38 埋もれた記憶




 ウルは鞄の表面に鼻を押しつけて匂いを嗅ぐと、ユキの腕の下に身体を潜らせ、ぐいぐいと手を持ち上げた。

 

「私のもの?」

 

 クゥ。――そうだ。そう促すような音が、ウルの喉から聞こえる。開けてみよう、と口早に言うアズサの翡翠色の瞳は、ユキよりも期待に満ちて輝いていた。

 

 鞄の表面は湿り茶色く薄汚れいたが、不思議なことに、内側の布は水滴一つとしてついていなかった。外側に汚れを防ぐ魔法が掛けられていたことにユキは気がついた。


 内側には空間を拡大する魔法。蓋を開いて除けば中は真っ暗闇で、持ち上げてみても、振ってみても、それほど重たくもない。何も入っていないのではないかと思うほどに重量を感じない。


 ユキは鞄をひっくり返し、上下にばさばさ振り落とした。

 二、三回ほど振ったところで、真っ暗な袋の中から中身が転がるように飛び出した。四角い箱が数個、布きれ、小さくまとめられた白い紙束、薄茶色の革袋に包まれた小刀。さらに、見るからに重たそうな巾着袋が、がしゃんと地面にぶつかって音を響かせた。


「わあっ!」アズサが明るく声を上げた。「出てきたよ!」


 ユキは恐る恐る、細長い形の黒い箱を手に取った。

 箱は思っていたよりもすんなりと開いた。中には上等な真白の布と柔らかい綿が敷き詰められていた。

 ユキは布を丁寧な手つきで取り払う。すると、そこには羽が入っていた。うっすらとした水色を含んだ、白銀に輝く美しい羽――その先端にはペンが付いている。

 

「きれい……」

「組式羽根ペンじゃない? ゼンさんが似たようなのを持ってた気がする」

「組式羽根ペン……、組式羽根ペン」

 

 アズサは地面に散らばった紙束を拾い上げた。

 

「きっと、これが『加工紙』。この二つと【星砂の雫マヤエサリエ】を使って、魔法の法式陣を描いてたんだよ」

 

 魔法師は組式羽ペンを使い、法式陣を創り出す。アズサから加工紙を渡されて、ユキはまじまじと白い紙束を眺めた。黒い染みひとつも無い新品のように綺麗な、ツルツルとした手触りの紙だった。

 

 頭上へ浮かべた光球に羽根ペンを透かして見ると、純白の羽は美しい宝石のような金色の砂粒を纏い、光を跳ね返して眩しく輝いた。

 ユキは羽ペンをくるくると回した。銀の持ち手には指紋も、錆も、ひとつとして付着してない。真新しい物のように、誰かが使っていたと思われる跡も見当たらない。


 何かを手にしたら、その瞬間に記憶が戻るかもしれない――と、心のどこかでそう期待していた。しかし、心は微塵も動かない。

 

 「何か分かる?」

 

 

 怪訝な表情で羽を見るユキに、アズサが躊躇いがちに聞く。ユキは羽根ペンを手にしたまま首を振った。

 こんなにも美しいものを持っていたことさえ覚えていない。なぜだか不安な気持ちが心の中で片付かず、ユキはそっと羽ペンを箱に戻した。アズサもそれ以上は何も尋ねなかった。

 

 ユキは、正方形の形をした黒い箱の一つを手にした。

 二つ目の箱は金具で固く閉じられていた。やっとの思いをしながら金具を外して蓋を開くと、そこには大きな翠色の宝石があしらわれた、耳飾りが片方だけ収まっていた。

 

 一目で分かるほど上品で、そして豪勢な耳飾り。洞窟の中を照らす魔法の光をふんだんに吸い込んで、幾面にも切られたオーバルブリリアントの表面が絢爛な輝きを放っている。

 その耳飾りの透き通る翠がとても美しくて、ずっと眺めていると、まるで宝石の中に吸い込まれて閉じ込められてしまいそうに……。

 

「片方しかないね。耳飾りって、両方の耳に付けるものじゃないの?」

 

 アズサが手元を覗き込んで言った。

 ユキは我に返り、はっと顔を上げた。アズサの眼と視線が合い、手にした箱の中の宝石とその目を交互に見遣る。

 二つのくぼみがあるというのに、耳飾りは片方しか無かった。ユキは箱の中や他の袋をもう一度振り落としてみたが、対となる片方は鞄の中にも無い。

 

「そうみたい」

「もともと無かったのかな。それか、誰かにあげたとか」

 

 首を傾げたアズサは、目に付いた小刀を革製の鞘から引き抜いて、光の傍に照らして見ていた。

 冷たい色の刀身が、周りの光を全て吸い取って仕舞うかのようにギラギラと輝いた。刎ねた光が二人の頬を照リ返す。刃はまだ研がれてすぐのような鋭さを残している。

 

「わぁ。刃こぼれ一つないよ、これ」

 

 アズサは近くに生えていた枯草に刃先を向けた。すると、少し先端が触れただけで線が入り、草には綺麗な切れ目が走った。

 アズサは慌てて刀身をもとに戻し、端へ避け、そして「これはもう見た?」と別の袋を手に取って掲げた。袋を動かしただけで、ジャラジャラと固い金属の音が洞窟の中に響いた。

 

「ううん、まだ」

「なんだろう、持った感じと見た感じ、お金――……」

 

