18・蜜蜂

「面白いわね。あなた余興にこのリネットと一試合戦ってみせてちょうだい」

 リネット、とはおそらく王妃の背後に控えている女性近衛の名だろう。

 王妃リカチェの蒼い瞳が、アレックスに向けられる。

 企むように笑ったその表情が、腹が立つくらいに王太子と似ていた。

「王妃様のご用命と言えど、それはお断りいたします」

 王妃の要望に否と言った事で、その場にいる者達に緊張が走る。

「返答次第によっては困った事になるのはあなただというのはわかっているわね?」

 厳しい表情で鋭く切り込んでくる言葉が、春の暖かな陽気を一瞬で凍らせる。

 権力を持ったものはそれを振るわずにはいられない。ましてそれが許される身分で一番最高位の女性だ。

 目の前のこの女が、果たしてお飾りなのかそれとも本物の後宮の女帝なのかまだアレックスには判断が付かない。

 だがあの王太子の母で、切れ者と言われる現王の正妃だ。悋気の果てに側妃を牽制するだけの女だとは思えなかった。

 固唾を呑んで見守る周囲の視線が自分に注がれているのを感じながら、表情を無くして口を開く。

「私は今、警護の任についております。上官である師団長の許可なく他所属の方と試合をする権限を持ちません。また、この隊服を着ている身で女性相手に武器を使うような事は控えさせていただきます」

 つまり、試合をするならカイルラーンを通せ。互いに騎士といえども男の身で女性に手を上げないと遠まわしに言った事になる。

 たとえ王妃といえども軍部にまでその権限は及ばない。余興の試合を断ったからといって、処分を下したりはできないはずだ。まして息子の師団に所属している騎士である。母がその騎士にやり込められたくらいで気分を害して人事にまで口をはさんだとあれば、王妃としての自分はおろか、王太子の沽券に関わる。

 この場には騎士としての任についているだけで、正妃候補として参加しているわけではないから、後宮においても手出しはできないはずだ。

「あくまで王家ではなく、我が息子に忠誠を誓っているというわけね」

 果たしてその息子に忠誠を誓っているのか自分では疑問だが、ここでそれを否定したところで話がややこしくなるだけだ。いささか不満ではあるがそこについては目を瞑る事にする。

「どなたを第一に考えるかということであれば確かに王太子殿下ですが、ひいてはそれが王家に忠誠を誓う事になると思っております」

「上手く言ったものだこと……かわいくないわね。でもまぁ、今日の所はあなたに理があるようね。あなたに何かをさせるならカイルラーンを通す事にするわ」

「ご理解頂きましてありがとうございます」

 王妃が手にした扇を広げ、口元を隠した事でアレックスは内心で胸をなでおろした。それは、この話はこれ以上しない、という意思の現れだった。

 なんとか厄介事は回避できたようだが、きっかけを作ったシャルシエルには一杯食わされた気分だ。

 正妃候補である自分を蹴落としにかかったのか、あるいは他に別の意図があったのか。とにかく、この目の前の王太子の従兄妹は信用ならない。

 場が凍りつくような王妃とアレックスのやり取りなどまるでなかったかのように、茶会は和やかに進行していく。

 しばらくそうして雑談が続いていたが、誰ともなしに庭園を散策するという話になったようだ。

 席の決められた茶会では、座ったままだと近い場所にいる者としか交流できない。庭園内を自由に散策するのは想定済みで、そのために近衛が警備を敷いている。

 シャルシエルが席を立ったのを機に、アレックスもまた彼女の背後に控えて移動する。

 警護といえどもただ黙って付き従うのみである。周囲に気を配りながら、目の前の女性を観察する。さすがは筆頭公爵家の令嬢だけあって、受け答えも品よくそつがない。動く所作も美しく、美醜も整っていて欠点がなかった。

