34 家族②
◇◆◇◆◇
アズサとユキを書庫へと送り届け、二人が静かに寝たことを確認した後、ゼンは書庫を後にした。
夜半の帳が降りた森の中を歩けば、ひやりとした秋の風がその癖毛を撫でていく。
胸元から慣れた手つきでパイプを取り出す。ゼンはひとり、夜空に向かって紫煙をくゆらせた。今は誰もその行為を咎め者はいない。居るとしたら、吸い込めば煙と共に肺を刺す冷ややかな空気だろうか。温かさと冷たさが、同時に肺に充ちてゆく。
禁煙をすると決めたのは、もう随分と前のこと。
始めはアズサが生れた時。親友から預かった子供を育てていく上で、パイプから溢れでる煙の成分は赤児の身体に一番良くないものだということは分かりきっていた。愛煙家であったゼンはしばらくの間、苦行に耐えた。
いつしかその反動で、ゼンはまた白煙に手を出してしまった。それが見つかり、手の中にあるものが身体に悪いと知ったアズサからは喫煙をやめるように何度も言われた。
――けれども、何度言われても止められなかった。その煙が肺を満たすと、心なしか意識がすっきりとするのだ。思考が冴え渡り、疲労も何もかもが消えて、身体が軽くなる。だから止められない。止めてもいつの間にか手で探してしまう。歴とした依存だった。
アズサには禁煙をしたと告げたが、おそらくアズサは気がついているのだろう。ゼンの身体に染みついた微かな匂いに。
それでももうアズサが言ってこないのは、諦めているからだろうとゼンは思う。
(アズサにはいつだって苦労をかけた……。何時の間にか、どこかで『あきらめ』を覚えてしまった)
それはゼンの責任だった。仕事、仕事。そう言い訳を積もらせて家を空けすぎた罰が、今更やってきたのだろう。
(それでも……、少し、変わったな。あの少女と暮らし初めて)
ゼンは薄い唇の隙間から、上へ向かって煙を吐き出した。煙が木々の合間に縫って、星空の中へと消えてゆく。ふと、少女の顔が脳裏に過ぎった。
銀糸の髪と晴天の瞳。
そして、銀木の杖。
「運命か」
真っ直ぐな煙の線を後ろへと流しながら、ゼンは夜道を歩く。バーリオ家にたどり着くと、扉の隣のある小さな窓に明かりがこぼれ落ちていた。この森の奥にひっそりと佇む小屋のような家は、ディグレとマルサの二人が暮らすだけで充分になってしまうほどに小さい。
扉の前に立つと真っ先にパイプの指先で煙を切り、魔法で匂いを消し、音を立てないように扉を開ける。真っ先に向かい合って座るディグレとマルサの姿が目に入った。
「待たせたよ」
扉を後ろ手に閉じながら、ゼンは言った。すぐさまマルサは立って、「お茶を入れるよ」と台所へ行ってしまった。
「それほど、待ってはいなかった。……二人は?」
「もう寝たよ。眠りの魔法もかけたから、今頃ぐっすり夢の中だろう」
「……そうか」
ゼンはディグレの目の前に腰掛けると、椅子に背を預けて深く腰掛けた。
「話とはなんだ」
「久しぶりに帰ってきたのに、雑談もしてくれないのか?」
「時間がないんだろう。お前には」
射るような鋭い視線に貫かれて、思わずゼンは言葉を飲み込んだ。
「大事な用があるのなら、それを先に言え」
ゼンは口元を引き締めてディグレを見て、自分の眉間に手を当てて下を向き、言葉を探すように黙り込んだ。しばらく、無言の間が続いていた。
マルサが持ってきたお茶を机に置いたところで、ゼンはようやく静かに声を絞り出した。
「――誓いの『
マルサが、はっと息を呑んだ。「誰が」というディグレの問いに、ゼンは「ラドルフだ。ラドルフ・ゴード」と答えた。
「ラドルフ……宮仕えをしていた男か?」ディグレは固く眉間に皺を寄せた。
「気づかれたのかい?」と、いつにも無く低い声音でマルサ聞いた。それに対して、ゼンは首を横に振った。
「いや、彼は『糸』の中でも一番情報を持っていなかった人間だから、ここのことは一切知らないはずだ。けれど万が一のことはあるかもしれない。何か胸騒ぎがする」
「他の『糸』には?」ディグレは声を潜めた。
「ラドルフのことはもう連絡が行っているはずだ。ここに来る前アイツにも言ったよ。……一番近しいところに含まれる人間だから、警告をした」
「ここにはもう居られないのか?」
「……水の国の中で今一番安全なのは、ここか、エルヴァくらいしかない。それにラドルフは殺されたが、誰れに殺されたのかはまだ調査中らしくてな。まだ情報が来ていないんだ。もしかしたら無関係かもしれない。まだ詳しいことは分かっていないんだが、ただ、そう、『糸』が一つ切れたことには変わりない」
机の上で組んだ両手に視線を向けていたゼンは、二人の顔を見た。
「だから今以上に、充分に気をつけてほしいんだが、それでもいつも通りに過ごしていてくれ」
「それが決定か?」
「ああ」
ぐっと顔に皺を寄せ、厳しい顔をしたゼン。その握られた両手を、マルサが上からそっと包む。
「分かってる。分かってるさね。大丈夫よ、ゼン」
穏やかな口調で、マルサは何度も繰り返した。包んだ手を指先でさすり、うすらと微笑んでいる。
「私たちの道は、もう既に決まっているのよ。あの日……。あの日、ユトとセノア様とここへ来て、そしてアズサが生れて……、二人が死んでしまった日に」
「――そうだ。俺達はもう道を決めている」
ディグレはより深く頷いた。その瞳は静かな水面のように穏やかだ。腰を下ろした大木のように凪いだ視線は、まるでゼンの心の中で首をもたげる罪悪感をすべて知っているかのようだった。
「他にも何か言いたいことがあるんだろう」
全て見通しているかのように、優しく、けれども鋭さを持った声音。ゼンは、すぐにその視線をずらした。
「アズサにはすぐに帰ると言ったが正直……、帰ってこれるか分からない」
「
ディグレは視線を細めた。ゼンはまだ下を向いていた。アズサに嘘をついたことが、いまさらになってゼンの心に刺っていた。
「――しばらく、また潜ることになりそうなんだ」
ゼンは意を決した表情で告げた。
「潜るって……」
マルサの瞳が不安げに揺れた。ゼンの手を握る柔らかい手が、少しだけ力を加えた。
「こんなに迷惑をかけてしまって、本当にごめん。でも、これが最後だ」
「そうか、そうか。お前はお前が決めた道を進むんだ。俺たちに言えることは……それくらいしかない」
ディグレは瞼に哀愁の色を残したまま、まっすぐゼンを見る。
「覚悟はもう、しているんだろう」
「ああ」と、ゼンは強く首を縦に振った。
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