48 二人の約束

 


 


 背中を丸めた子供を前にして、アシャロウは言葉に詰まった。小さな肩に伸ばしかけた手をそっと引き、膝の上で、その皺だらけの手を見つめる。

 

 アシャロウ・ロベルディは、自分が「とてもずるい人間」であるという事を分かっている。

 アシャロウにとってすれば、嘘偽りを語ることも、嘘偽りをしないということも、そう変わらなく容易いことだ。けれども、目の前で顔を伏せる子供を慰める資格も、言い訳をする資格も、謝罪をする資格もない。

 

 アシャロウ・ロベルディにとって――これはその過程がどうであれ、もっとも最善に近いと言える結果になった――そう思い為すことができてしまっていた。そしてそれは、今回の一件で命を落とした者達にとっても、そうであると想えた。

 

 アズサ・リアンタが生きているということ。

 期限は、彼が成人となる十七歳。それがこの件に関わる者達にとって、最も重要なことだと決まっている。

 だからこそ、アシャロウはアズサに声をかけてやらなかった。アズサの中で膨れ上がる感情が何であったとしても、アシャロウに出来ることは、慰めることではない。目の前の子供を導くこと。それだけだ。

 それでも、今はそっとしておいてあげようと、アシャロウは部屋を後にした。アシャロウが部屋の扉を閉めても、部屋の中からはうめき声一つとして聞こえてこない。

 

「涙も流せぬか」

 

 裏切られた気分になっただろう。アシャロウの嘆きは、誰もいない廊下に吸い込まれていく。

  部屋は学校内の教員宿舎を借りていた。部屋を出た先の廊下は午後の静けさに包まれて、窓から差し込んだ光が床に四角い絵を並べている。今は最終学期の真っ只中であり、教師も、生徒も、授業の最中である時間帯だ。

 

 廊下を進むと、その先の階段の踊り場に人影が見えてアシャロウは立ち止まった。

 踊り場にある長椅子の上で、白い少女が一人、ぼうっと空を見ながら座っている。アシャロウは小さく息を吸い込み、少女に声を掛けた。

 

「ありがとう、ユキよ」

「あっ、えっと……アシャロウ、先生」

 

 少女の隣に銀白色の獣が小さく身体を丸めて眠っていたが、アシャロウが近づくと耳をピンと立てて、その目に鋭い光を宿して低い声で唸った。

 

「おや、わしは嫌われてしもうたのか」

「す、すみません。だめよ、ウル」

 

 ウルは耳をペタリと下げて、もの悲しそうにユキを見上げると、後ろに隠れるように身を丸めた。

 

「よくできた魔獣じゃ。君が使役しておるのか?」

 

 ユキは首を左右に振った。

 

「ウルは友達です」

「そう、友か。それはまた良い友じゃな」


 アシャロウは少しだけ口角を上げ笑みを浮かべたが、すぐにその笑顔を消し去って、アズサの部屋を振り返った。

 

「話は終わった。待たせてしまったかの」

「い、いえ。あの、ありがとうございました。ウルを、みんなを……助けて、くださって」

 

 ユキはウルを抱えて、毛艶の良いその背中を撫でた。

 あれから三日が経っている。ウルは命も危ない状態だったが、今ではその様は見る影もない。学校の保健医かつ教師でもあるハンナ・ケリスとラライア・パーティヤによって見事な治療を施されたからだ。

 

「礼を言うのなら、わしではなく、ケリス先生とパーティヤ先生に言いなされ。じゃが、二人とも君の魔法の腕に感心しておったぞ。バルクスへの処置もそうじゃ」

 

 アシャロウはすぅっと目を細めて、三人が現われた時のことを思い出す。アシャロウの学校長室に三人が飛んで来た時、意識があるのはユキだけであった。

 

 アシャロウもまた、ユキの存在は知っていた。ゼン・バーリオとアルティナ・バーランドから聞いていたからだ。

 アズサが助けた身元不明の少女。そしてその、異質さを。

 三人が突如現われ、学校長室の床に放り投げられたとき、ユキは瞬時にバルクスを治療しようとした。――それは到底、この学校の一年生かそこらの年齢にあたる少女ができる芸当ではなかった。

 自身もひどく混乱した状態でありながら魔法を見事に使う才能に、アシャロウは年甲斐もなく心のうちで驚いたものだ。そして――これはたいそう異質な存在であると。そうアシャロウは見なした。

 

「君はアズサのもとで世話になっていたと聞く。その前のことは覚えていないのじゃろう」

「……はい」

「記憶はやがて蘇る。そう心配せずとも、頭の中には残っているものじゃ」

 

 不安げに瞳を揺らすユキの肩に、アシャロウはそっと手を置いた。

 

「君とも少し話がしたいと思っておったが、それはまたの機会にしようかの。……君がいたからこそ、今回の苦難を乗り越えることができた。礼を言わせておくれ。ありがとう、あの子を助けてくれて」

 

 そしてもう一度、アシャロウは小さな声で「ありがとう」と言い、ユキの肩に置いた手を離した。

 

「わたしは、自分にできることをしただけです。でも……」

「そうか。あの子のもとへ行くのじゃろう。見舞いに言ってもよいが、ちと、待ってやった方がいいかもしれん」

 

