 乱取りという形になるのか、皆それぞれ訓練用の武器を手に王太子に向かって打ち込んでいく。

 状況でいえば多勢に無勢といった様子だが、実際には多対一でもまったく引けをとっていない。打ち込んでいる者全員が隊服の上着を脱いでシャツ一枚のラフな格好になっているが、対になったズボンの色で、濃紺組だと全く歯が立っていないのがすぐに分かった。

 初めて夜会で自分に近づいてくるのを見たときも思ったが、戦う姿までもが黒豹のようだ。抜き身の剣のような研ぎ澄まされた空気と、獲物を狩る肉食獣の瞳が油断なく相対したものを屠っていく。

 シャツの下にある筋肉が滑らかに動く様までもが目に見えるようで、アレックスの背中は総毛立った。やはりこの男は強い。

 いつから打ち合っていたのかわからないが、気がつけば濃紺組はことごとくが地に伏して、今まさに側近が薙ぎ払われて背中から倒れ込んだ所だった。

「最近鈍っていると感じてたが、鈍っているのは俺だけではなかったな……情けないぞ、お前たち。がっかりさせるなよ? ソルマーレ」

「戦場を出てすっかり牙が丸くなったと感じておりましたが、そうではなかったようで安心しました。このソル爺が殿下の尻を叩いてやろうと思っておりましたゆえ」

 副師団長が言う程に年は取っていないが、王太子には通じる冗談なのだろう、軽い調子でそう返した後、なんの合図もないまま二人は打ち合いはじめた。

 さすがに副師団長というべきなのか、他の者たちのようにすぐに決着はつかない。

 打ち合う剣の規則的な金属音が演習場に残響を残す。刃は潰れているから打ち付ける音はくぐもって鈍重で、副師団長が振り下ろす剣は見た目にも明らかな質量を伴っている。

 それを事も無げに受け止めながら、カイルラーンは刹那の隙間に突きこんで薙ぎ払った。

 あわや、というところでそれを回避して、後ろに飛びすさるソルマーレのブーツが演習場に砂埃をたてた。

 倒れたわけではなかったが、副師団長はその場に立って構えるのをやめた。

「殿下の勝ちですな。本日はそろそろ……この者たちも家に帰してやりませんと」

「ああ……そうだな。付き合わせたな」

 自分が戦っていたわけでもないのに、鼓動が少し早い。戦うその一挙手一投足から目が離せなくて、結局最後まで観戦してしまったのがなんだか悔しかった。

 そろそろ帰ろう、と顔を上げたその一瞬、遠く離れた王太子と視線が合った。

 ぞわ、と背筋が粟立つ。

 濃紺組がカイルラーンに一礼して去って行くのに紛れて、アレックスもその場から抜け出した。

 歩きながら、手にした棍をじっと見つめる。自分の手にも良く馴染む、既存品よりもやや細めのそれ。

 急遽欠員がでた尉官の代わりに昇進初日に内宮の警備に入った夜、偶然その庭園で出会ったきりひと月程王太子の顔は見ていなかった。

 あの時交わした言葉はきちんと副師団長に伝えられたのだろう。そのあとすぐに、女性近衛の装備品が師団の備品として下りてきた。

 それを使うのがアレックスただ一人だからなのだろう、新品を揃えればまた特別扱いだのなんだのとうるさいのを見越してか、使い込まれて古くなったものが備品庫に届けられているのを見て感心したものだ。それと同時に、特別扱いしないでいてくれるのが嬉しくもあった。