 これならば、自分を敵視する必要などないように思える。だからこそ、先ほどの行為が腑に落ちない。

 後ろに控えて歩いているうちに、庭園の端にある池の中央のガゼボまで来ていた。

 すでに他の正妃候補の姿はなく、今は自分とシャルシエルだけだ。

「少し人に酔ってしまったみたい。ここで休憩する間、話し相手になってくださるかしら?」

 正妃候補であるならともかく、今は一介の軍人にすぎない。それを断る事ができるはずもなかった。

「私で良いのなら喜んで、お嬢様」

 アレックスの返答に、シャルシエルは満足したようにふふふと笑って、ガゼボの柵に沿って作られた椅子に腰をおろした。

 もちろんアレックスは、入口に立ったままだ。

「お掛けになってと言いたいところだけど、今日は座ることはできないのでしょうね」

「はい」

 暖かい春の陽気にのって吹き抜けた風が、池の水面をさらって行く。肌に心地の良い風が、きっちり着込んだ隊服の内側にこもった熱を取り去ってくれるようだ。

「あなたは不思議なかたね。実物をみるまで、どんなにいけ好かない女なのかと思っていたのだけど」

 女―――つまり、正妃候補としてのアレックスだ。

「まさか殿下の師団に入る正妃候補がいるなんて想像もしていませんでしたわ」

「女性として入宮したとして、私に何ができるわけでもありませんから」

 他の令嬢のように女性として入宮したとして、今の自分には王太子に選ばれる資格など無かった。そもそも女ではないのだから、最低限の義務すら果たせない。

「わたくしはそうは思いませんわ。女性としての教育を充分に受けてきたあなたが何もできないなんて嘘。全てはあなたのこころ一つではなくて?」

 シャルシエルは、ピクリとも表情の動かないアレックスの瞳をじっと見つめる。

 心を動かすことのない人形のようなその顔を、崩してみたい、人間らしい所を見てみたい、と思って罠を仕掛けたが、あっさりとそこから抜け出してしまった。なかなかに手ごわい。

 父の主催だから、もちろん入宮前の夜会には自分も参加していた。

 あの日カイルラーンと踊る姿を遠目に見たときに確信した。きっとあの従兄の呪いを解くのはこの人しかいない、と。

 女性ポジションであれだけ完璧に踊れるのだ。きちんとした淑女教育を受けているのはそれだけでわかる。

 王太子に対しての想いは、恋というよりもはや同士に近いのだと思う。いつかはこの従兄と結婚するのかもしれない、と思いながら、それでもカイルラーンの心が死んでいるのはわかっていた。

 先の後宮の凄惨な出来事は、カイルラーンの兄の不審死を皮切りに始まった。

 後宮の池の淵に浮かんで水死している第一王子の死の原因は、当初事故か他殺かは分からなかった。毒物を摂取した形跡はなく、いまなおその死の真相は分からずじまいだ。

 しばらくして、当時いたエリーゼサルーンの母以外の側妃が産んだ第一王女が死んだ。これははっきりと毒殺された事が判明している。

 第一王子を失ったリカチェの犯行だと、当時の後宮でまことしやかに囁かれたものだが、結局それを裏付ける証拠は何一つでていない。

 犯行に及んだのは、当時後宮で働いていた侍女ですらない下女だが、毒の入手経路はおろか誰にたのまれたのか、その動機ですら告白したその証言が真実なのかは判然としない。

 だが、王太子の子が連続して死んだ事で、第一王子も殺されたのだという説が有力となった。

 そして、その醜聞が王宮内を駆け巡り、少ない女性近衛を分散させて警備体制を敷いていた最中、第三王子が寝台の上で胸を突かれて死亡しているのが発見される。部屋の後宮内部側の扉の前には近衛が立っていたにも関わらず、犯人は王族のみが知る隠し通路から室内に侵入して犯行に及んでいた。またしても犯人は分からず、隠し通路を知っている人物というその一点のみで、再び王太子妃犯行説―――当時ディーンはまだ王太子だった―――が流れたが、これも状況証拠のみで犯行を裏付ける証拠はなにも出ていない。

 短い間に三人の王子王女が非業の死を遂げ、葬儀を終え喪があける一年が経った頃、隣国との戦争が始まってディーンは戦地へと旅立った。

 その戦乱の最中である。戦争に駆り出された近衛の穴を埋めるため、通常より警備の薄い後宮で第三王子を失った側妃が強行に及んだのは。

 我が子を失った側妃は、これもリカチェの犯行と決め付けて、カイルラーンを殺そうとしている。我が子を守るために必死だったのだろうリカチェは、その側妃をカイルラーンの目の前で殺害している。通常なら部屋を分けていてもおかしくない年齢だったが、第一王子を喪って警戒していたリカチェは部屋を分けていなかった。

 側妃に絞殺されかかり、あまつさえその側妃を手にかけたのが実の母で、これで呪いがかからないはずもない。

 従兄の女嫌いは当然の帰結であり、それを幼少期から間近で見てきたからこそ、カイルラーンと同じ呪われた王家の血を持つ自分にはその呪縛から開放してやれないことは分かっていた。

