35 霧と煙草



 冷たく湿ったものが頬にぎゅっと触れて、ユキは瞼を押し上げた。

 何やら身体が重たいと思えば、胸のあたりに白い塊が被さっている。目を擦って見れば、ウルの鼻の頭が視界に広がった。

 

「な、なに……?」

 

 寝ぼけ眼を擦って身体を起き上がると、ウルはユキの上から飛び降りた。そして頭をうつらとさせているユキの寝間着の袖を口でぐいぐい引っ張り続ける。ユキは小さく唸り、ふらふらと頭を揺らしながら、その力に従って寝台から立ち上がった。

 

「ウーン、ウゥ……。なに……どうしたの……?」

 

 冷たい床の上に裸足で立つといくらか頭も冴えてくるが、まだユキの瞼は頑なにくっついたままだ。ウルはユキの袖から口を離すと部屋をうろうろと歩き回って、椅子の背もたれに掛けてあった厚手のストールを引きずり、ユキの前で座った。

 ユキは瞼を擦りながら、なぜウルがストールを咥えてきたかも考えることなく、ぼーっとしたままそれを羽織った。その様子を見届けたウルは、またユキの袖を噛んで引っ張った。

 

「うぅー……どこ……、どこ行くの……」


 まだ半分寝ているような状態のユキを、ウルは問答無用で引っ張っていく。

 部屋を出て、アズサの部屋の前を通り過ぎ――屋の扉は閉まっていたからまだ寝ているのかもしれない――暖炉の前を過ぎて台所に連れてこられたユキは、綺麗な水が張られた盆の前に立たされた。顔を洗えということだ。

 

 ユキはしばらく平らな水面を見た。水に手を差し込み顔を濡らすと、きんと冷えた水に頬が引きつる。顔の水を落すために頭を左右に振って目を開くと、足元にいたウルの口には手拭いが咥えられていた。ありがたくそれを受け取って、ユキは顔にあてがった。

 

 冷たい水に、ぼんやりとしていた思考が晴れていく。ユキは手拭いを水盤のふちに置き、ウルの頭をなでた。


「おはよう……ウル。でもまだ起きる時間じゃないよ」

 

 時刻はいまだ、寝守ねもりの刻。乳白色の光が空に差し込み、紺色の夜空と交じり合う時間。陽は昇っておらず、起きるには早い時間だ。ウルはまたユキの袖を引っ張った。ユキは肩のストールを深く掛け直し、左右に揺れる尻尾のあとを着いていくことにした。

 ウルはどんどん先へと進み、書庫を出ると、小道を降りて、白い霧のうごめく森の向こうへと結界を通り抜けていってしまった。ユキは急いでその背中を追った。

 

「まって、ウル……」

 

 木々に囲まれた緩やかな坂道を上ると、あたり一面を霧に覆われた湖が現れる。白い煙は美しい風景に幕をかけているようで、湖の向こう側さえも見えない。

 

「待って!」

 

 ウルは真白の中に飛び込んでいった。しばらく小さな黒い影が、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりと動いて見えたが、やがてその姿さえも消えてしまった。ユキは慌てて濃い霧の中へと飛び込んだ。

 

 水分を含んだ空気が一気に押し寄せて、肌がじっとりと湿る。草の葉の先に溜まった水滴が足を濡らしていく。濃い霧にむせびながら、ユキは霧の中を歩き続けた。

 

 すると突然白い幕の向こうに、ぼーっと、黒い影が現れた。ユキは思わず立ち止まり、目を擦った。人の形をした黒い影は、霧に揉まれるよう、現れたり、消えたりを繰り返している。

 

「誰か……いるの?」

 

 現れては消える影を追い掛けて、ユキはまた霧の中に足を速める。

 ――ドンっ、と。固く大きな壁に鼻からぶつかって、ユキの身体は勢いよく後ろへ跳ね返った。

 

「おっと!」と、目の前の壁が大きな声で叫んだ。

「わっ!」


 ユキは湿った草の上に尻もちをついて転がった。どうやら黒い影は、人だったようだ。誰だ、と真上から声が降ってくる。地を這うような低い声に、ユキの喉がひゅうと音を立てた。

 

「そこにいるのは、誰だ? アズサか?」

 

 白い煙の中に紛れた黒が徐々に形を成していく。霧の中を切って人影が姿を現した。

 

「あっ……ゼ、ゼンさん……」

「なんだ、ユキじゃないか。どうしたんだ、こんなに朝早くに。まだ寝ている時間じゃないか」

 

 パイプからゆったりと煙をくゆらせていたゼンは、慌てた様子もなく、地面に尻もちをついたユキの姿を見て目を見張った。

 ゼンの後ろには、あの折れ曲がった木がどしりと存在しており、足元には灰色の四角い石が一つ静かに佇んでいる。そこがアズサの両親のお墓だとユキが気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

「あ、あの、私は……」

「ほら」

 

 ゼンは手を差し伸べた。戸惑ったユキは伸ばしかけた手を移ろわせて、結局、迷いがちにその手を取った。固い皮膚がユキの滑らかな手をしっかりと掴み、ユキの身体はぐっと引き上げられた。

 

 ゼンはユキを立たせてすぐ手を離すと、口に咥えたパイプの火を消した。ふっと消えた煙とともに、二人の周囲の霧が心なしかすぅっと薄くなっていく。そしてユキの目の前には以前アズサと共に訪れた小さな湖が現れた。波一つたたず鏡のように凪いだ湖面の上を、雲霧がゆったりと動いていた。

 

「それで、どうしたんだ」

「えっとその、ウルが……ウルを探していて」

 

 ここまでユキを連れてきたウルの姿を探すと、ウルはゼンの足元に擦りついていた。底にいたのか。ユキは全身の力が抜けていくような気がして、小さく肩を落とした。

 

「なんだ、こいつを追ってきたのか」

 

 ゼンは身をかがめてウルの身体を抱き上げるとユキに預けた。受け取った体は冷たく濡れていて、ユキはすぐさま銀色の毛並みに手を添わせ、『水乾きの術』を使う。

 

「わっ」

 

 ぶるぶると身を震わせたウルから、いくつも水滴が飛び散った。ユキはついでに自分の体も乾かすことにした。

 

心唱しんしょうか」

 

 その様子を見ていたゼンが、神妙な顔つきでその言葉を口に出した。



 

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