 引き絞られていた袋口を引っ張り、アズサは息を呑み、言葉を無くした。目が飛び出るほど輝く金の硬貨がぎっしりと詰まっていた。

 

「たっ、大金だ」アズサは信じられないと言わんばかりの表情をしていた。「一、二、三、四――っ! じゅっ、十リーエン金貨だよ、これ全部!」

「十リーエン金貨?」

 

 大粒の金貨を手のひらに載せたアズサはごくりと息を呑んだ。十リーエンの金貨が数えられないほど袋の中に入っている。けれども、汚れ一つ無い黄金色はどこか不気味で、良いものには思えなかった。

 

「それってどのくらの価値があるの?」

 

 さらりと白銀の髪を落として首を傾げたユキに、アズサは口をぽかりと開けた。

 

「お、お金の単位は覚えてる?」

「大きな金貨が一番高価だってことは、ディグレさんから聞いたわ」

 

 正解であるようで、答えになっていない。アズサはぽかりと開けた口を閉じて、しばらく目も一緒に閉じた。そして大雑把な答えを教えたディグレの顔を思い浮かべて、頭を抱えた。

 

「……簡単な計算をするとね、ポウパの実一つが一メデルだとしたら、メデル銀貨が五枚あると一ユオン銀貨になって、ユオン銀貨三枚が一ダリオン金貨。一ダリオン金貨でポウパの実は十五個くらい買える」

「ポウパの実って?」

「この前一緒に食べた赤い実の果物だよ。――それで、ダリオン金貨十枚分が一リーエン金貨だ。一リーエンあれば、ポウパは……」

 

 アズサは指折り数えて愕然と顔を上げた。

 

「百五十個は食べられる!」

「ひゃく、ごじゅう……?」

「た、たぶん、果物屋さんは毎日そんなにポウパの実を売らないと思うけど……」


 アズサはもっと良い例えがないか、頭を捻った。


「うーん……。じゃあ話、ユキがこのあいだ読んでた魔導書あるでしょ、あれがたしか五ダリオンくらいだったから、この一枚の十リーエン金貨があれば……二十二冊くらい買えるかなぁ」

「二十二……?」

 

 ユキの頭の中で、書庫の本棚にある大量の本が崩れ落ちていった。

 

「まあ、まあね、お金のことはそのうち慣れるさ」アズサはよく分かっていないと言わんばかりのユキの表情に、さっそく今日行く街でお金の価値を教えようと心に決めた。「じゃあ、この大金はどうする?」

「ど、どうするって?」

「だって……たぶん、君のなんだろう」

 

 大金を前にして、二人は揃って言葉を失った。突然これが自分のものだと言われても、ユキにはまったく実感が持てずにいた。黄金色の光を放つ袋の中味が、羽ペンよりも、とうてい自分のもののようには思えない。

 

「じゃあ見なかったことにする? もちろん、僕は一切手を付けないよ。二人だけの秘密にしよう。ユキだって、使いたくなかったらそのままにしておけばいいんだ」

 

 ね、と首を傾げたアズサに、ユキは小さく顎を引いて頷き、地面の上に広げられた鞄の中味を見渡した。

 どれも記憶に引っ掛かる物ではなかった。もしかしたらきっと、全て、誰か別の人のものかもしれない。ユキは心の中で思った。




 ◇◆◇◆◇




 見つけた鞄を手に洞穴から外へ出て、二人はマルサとディグレの家を目指した。結局あのまま洞穴の中に埋めてしまう事も気が引けてしまい、鞄を――あの羽根ペンも、耳飾りも、金貨の袋も含めて――全て持って帰ることにユキは決めた。


 二人は来た道よりも少しだけ遠回りをしながら川を渡った。なだらかな斜面を登ったり降りたりしたところで、やっと目的の小屋が見えた頃には、太陽が真上に差し掛かっていた。


「マルサおばさーん!」

 

 遠くの方にいつもの頭巾が見えると、アズサは大きく手を振って駆け出した。その先で、外に出て洗濯物を干していたマルサが二人に気づき、腰に巻いた前掛けで濡れた手を拭いながらやってくる。マルサの眼は二人の服に向けられていた。

 

「あらまあ何処へ行ってきたの? 服が真っ黒じゃない! 森で遊んでたのかい?」

「う、うん」

「ほら、汚れを落としてあげるから、ちょっとこっちに来なさいな」

 

 大人しく並んだ二人の前に屈むと、マルサは服についていた枝や葉を軽くはたいて落としていった。

 

「これから街へ行って来るよ」アズサが言った。

「街? でももうお昼よ。今から行くのかい?」

「買っておきたいものがあるんだ」

 

 マルサはしばらく考え込むように黙り、ユキの服の汚れを払い、今度はウルの腹に手を回して持ち上げた。

 

「それならそんな服じゃあ駄目ね!」


 マルサは太い眉を引き上げて、片方の手でウルを持ち、もう片方を腰に当てて胸を張った。


「泥だらけで行くなんて、もっと良い格好をして行きなさい。アズサは前に置いていった服があるから、着替えといで」

「あー……。う、うん」

 

 はあい、とアズサは軽く返事をして、家の中に入っていく。その姿を見送ったマルサはくるりとユキを振り返り、曇りない笑顔を見せた。

 

「ユキ、あんたには私が作っておいた服があるのよ」

「わたしに?」

「ええ! 気に入ってくれるといいんだけどね、今日はそれを着ていきなさいな。でもまずはウル、あんたを洗ってからだ。ほら、ついておいで!」




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る