37 始まりの場所

 ◇◆◇◆◇


 遅れて目を覚ましたアズサとともに、三人は朝食を取った。そして息つく暇も無く、ゼンは書庫を発った。

 

 朝食を食べている時、アズサとゼンの二人の間の会話は少なかった。ゼンを見送りるため玄関に立った際も、「行ってくる」と「行ってらっしゃい」の二言だけしかない。アズサはどこか素っ気ない態度のままだった。

 けれども丘の坂道を下っていく黒い背中に手を振りながら、アズサはどこか寂しそうに、「今度はいつ返ってくるかな」と、独り言の様に溢した。アズサとゼンの間には、何か言葉では表せないような関係があるようだった。

 

「ゼンさん、疲れた顔してたなあ」

「疲れた顔、してたね」

 

 朝のことを思い浮かべ、ユキも頷く。ユキに分かるくらいなのだから、アズサも気がついていたのだ。

 

「仕事、大変なのかな」

「本を売る……仕事?」

「本を売ったり買ったり貴重な魔導書を見つけたりしながら大陸を回っているんだってさ。まあ、すぐに帰ってくるって行ってたけど、早くて半年後かな。だいたいいっつもそうさ。すぐっていうのは、すぐじゃない」

 

 ぶすっと頬を膨らましたアズサに、ユキは目を瞬く。

 

「アズサは、もっとすぐに帰ってきてほしいんだね」

「えっ? ――や、違う! そりゃ、帰ってきてくれたら……いろいろと……まあ、いいけど……」

 

 アズサの白い肌がじわじわと色付き、その言葉じりも小さくなっていく。言葉では言っても、顔に出れば一目瞭然。子供っぽく顔を赤らめたアズサに、ユキはころころと笑いながら、丘を見下ろした。ゼンの姿はもうそこにはなかった。

 

 家の中へと入ると、アズサは食卓の上に置かれていた袋を掴んだ。ぱんぱんに膨れた袋は、じゃらじゃらと金属が合わさった音を響かせた。

 アズサはその袋を持ち、ユキのほうへと振り返った。

 

「今日、行きたいところがあるんだ」

「行きたいところ?」

「隣町! いろいろ買いに行こうと思うんだ。ゼンさんもお金を置いていってくれたし、もうすぐ冬だから」

「一緒に行くよ」


 ユキは身を屈めて、足首のあたりに擦り寄っていたウルの頭を撫でた。


「でも、ウルはお留守番かな――わっ! どうしたの?」

 

 クウウウゥ。クウウウ。

 留守番が気に入らないというような表情で、ウルはユキの袖を噛み、離そうとしなかった。


「ウル、もう……わがまま言わないで」

「うーん、どうしても行きたいみたいだね」

 

 すると、見兼ねたアズサはどこからか、肩から掛けて下げる大きな鞄を持ってきた。

 

「仕方ないけど、山を出たらこれに入ってられる? それなら一緒に行けるよ」

「あ、ありがとう、アズサ」

 

 クウウウ、とウルは鳴いて、ユキの服の袖から口を離した。ウルは自分の入る鞄に鼻を寄せて匂いを嗅ぎ、そして大人しく座った。納得したのかもしれない。

 

「よし。じゃあおばさん達に言っておかないとね」

 

 後で怒られるのはいやだしね、とアズサは両手に腰を当てて言った。

 二人は外套を羽織って家を出た。秋の午前の山は、ひんやり気持ち良い空気を漂わせている。

 丘を下りて木々の間を潜り、獣の通り道を過ぎたところで、突然アズサがあっと声を上げた。

 

「おばさん達の家へ行く前に、行きたい場所があるんだけど」

 

 と言って、マルサとディグレの家とは反対の方向へと足の向きを変え、数歩先のやぶの中で飛び跳ねていたウルの名前を呼び止める。


「どこに?」

「行ってからのお楽しみさ!」


 小首を傾げるユキに、アズサはにやりと笑みを含めて返した。

 二人は燃えるように色づいた葉の下を潜り、黄色の絨毯の上を滑った。ひらひらと舞い落ちる葉や木々の合間に顔を覗かせた小動物を追いかけて、転んで、そして飛び跳ねて。鮮やかな色合いを見せる山の姿は、言葉にならないほど美しいものであったが、アズサたちにとってはもう、そこは素晴らしい遊び場だった。

