36 ゼンの頼み



心唱しんしょう?」

「ああ。魔法を唱えずに魔法を使うことだ。魔法はどうやって使ってる?」

「……どうやって、なんて」

 

 ユキは言葉を詰まらせた。魔法はユキの身体に染み付いていた。記憶は無いが、自然と分かる。だからこそ、どうやって使っているか――それを言葉にして説明するなど、到底できそうになかった。

 ユキにしてみればそれは、「どうやって無意識に呼吸をしているのか」と聞かれたような、難解な問いかけに等しかった。

 

「やりたいと思えばできる。自然に、何をすればいいか分かるの。そういうものでは無いの?」

 

 絞り出したユキの答えに、ゼンはゆるゆると笑った。


「いや……。君の言う通り、本来はそういうものさ。だが、多くの魔法師は、杖を振りかざして魔法の法式に沿った言葉を唱えなきゃあ魔法は上手く使えない」

「たしかに、杖を使う時もあるけど……」

 

 まるでユキは自分がおかしな奴だと言われているような気がして、ゼンの顔を見上げた。

 

「ゼンさんは? ゼンさんも、杖を振って言葉を唱えるの?」

「俺か?」

 

 僅かに揺れたユキの青い瞳を見て、ゼンは肩をすくめた。

 

「俺もあまり杖は使わない」

 

 湖面の上を重たく流れる霧に向かって翳した手を、ゼンは左から右へと薙ぐ。霧のは風に流れ、向こう側の木々の間へと吸い込まれていく。

 

「魔法……」

「ああ。便利だろう」

「煙草を吸うのに?」

 

 ゼンはきょとんと目を丸くして、一拍、ぶはっと吹き出した。

 

「そうだ。隠れて吸うのに便利だろう? 煙が紛れるからな」

 

 ゼンは、あっはっは、と豪快に笑った。静かな森の中に響いていく声は、湖を飛び越えて、山を飛び越えて行ってしまいそう。マルサとよく似た笑い方だった。

 ゼンはひとしきり笑うと、ユキの腕の中で大人しくしていたウルの頭を撫でた。そしてユキの頭も撫でようとして――、その手は一瞬迷った後に降ろされた。

 

「ウルが何の魔獣だか、知っているのか?」ゼンはそう聞き直した。

 

 ユキは首を振った。「でも、アズサは『白牙狼はくがろう』だって言ってたわ。白牙狼と別の何かの交配じゃないかって」

 

 二人はウルのことを、『銀王狼』の毛並みに良く似た『白牙狼』とすることにした。

 『白牙狼』は、大昔に『銀王狼』から派生した狼の種族だ。水の国の北部の山間には白牙狼達の住処もある、比較的によく知られた魔獣である。

 

「白牙狼か」ゼンは、ウルの鼻筋から耳の当たりにかけてをそっと撫でた。「それにしたって珍しい姿だから、できるなら尻尾は似せておいた方がいいだろう。それならまだ白牙と言っても差し支えない」

「う、うん……尻尾」

「ユキ、君はアズサに恩を返したいと思っているんだよな」

 

 急に転じた話に、ユキは思わず、反応が遅れてしまった。その後の言葉に何が続くのかを、つい想像してしまう。


「あ、安心してくれ。出て行けとは言わないさ」


 その不安を感じ取ったゼンが、慌てて胸元に掲げた手をひらひらと振った。


「俺はアズサの保護者だが、アズサが自分でそうしたいと思ったことにどうこう言うつもりはない。それに、君は悪い人ではないようだから……、だからこそ……君に、頼みがあるんだ」

「頼み?」

 

 ゼンはユキの肩に手を置いて、ぐっと表情を引き締める。

 

「君は、いや、君の思いを使うようで悪いとは思うが、どうかここにいる間だけでもいい。アズサの友達に、あいつの助けになって欲しいんだ。君の魔法の才を見込んで……、恩を返したいというのなら、頼む」

 

 ユキはたじろいだ。光を帯びたその目の奥に、縋るような色がある。その瞳に見抜かれていると、なんだか居心地の悪さを感じた。

 

「ここに来たばかりで、記憶が無いという君に頼むのもおかしな話だな」

「……うん。でも、私はそうありたいと願って、ここにいるの」

 

 だから、大丈夫。ユキが告げると、ゼンはほっと息をついて肩に置いていた手を離した。そして強ばらせていた頬を緩めて、「ありがとう、それから……」と、目を伏せる。

 

「法式が唱えられるのなら、なるべく心唱は控えた方がいい。心唱の魔法師は目立つんだ。これは俺の経験談だが、凄いと崇められることも、やっかみを受けることも、可笑しなところで捻じ曲がった話が広がることもある。成長してからならまだ良いが、君みたいな年齢だと……」

「おかしい?」

「決しておかしいわけじゃないが、周りはそう思わないだろう」


 ゼンはユキに目立ってほしくないと思っているようだった。だが、それはユキに対する心配だけではなく、ユキと共にいるアズサへの心配なのだとユキは感じ取った。恐らくその視線の先には、常にアズサの姿があるのだろう。

 

「ゼンさんは、アズサを目立たせたくないの?」

「……ああ。実を言うと、そう」

「ふうん……」

 

 申し訳なさそうに、ゼンはひとつ頷いた。うすく笑った顔の皺には疲労が滲んでいるような、何かを悩みに悩み抜いたような、そこに軽快とした男の端正な顔はない。

 

 どうして目立たないでいて欲しいのか、ユキは少しだけ考える。 

 ここで暮らすようになったユキがまず疑問に思ったことは、なぜアズサはこの山奥で暮らしているのかということだった。

 それは、たまたま人里離れた山奥に家があったからという単純な理由ではない。もしそうであるならば、山のいたるところに魔法を掛けたり、書庫の周りにたいそう強力な結界を張ったりはしないだろう。

 

 アズサは特に何も感じていないようだった。むしろそれが普通であるのだと見なしている節がある。

 しかし魔法の力を常に感じ取っているユキは違う。この山は、どこかおかしかった。自然にあふれる【大いなるものテーレ】以外にも、山には人為的な魔法の力が働いているようだ。

 

 そうは言えども、ユキは彼らの事情に首を突っ込める立場にない。そして事情を聞いたところで、何か重大なことが明らかになってしまって、アズサの身に何か良くないことが起こってしまうとしたら。ユキが尋ねようと思うことは何もなかった。


「ゼンさん、その……」


 それよりも、ユキは目の前の男の疲れた表情に口を開かずにはいられなかった。会って間もないユキでさえも、その滲んだ疲労を感じ取れたのだから。

 

「どこか調子が悪いの? 疲れているの?」

 

 ユキは抱えていたウルの身体を地面に降ろし、心配そうにゼンを見上げた。ゼンは面食らって目を丸くして、頬を自分の指先で触れた。

 

「疲れた顔をしていたのか? 俺が?」

「うん」ユキは大きく頷いた。「ゼンさんに会ったばかりだけど、見れば分かる。疲れた顔をしてるような……」

 

 ゼンは真っ直ぐに見つめられた瞳をしばらく見つめて、自分の顔をペタペタと触って、「あー」と、何もない平坦な声を溢す。

 

「疲れてなんていないよ。アズサと……、それから君に会えて良かった」

 

 ゼンは慣れた手つきで、消したばかりのパイプにまた火を灯した。


 

 ◇◆◇◆◇

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