或る少女と獣





 かつて神々が創り賜うたこの大地は、悪しき神の手によって暗黒の時を迎えました。


 悪しき神は始めに、空を見守る太陽の神ルドスと、月光を司る女神ルトの力を奪いました。

 そして気候の神であるアトハンと豊穣の女神エテアに傷を与え、大地の命を吸い上げると、生と死の神であるアミの力を失わせ、神々の主である天の女神シゼリアを殺めようとしたのです。

 

 大地は天を奪われました。雨は降らず夜の暗闇が地上を覆い、草花は芽吹かず、生き物は息絶えてゆきました。

 

 悪しき神の指先から滴り落ちた黒い泥により邪悪な魔獣が生まれ、その口元から溢れた火の粉は大地を燃やし尽くす死の業火となり、この地の全てはことごとく、黒い灰に覆われてしまったのです。

 

 神々は、自らが生み出した人の子とともに、悪しき神を討ち滅ぼすための戦いを始めました。この大地を悪しき神から取り戻すために始めた戦いが『天音あまねの戦い』であり、長い間この戦いが終わることはありませんでした。


 大地は荒廃し、人も、神も、疲弊してゆきました。

 疲れ果て、傷を負い、皆が多くのものを失っていきました。

 

 そしてついに、彼らが最後と定めた『煉獄の戦い』の終末において、天の女神シゼリアは、悪しき神の心臓を『天の剣』で貫いたのです。

 

 長きに渡り大陸を闇に堕とした悪しき神は、女神により打ち倒されました。

 神々は悪しき神の身体を粉々に砕き、地底の奥底へと叩き落としたのです。あとに残ったものは、荒廃し光を失った大地と、疲れ果てた生き物たちだけでした。

 

 すると、二十の神のうち八柱の神々は自らの杖を折り、その杖を大地へと散りばめました。


 シゼリアの杖からはルト太陽ルドスが生まれ変わり、そして大地に明暗の色が与えられました。

 ブルメデルの杖からは草木が芽吹き、その枝からはやがて花が咲き始めました。

 ヴァルシャデの杖からは炎が燃えさかり、灯火がもたらされました。

 ウルエラの杖からは美しく清らかな水が溢れ、毒に侵された海や川を浄化し、生命の恵みを与えました。

 クレムの杖からは涼やかな息吹が生み出され、黒い灰を吹き飛ばしました。

 アミの杖からは生と死の循環が生まれました。

 ハシェの杖からは秩序と、そして制約がもたらされました。

 ユグの杖からは心が生まれ、人々は知識を得てゆきました。


 粉々になった杖を大地に並べた人々は、やがて自ら文字を生み出しました。そうして知識を後世へと繋ぐすべを得ると、人々は神々の元で心を繋ぎ、細々とした土地を耕して食物を育て自ら物を作り始めました。


 やがて、人と人は言葉を交わしていく程に愛を知り、そして愛を語り寄り添い合ってゆくことで、子孫を繋いでいったのです。

 

 神々と人が言葉を交わすことに、ある時、八柱の主神である女神シゼリアは、一人の人間の男と恋に落ちました。

 一柱と一人は愛を育み、やがて女神はその人間との間に一人の子が誕生します。シゼリアは生まれたその赤子に自らの力の一部と女神の紋章である〈刻印〉を授け、眷属として迎え入れました。


 女神シゼリアの寵愛を受けたその赤子だけは、特別な力を女神に授かりました。

 彼は授かった力を元により多くの知識を得て、人々に、力と言う名の恩恵をもたらしました。そしてその教えのもとに集う人々を導き、大陸に秩序と安泰を生み出したのです。


 人々はあがたたえるかの如く、彼、彼の一族の存在を【女神に愛された一族エレネイア】と、その名を呼ぶようになりました。

 

 そしてかの者から教えを得た者が、【一番初めの魔法師セレ・ラファナ】と呼ばれる七人の者たち。彼らには力と共に七人の神々の恩恵と加護が授けられ、その証として、その身には〈大刻印〉が与えられたのです。

 