 言葉を交わせば詳細を省く癖のあるあの王子に良い印象はなかったが、案外そこまで冷血ではないのかもしれないと思う。

 何がおかしかったのか言葉尻を捉えて笑われたが、楽しそうに笑う顔を思い出すと、先ほど戦っていたのとは同一人物とは思えない。

 どちらも、王太子の本当の姿なのだろう。それすらも、ほんの少し垣間見た一部分にすぎないのだろうが。

 備品庫の武器架に棍を戻して、自室までの帰り道を急ぐ。今日はいつもより遅くなってしまったからキミーとサラが心配しているだろうか。

 部屋の中に入って室内を見渡すと、侍女二人の姿はなかった。

 化粧室の方から物音が聞こえるので、そちらに歩いて行く。中を覗き込むと、風呂の用意をしているサラが見えた。

「ただいま」

 アレックスの声に、サラは驚いたように顔を上げた。すぐに笑顔を浮かべて、口を開く。

「おかえりなさいませ。今日は遅くなられたのですね」

「うん。レグルスが走り足りないっていうから、ちょっとね」

 さようですか、とそれ以上追求しないサラの気遣いを心地よく思いながら、アレックスは上着を脱いだ。

「もう、このまま入ってしまうよ」

 時間も遅くなってしまったし、のんびりしていたのではサラとキミーが休めない。

 昼間は主であるアレックスが居ないとはいっても、その間も彼女たちには後宮を維持するための仕事がある。

 アレックスの自室の掃除に始まって、後宮の割り当て区域の掃除に、寝具や衣類の洗濯。アレックス宛の手紙や荷物の受け取りといったその他の細々した雑用もある。

 衣食住は保証されているし多少の給金も出るが、拘束時間を考えるととても楽な仕事とは言えない。それでも文句も言わず尽くしてくれるのだから、せめて夜は早めに開放してやりたかった。

 シャツのボタンに手をかけた所で、サラが慌ててそれを止めた。

「アレックス様、キミーを呼んで参ります。少しお待ちください」

 初日こそキミーをさん付けしていたサラだが、共に働く以上は同僚であり、対等である。今ではサラとキミーは互いに敬称抜きで呼び合っている。

 慌てた様子でサラが出ていこうとするのを、アレックスは内心でそれはそうか、と思いながら止めた。

「待って、もういいんだ。いつまでもキミーにばかり風呂の介助を頼めないのはわかっていた。私に勇気がなかっただけだ、サラ」

 入宮してからもう二ヶ月が経っている。その間サラに風呂の介助をさせないでいたのだから、気づかれているとは思っていた。

 否応なく、自分の裸体を晒す行為に踏ん切りがつかなかったのは自分のせいであってサラのせいではない。

「目にしたところで好ましいものではないけれど、仕事だと思って目を瞑っていて」

「そんな、私なんかに介助をお任せいただけるなんて、光栄です」

 感極まった様子で言うサラに、自嘲気味に微笑んで下着以外の服を脱いだ。

 サラが出会った当時よりも、薄く載っていた脂肪は姿を消し、華奢な骨格にしなやかな筋肉がついている。皮膚の下でうっすらと線が見える胸筋と腹筋が呼吸するたびに上下して、サラの目にアレックスの姿はとても美しく映った。

 確かに、自分の体とはまるで違っているし、おそらく男性の身体とも違うのだろう。

 けれど、その姿に嫌悪感など微塵も感じなかった。

 髪を括っていた紐が解かれて、サラに手渡される。それを受け取ると、アレックスが下履きに手を伸ばしたのに気付いて髪紐を洗面台に置くふりをして背中を向けた。

 不可抗力で目に入るのは仕方がないとしても、まじまじと見てはいけない気がした。

 アレックスがバスタブに身を沈めたのを耳に拾って、サラは脱がれたものをまとめて衣類かごに入れる。先ほど脱いだばかりの下履きは紳士物だった。

 一緒に外して床に置かれていた剣を持って一度化粧室をでると、キミーが部屋に戻って来ていた。

 キミーは何も言わずにサラの手から剣を受け取って、穏やかな笑みを浮かべた。

 それに何も言わず頷いて、サラは化粧室に戻った。

 訓練で疲れているのだろう、アレックスは湯船の中で目を閉じている。その健気さがいじらしい。それと同時に少し寂しい。

 王太子の口から、師団の訓練は過酷だと聞いている。たとえ半分は男だとしても、現実問題として埋められない体格差がある。訓練はきっと大変なはずだ。

 それでも、サラはこの美しい主から弱音を聞いたことは一度もなかった。

 頑張るその心根は清々しいほどに真面目で、潔い程に真っ直ぐだが、いつか何かの弾みで折れてしまうのではないかと心配になる。

 せめてこの部屋にいるときくらい、弱音を吐いたって良いのに、と思う。

「アレックス様、御髪を洗いますね」

「うん」

 半身を起こして、アレックスは首を垂れた。

 その髪に泡立てた石鹸を載せて頭皮を揉み込むように洗う。指を差し入れたアレックスの髪は細く柔らかなコシのない猫毛だ。毎朝アレックスの髪を括っているサラの密かな楽しみが、この気持ちの良い手触りだ。