 

 深い斜面を滑り落ちると、小さな渓流がある。流れはさほど速くないのか、川岸には赤と黄色の波が打ち寄せられている。サラサラと静かに揺れる葉の下で、アズサは立ち止まった。

 

「こっちの方にはあんまり来てなかったよね。下の方に木があるから、それを使って渡ろう」

「向こう岸に行くの?」

「うん」

 

 川にかかった倒木の数は、以前よりも多い。そのうち丈夫な太い一本の木を選び、アズサは湿った幹に足を乗せた。

 

「これならきっと大丈夫だ。僕が先に行くよ」

 

 きし、きし。歩く度に木が沈む。アズサが落ちたらどうしよう。ユキはごくりと喉を鳴らして、その動きを見守った。

 けれどもその心配も杞憂に終わり、アズサは難なく木を渡り切ると、対岸から大きく声を張り上げた。

 

「大丈夫だったよ! ユキも、来られそう?」

「――う、うん! 行ってみる」

 

 まるで吸い込まれてしまいそうな水面に目を奪われて、ユキはひゅっと息を呑む。手足の指先にあったはずの感覚が薄くなってきている。ユキはこの時、ふと、自分は高い所が苦手なのだと漠然と思い出した。――落ちたら、どうしよう。

 

「ユキ、前を見て、前!」

 

 対岸からアズサが手を振っている。ユキはぐっと目を瞑り、もう一度開いて、手を振るアズサだけを見た。

 

「落ちてもぜったい助けに行くから!」


 その言葉は、涼しい空気が胸を透くように、すっとユキの手足を、心を、軽くしていく。ユキは全身の力がほどよく抜けて、頬が自然と緩んでいたことに気がついた。


 朝露に湿った樹皮から、靴の底に擦れた木屑が落ちた。ユキは慎重に木の上を渡り歩いた。ようやく終わりが見えてきたところで、アズサが伸ばした手を取る。ユキはほどよく強い力で、さっと引き寄せられた。

 

「よっ――、と。大丈夫?」

 

 ほっと息をついたユキの顔を、アズサが心配そうに覗き込む。

 

「うん。でもちょっと、高い所は苦手みたい」

「そうか……じゃあ、今度は違う道を探そう」

 

 今度はウルが二人を真似るように渡ってくる。ウルは倒木の上をまるで芸を覚えた動物のように、軽々しく器用に飛び跳ねて来た。二人は顔を見合わせて笑った。

 二人と一匹は、川沿いを下るように歩いた。人の手が入っていない藪の下をくぐり抜けて行くと、ようやくアズサは足を止めた。

 

「確かここらへんに……」

 

 二人の前には、苔むした岩壁がそびえ立っている。ざらざらとした岩肌を縫うように、上から水が滴り落ちていた。その大きさに、ユキは思わず、ほうっと息をついた。

 

「こっちだよ」

 

 左手の方へ進んだアズサは岩を隠すように茂った薮を手で退けて、その中を潜ってゆく。慌ててユキもその後に続いた。

 持ち上がった枝の下を通り抜けると、アズサは「あった」と呟いた。まるでずっと探していたものを見つけたかのような安堵を込めた声音だ。

 

「あそこの洞穴だよ」

「洞穴?」

「ああ。あそこは、君を見つけたところだよ。あの洞穴の中にいて、そこから君を連れてきたんだ」

「私が?」

「うん」

 

 アズサは肩にかけていた鞄から灯光石の欠片を取り出して打ち付けると、石を片手にそのまま洞穴の中へと足を踏み入れた。

 

 子供一人が通れる入口だったが、中はそれ以上に広い。アズサが初めてこの場に来た時、洞穴の入り口には白い雪が吹き付けられていたものの、今は腐りはじめた赤い葉が地面を汚している。

 ユキもアズサの後に続き洞穴へと入る。さらにツンとした冷たさが肌に触れた。

 

「――うっ!」

 

 ぽちゃん、ぽちゃん、と水滴が落ちる。アズサは頬を拭った。湿った岩肌を橙色の光で照らして見ると、天井にはびっしりと水滴が溜まっていた。

 

 しばらく膝を着いて奥へ進むうちに、洞窟の中は暗闇に包まれていく。アズサが初めてこの場所に来たとき、この洞穴は光り輝く水晶に覆われ、灯光石の明かりを吸い込み、洞穴全体が明るく照らされていた。しかし、今はただ底のない闇が広がっている。