 ままならない運命を抱えているのはあの王太子も自分も同じ。だからこそ、せめてカイルラーンの呪いだけでも解けたら良いのに、と思う。

 だからといって、手放しでこの目の前の蜜蜂にカイルラーンを渡す気もない。

 生物としての蜜蜂は生殖能力を持たない。女王蜂に変化してもらわなくてはならないのだ。

「心を定めるには、私にはまだ時間がかかりそうです」

 相変わらずアレックスの表情は変わらなかったが、それが本心であることは何となく分かった。

 あの従兄もこの蜜蜂も、驚く程に固く閉じられた運命を持っている。

 まぁ、いいわ、とシャルシエルは内心で思った。もう少し時間はある。自由にならない運命を持つのは自分も同じ。せめて自分の身代わりに、王太子と蜜蜂で遊ぶのも悪くない。

 世間ではそれをお節介と言うのだろうが、それくらいの楽しみが無くてはこんな役割などやっていられない。アレックスに祝福を授けた女神ならば、きっと許してくれるだろう。

 話しが途切れるのを測ったかのように、ガゼボを目指して歩いてくる人影がある。

 アレックスがそちらに視線を向けると、近付いて来たのは臙脂の隊服の近衛を伴った第二王子サルーンだった。

「シャルシエルお姉さま、僕もお邪魔してよろしいですか?」

「ええ、もちろんですわ、サルーン殿下」

 こちらへ、とシャルシエルが自分の前の位置を促すと、王子は素直にその席についた。

 近衛騎士はサルーンの隣に張り付くようにして立っている。

「ふふ、殿下のお目当てはローゼンタール少尉でしょう?」

「やっぱりシャルシエルお姉さまには隠せませんね。もう少しお話してみたくて」

 恥ずかしそうにしながら、こちらに視線を送ってくる第二王子の顔を見つめる。

「少尉、少しお話させていただいても?」

 座っているから低い位置にいるサルーンが、上目遣いに問いかけて来る。

 アレックスは表情を変えずに口を開く。

「お側仕えがご許可されるなら、私に否やはございません」

 王族といえども傍流の令嬢であるシャルシエルと違って、第二王子であるサルーンとの間には越えられない壁がある。雑談のような会話は、本来はできないものなのだ。

 王族の身辺警護につく近衛は軍内部でも精鋭中の精鋭である。もちろん騎士としての武力だけではなく、家柄、知力、判断力、全てにおいて高い水準を求められる。故に階級もアレックスなどよりずっと上位になる。だからこの場では側付の近衛の許可が必要になる。

「サルーン殿下のご希望に沿うように」

「かしこまりました」

 アレックスは警戒のために池に向かって背を向けて立っていたが、雑談の許可がおりたところでサルーンの方に自分の正面が向くようにその場で体をずらした。

 今はサルーン付きの近衛もいる。ガゼボの出口に背を向けても対処できるだろう。

「兄上の正妃候補でいらっしゃるのですよね? けれど女性ではない?」

 自分の方に視線が向いたのを見て、サルーンは待ちきれない、とばかりに口を開いた。

「十八年前の話です。私は母の胎内で女神アレシュテナの福音を授かったのです。詳しくお知りになりたければ、後ほどそちらにいらっしゃるお側仕えにお聞きください。要約すれば、二十歳になるまで性別が定まらないという内容です。ですから、今私の戸籍には性別の記載がありません」

「ではどうやって二十歳になったら性別が決まるのです?」

「福音を受託されたサミュエル法王は、二十歳の誕生日に私の意思で決めたら良い、とおっしゃったようですが、判然としないのですよ。そもそもこの体も、男でも女でもない。厳然たる性別の境界がないから心が定まらない。私はひどく曖昧なのです」