 洗われるのが心地よいのか、前髪を洗う時に顎を上げて瞳を閉じている顔が猫のようで、あの王太子が絶対に知らない姿を知ったのだと思うと、なんだかサラは優越感で嬉しくなる。

 二年後、アレックスがどう変わって行くのかなど、自分には想像もつかない。

 今は青年のようなアレックスが女性へと変化して王太子に選ばれるのかもしれないし、違う令嬢が正妃として選ばれるのかもしれない。男性として今のまま軍に残るのかもしれないし、その先ふさわしい令嬢を娶るのかもしれない。

 わかっているのは、自分はこれ以上のことは望めないということ。恋というには僭越過ぎて、何を望むではないけれど、この心優しく頑固な一面を持つ主を支えて行けたら良いと思う。

 しばらくそうして風呂の介助を手伝ったあと、湯から上がったアレックスの髪を拭く。

 粗方水気が切れたのを確認して、あとはできるという主の言葉に頷いて化粧室をでた。

 風呂の準備の前にキミーが席を外していたのは、アレックス宛に届いた物を準備していたからだった。

 部屋の中央の席にそれらが置いてある。

 化粧室から髪を拭きながら出てきたアレックスが、それを見つけて首を傾げる。

「ずいぶんたくさんだね」

「まぁ、アレックス様ったら。今日はお誕生日でございますよ」

 キミーがクスクスと笑いながら、アレックスに伝える。

 アレックスはすっかり忘れていたが、今日は十八歳の誕生日だったのだ。

「ああ、そっか。今日誕生日だった」

 ソファに座って、それらを一つずつ確認する。

 母からの手紙がついた小さな包みと、シノン本家とローゼンタール本家からの贈り物の包みが一つずつ。そこにもう一つ、目先の変わったボトルが一本。贈り主が分からないそれを見て、誰からだろうと思っていると、サラの声が傍らから掛かった。

「それは、王太子殿下からです」

「え?」

 身上調査をされているのは分かっているから誕生日くらい知っていてもおかしくはないが、まさか贈り物が届くとは想定していなかった。

「お立場上、形に残るものはお選びになることはできないらしくて、使ったらなくなるものでアレックス様のお好きなものを、と女官長経由でお尋ねになられて。お化粧はされませんし、あまり間食もされないので、私も何をお伝えしたら良いのか分からなくて……お食事はあっさりしたものを好まれる事をお伝えしましたら、こちらが」

「そうか……いない時に気を遣わせてしまったね」

「いいえ、気を遣うだなんてとんでもない」

 よろしゅうございましたね、と微笑むサラに釣られて笑う。

 手にしたそれを改めて確認すると、ワインの一大産地であるリンデル領で作られたアイスワインだった。透明のボトルの中に、とろりとした琥珀色の液体が入っている。

 さほど大きいものではないが、これだけでもそれなりに値の張るものだ。

 立場上形に残るものは贈ることはできないという事は、正妃候補全員の誕生日に贈り物をしている事になる。いつものあの仏頂面で贈り物を選んでいるのだと想像して吹き出した。

「ぶっ……」

 面倒くさいのに嫌々やっているのが目に見えるようでおかしい。

「どうかなさいました?」

「ん? いや、気にしないで。ちょっと色々思い出しただけ」

「さようですか? ……お食事をご用意いたしますね」

「ああ、頼む」

 サラとキミーが食事の用意をし始めたのを機に、残りの贈り物を手にとった。

 まずは母からの贈り物を、と、包みに掛けられたリボンから手紙を引き抜いた。




※アイスワイン/冬季、樹上で完熟凍結した葡萄で作った糖度の高い甘口のワイン

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