 

「【光よウルーデ】」

 

 後ろにいたユキがそう言葉を唱えると、手のひら上に淡い黄色の光球がほんわりと現れた。それは始めに弱い光を灯しながらくるくると回っていたが、次第にゆるりとその明度を上げ、洞穴の奥へ続く道までもを、橙色の明るい光で照らし出す。

 

「すごい……」アズサはわぁ、と感嘆の声を零した。「ありがとう、ユキ! これで見えるよ。――実は、あの日、ウルがここまで僕を連れてきたんだ。それでこの先に君がいたってわけだよ」

 

 ユキの腕の中に抱き上げられたウルの瞳が、揺らめく光を映してじわりと溶ける。あの時と同じような無垢な瞳が、アズサとユキを交互に見つめていた。


 白い吐息を重ねながら、二人はさらに奥へと進み続けた。そしてようやく一番奥の行き止まりへとたどり着く。そこは、かつてユキが【魔力原石テウラン】の中に眠っていた場所。

 大きな結晶は跡形もなく消失しており、そこには黒くごつごつとした岩肌と、冷気を含んだ空気だけが残されている。水の底にいるような静けさが辺りに漂っていた。

 

「私、ここにいたの?」

 

 ユキはウルを降ろすと、洞穴の中を壁伝いに手を触れ、隅から隅まで回って歩いた。人のいた気配はまるでなく、魔力の気配がた薄らと残っている。

 

「何か覚えてない?」

 

 アズサが聞くと、しばらくして、ユキは困った表情で首を横に振った。

 

「ごめんなさい、何も……。でも、何かの魔法の跡があるような……、そんな気がする」

「魔法があったことは分かるんだ」

 

 ユキは曖昧に、小さく頷いた。

 

「【魔力アラ】は一人一人違っていて、魔法を使うとその香りが残るの。たぶんだけど……これは、私の【魔力アラ】だったと思う」

「多分?」

「時間が経つとね、【魔力アラ】の残り香は自然の中の【大いなるものテーレ】に溶けだしてしまう。だからとても微かなものしか感じられない」

「そ、そっか……。でも、冬になる前にね、君を一度連れてきかったんだ。何か、手がかりになるものがあればと思ったんだけど、無いみたいだし」

 

 しゅん、と肩を落とすアズサを見て、ユキはなんだか申し訳ない気持ちになった。

 

「ごめんなさい。私……、期待を裏切ってしまったのね」

「あ、謝らないで! ユキは悪くないんだから。何かあればそれはそれで良かっただけで、一番はユキには知っておいて欲しかっだけだよ」

「でも――うん。ありがとう、アズサ。連れてきてくれて」

 

 ありがとう。もう一度ユキは言い直した。自分がなぜ洞窟の中にいたのかは、まるで思い出せない。けれども、ここにいたから、ユキはアズサに会えたのかもしれない。

 

「とりあえず、今日は行こう。長居しても寒いだけだ」

「うん」

 

 ユキは洞窟の奥の方で、ひたすら地面に鼻を押し付けているウルを呼ぼうと口を開きかけた。ウルは同じところをくるくると回っていた。何かの匂いを追うように鼻をひくひく動かして。

 

「どうしたんだ?」

 

 ここだ。まるでそう言いたげな表情をすると、ウルは前足で地面を掘り始めた。ざっ、ざっ、ざっ。固い土を削る音が洞穴に響き、顔を見合せた二人はウルの足元を覗き込む。ウルは誇らしげに胸を張って地面に座り、二人の顔を見上げた。

 

「何かあった?」

「何か、布……みたい」


 ユキは訝しげに、地中に埋まっていた布の端を掴んだ。

 まだ大半が埋まっているのか、摘まみ上げても布はぴくりとも動かない。二人が手分けして地面を掘り返してみると、細長い薄茶色の紐が地面の下へ伸びていた。アズサは思い切り力を込めて、紐を引っ張り上げた。

 

 出てきた物を見て、二人は顔を見合わせた。土を振り落としながら引き上げられたのは、汚れた小さな鞄だった。

「もしかして、これ!」と、アズサが上ずった声を張った。「きっとユキのだよ!」


 

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