「それでも自分の力で道を切り拓いていらっしゃるのですね……軍人としてだけでなく、心もお強くていらっしゃるのですね」

 心根が真っ直ぐなのか、それとも社交辞令なのかはわからないが、羨望するような眼差しを見ていると、王子の本心なのだろうな、と思う。

「お褒めいただき、ありがとうございます」

 子犬のようにキラキラした瞳を見つめていると、なぜか彼を騙しているような気になって落ち着かない。

 王太子カイルラーンとはまた違った意味で、この王子も気を抜けない相手だった。素直すぎて、うっかり懐に入れてしまいそうになる。

 だが、気を許してはならない。健忘数術渦巻くこの世界で、王侯貴族に気を許すのは自殺行為以外なにものでもない。

「殿下、もうそろそろお戻りになられませんと」

 近衛の声かけによって、ようやくこの王子から開放されそうだ。

「またお話できますか?」

 王族なのだから、あの王太子のようにもっと横柄に命令すれば嫌とは言えないのに、と思いながら苦笑する。

「また機会がございましたら、お心のままに」

「あ、笑った! 笑いましたよね、シャルシエルお姉さま。少尉はお美しいのだから、もっと笑った方が良いと思います」

 興奮したようにシャルシエルに同意を求める。

「まぁ、殿下ったら。そうですね、職務中とはいえ少尉はもっと笑われた方が良いと思いますわ、わたくしも」

「私にはもったいないお言葉ですが、軽々にそのような事をあまり口にされませんよう……殿下のお言葉を都合よく解釈する輩もおりますゆえ。お側仕えがお困りです、どうぞ今日はこれにて」

 はっ、と思い出したように傍に立つ近衛を見上げながら、そうでしたね、と呟く。

 戻らないといけないと言われた事を思い出したのだろう。

 何が第二王子の琴線に触れたのかはわからなかったが、満足したような表情を浮かべてサルーンは去っていった。

「そろそろわたくし達もまいりましょうか」

「はい」

 そしてまた、この王太子の従兄妹の行動もアレックスには理解し難かった。明らかに、このガゼボに誘導されたのは間違いなかった。

 この短い間の会話で何がわかるとも思えなかったが、確実に言えることは、彼女が言うように己の心一つの決断を迫る女神の手がもう近くまで伸びているという事だ。

 季節は冬から春へと移ろい、美しい花が咲き乱れる後宮で、ただ一人自分だけが蜜を集めるだけの蜂に過ぎなかった。

 

 

 茶会が終わって、王妃リカチェは内宮の奥に立つ塔にある自室に戻って来ていた。

「リネット、あなたから見てどうだった?」

「ロゼアベイユ……でしたか。軍部のお歴々の頭を殴ってやりたい気分ですね」

 苦々しい気分で、リネットは吐きだした。

 女性近衛としてリカチェに着いてもう二十年以上になる。その間女性近衛の中で昇進して現在は最高責任者になっているが、それでも人事権まではまだ自由にならない。

 女性近衛は男性近衛の一部門にしか過ぎないのだ。女性部でいくら出世しても、男より上には行けない。

 数年前に持ち上がったアレックスを女性近衛にという話は、軍上層で握りつぶされていた。

 女だてらに武の道に進んでそれなりの経験も積んできた。だからこそ、立ち姿だけでも分かることがある。

 立ってただ傍らにいるだけというのは簡単に見えて難しい。

 同じ姿勢を保ちながら、意識は周囲に向けていなくてはならない。しかし、近くの会話を聞き逃してはならないのだ。

 警護対象者の邪魔にならないように気配を消し、なおかつ周りに気を配る。

 見ていた範囲ではその姿勢は崩れることがなく、まして主と会話したそつなさを考慮しても、強くて頭もキレる。

 あの年齢であれだけの事ができるのだ、経験を積めばもっと強くなるのは間違いない。

 容姿、家柄、頭脳、武力、どれをとっても不足はなく、元々少ない女性近衛では喉から手が出るほど欲しい人材だった。

「あれは、強いですよ。グスタフ・サー・ローゼンタールの孫だというから、どれだけの尾ひれがついているのかと思っておりましたが」

「そう、あなたがそういうのなら間違いはないわね」

 それならばもう、カイルラーンは手放さないだろう。

「正妃にならずとも側近に、というところかしらね」

「陛下のお心ですか?」

「ええ」

 自分が息子に深いトラウマを植え付けた自覚はある。だからこそ、結婚に―――女性に前向きになれないのだということもわかっている。

 今日正妃候補に選出された令嬢達と話してみて思ったが、おそらく息子の心を動かす事ができるのはあの数奇な運命を持った蜜蜂だけだ。けれど、カイルラーンだけがその気になったところで絡みついたしがらみは振りほどけない。

 今はまだ、見守っていることしかできないのだろう、と思う。

 いつだって、一番可愛いのは自分の子なのだから。

 何かあったときには状況を変える一手を指せるよう、まだこの権力を手放してはならない、とリカチェは思った。




近衛騎士/臙脂

女性近衛/白地に濃紺の縁取り

軍幹部・正副師団長/白地に臙脂の縁取り

佐官/濃紺 尉官/緑 士官候補生/灰(濃紺≫臙脂≫緑≫白)

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