 ――『〈始まりの書イニティウム・シア「創世紀」 第二節〉 アニエティス・ロベリ・ウド・ファーバ編著』




 ◇◆◇◆◇




 白い雲が流れていく。

 窓辺に置かれた椅子へと背を預けて、ゆっくりと流れていく雲の切れ端を眺めていた少女は、不意に自分の足下に視線を落とした。


「ねえ、ウル。女神様はなぜ、人間を好きになったのかしら」


 そう呼びかけて、少女は所々焼き付いた頁を折り畳んだ。

 本の表紙は黒ずみの汚れにまみれ、背表紙の部分は破れている。そして何度も読み返したかのように、本の持ち主である少女の細い指先にするりと馴染んでいた。


【それは僕にだって分からないさ。誰かが誰かを好きになることなんて】


 足下から声が響いて、少女は静かに本を机の上へと置いた。とうに冷めた紅茶を口元で傾け、一口だけ含む。あたりが一段と静まりかえった。周囲からはまるで一切音が聞こえてこない。少女が置いた陶器の固い音だけが、不気味なほど大きく響いた。

 

 揺れた紅茶の水面には、鏡のように凪いだ青い宝石の眼が映る。その瞳に両手の手のひらをかざして、「ウルらしい答え」と、少女は静かに笑った。


【人間と人間だってそうだろう。相手の心も、頭の中でさえも、絶対に見ることはできないんだ。ましてや女神様。考えるだけ意味が無いと思わない? まあ、ミレアにとっては自分ののことが気になるかもしれないけどね】

「そうねえ、気になるの」

【ねえ、また読んでいるの? 好きだね、その本。そんな本を読んでるから、そういうことばっかり考えちゃうんだよ】


 その手元に白く大きな塊が近づいた。光の加減によっては白とも銀とも、まして金にも見える不思議な艶の毛を輝かせながら、狼のような顔を持ち上げ、ウルは腕に寄りかかる。愛おしげにその指先へ黒い鼻頭をすり寄せて、大きな翼を広げると、少女を隠すように包み込んだ。


【でもね、愛することは生きるものの最大の幸福なんだってことは、ボクにも分かるよ。この天を見守るシゼリア様がボク達に授けた、最大の権利、そして力さ。ボク達は生まれた時に、母さまから愛を教えて貰うんだ】

「……そう」

【ミレア――、ミレアヴィス。ボクの愛し子で、相棒で、姉様で、友だちのミレアヴィス。 ねえ、ボクは君を愛しているよル・レイラモル・エニティ君はボクを愛してくれるイル・エニティ・ル・ラモルテ?】


 狼のような口を耳元に近づけて、ウルはささやく。深く大きなこの世界の流れに誓う言葉で。脳の内側を刺激する優しい声音と細く鋭い視線が、少女を貫いていた。

 

 少女だけに聞こえているその声はあまりにも無邪気だった。そして全てを見通しているかのように、心の奥底でじんわりと響くのだ。まだ幼い獣に微笑むと、少女はその銀色のたてがみに指を通しながら、口を開いた。


「愛してる、なんて――」

【言えない? どうして?】


 しばらく悩むように口を閉ざした後、少女は声を震わせた。


「愛って、この世界で一番強くて、一番いびつな呪いなの。だからね、どうして女神様は愛することを教えたんだろうって考えてしまう。愛、なんて気持ち、この世界になければよかったのに」

 

 吐き捨てた言葉には、憎しみを。心の奥底に溜まった異物を混ぜ合わせて。

 

 ぴくりと動く耳を撫でてやると、獣はミレアの腕から顔を上げた。一飲みにされてしまうかもれない犬歯が覗いた。

 

 金と銀のたてがみから甘い香りが漂う。獣はミレアの細い体に絡みつくと、顔を乗せていた腕とは反対の肩口に大きな体を乗せて、その香りのような甘い声音で囁いた。


【キミは臆病だね】


 ウルはすんと鼻を鳴らした。


【でも、キミが言えなくてもボクが言ってあげる。ボクはミレアを愛してるよ】

「ウル――いいえ、ウルノア。愛は呪いなんだよ。あなたはまだ分かってない」


 諭すようにもう一度言う。知っているとでも言いたげに、くうん、と甘えるようにウルは鳴いた。ミレアはため息をついて、窓の外に顔を向けた。


【知ってるよ。分かっているとも。だからボクもキミに呪いを掛けているんだ。そうやってキミがあの時の言葉に後悔しても、その道が揺らがないように。キミがもう諦めてしまいたいとおもっても、その足が止まらないように。それが、キミとボクの約束だったから】


 白い窓掛けが、ふわりと風に流された。ちりん。窓から吹き込んだ風に少女の銀糸が揺れ、鈴の音が鳴った。


【ミレア。ふくしゅうに囚われた哀れなひと。ボクは君の気が済むまで、復讐を遂げるその時まで、ずっと共にいると誓うよ。だから、絶対にボクを置いて、いなくならないでね】


 

 






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