 はい、とひとつ頷いたが、ユキはウルを抱えて、アズサの部屋のほうへと足を向けた。アシャロウはその背中を引き留めることなく、揺れる銀の髪を追って、窓の外に広がる青い空を静かに見上げた。



 ◇◆◇◆◇

 


 どんな表情をして、どう声を掛けたらいいのか。ユキは扉の前で手を中途半端に掲げたまま立ち止まった。

 

 アシャロウの言う通り、今はそっとしておいた方が良いのかもしれない。それでも放ってはおけなくて、悩んだ末に、ユキは三回扉を叩いた。

 

「入ってもいい?」

 

 部屋の中から返事は聞こえてこなかった。ユキは静かに扉を押し開けた。これまで何度か訪れた部屋だというのに、心なしか扉は固く、重たくなったように感じる。

 夫妻が亡くなった。その切なさを、ぽっかりと空いた空虚さを、ユキも感じている。――そうであるなら、アズサは。

 

 部屋に入ってすぐ、腕の中にいたウルが床に降り立ち、真っ直ぐアズサのいるだろう寝台に向かった。アズサは寝台の上に座って、膝と頭を抱えて俯いていた。ユキが寝台に近づき、傍にあった椅子を惹いて座っても、アズサは顔を上げない。

 

 しばらく、そこには静かな間があった。二人は互いに何も言わず、ただじっとそこに座っていた。

 

「……悲しいのに、悲しくない」

 

 しばらくすると、腕の間からくぐもった声が聞こえてきた。それはとても平淡な声だった。

 

「突然のことで……ぜんぜん、実感がない」

「アズサ」

 

 ユキは躊躇いがちに手を伸ばして、膝を抱えていたアズサの手を握った。名前を呼ぶとアズサはゆっくり顔を上げる。乾いた笑みだけを、その表情に浮かべて。

 

「悲劇の主人公になった気分。僕……この国の王族の血を引いているんだって。信じられる? 笑っちゃうよ、はは」


 乾いた笑い声を残して、アズサは顔を伏せる。


「どうして誰も、教えてくれなかったんだろう。どうして、どうして……涙も出ないんだ。すごく、悲しいのに」

「――涙が出なくたって、悲しいの」ユキは言った。「悲しくたって泣かない時もある。泣くから悲しいわけじゃないよ。ゼンさんのことだって」

「ゼンさんのこと、誰かに、聞いた?」

「うん」

「誰に?」

「アシャロウ、先生から。でも書庫へ行ったときに気が付いたの。あの場所を守ってた結界が消えてたから、何かあったんだって、思って……。ごめんなさい、あの時、私、わたしは……、言えなかったの、その……」

「……そっか」


 アズサは少しだけ顔をユキに向けて、握りしめてぐじゃぐじゃになった青い紙と便箋を渡した。

 

「ゼンさんたちは僕に全部隠してた。これまでのこと、全部嘘だったんだ。本を売る仕事をしてるなんて言って、お土産を買ってくるって言って、ぜんぶ、嘘。嘘だった……真に受けて、僕、馬鹿みたいだ」

 

 渡された紙を開いて、ユキも中を見た。『殉職』の二文字と、ゼンの名が書かれていた。

 

「王宮の騎士だった、みたい。紙の右下にある絵。それ、この国の、女王に仕える騎士団の印……」

「アズサには、なぜ教えてくれなかったのかな。マルサさんたちは、知ってたのかな」

 

 ユキは紙を見ながら言った。ユキはゼンと一度きりしか顔を合わせていないが、ゼンが嘘を吐いていたとしても、アズサをあざむこうとしていたとは思えなかった。

 

「……らない」

「ずっと、隠すつもりだったのかな。秘密にする、理由があったのかも」

「分からない!」アズサは強く首を振る。「何が嘘で、何が嘘じゃなかったのかも!」

 

 アズサは力任せに叫ぶ。叫び声に呼応するように、クゥンと獣が喉を鳴らした。息を呑む音も聞こえたかもしれないが、流れ始めた感情を止めることはできない。

 

「この紙があるってことは、きっと仕事中に死んだんだ。でも、なんでかって書いてない! どうして死んだのかも、どうやって死んだのかも、いつなのかも何も! いきなり『死にました』って言われてもっ――そんな、そんなの――納得できるわけないだろ!?」

 

 ――そう、納得できるわけがない。身体を折り曲げて力一杯に叫ぶと、握りしめた白いシーツに皺が寄った。今この時にもたらされた訃音を見ても、それさえも、嘘偽りであるとしか思えない。

 

 アズサは叫んだそのまま、はっと目を見張った。怒鳴っても仕方のないことだと分かっていた。ましてやユキに対して八つ当たりのようなことをしても。

 

 アズサは、一度固く目を閉じ、震えるほど強く握りしめていたその手を緩めた。消え入るような声で「ごめん」と謝ると、ユキは小さく首を振り、立ち上がる。

 

「怒っていいと思う。アズサには、その権利と資格がある。何にでも、どんなことにでも、怒っても、悲しんでもいい。――だけど、怒ったところで、何も変わらない」

 

 ユキは青い紙を差し出した。

 

「一緒に探そう、アズサの知りたい答えを」

 

 はっきりとした口調に顔を上げると、真っ直ぐな蒼い瞳に強く貫かれて、アズサは思わず息を呑んだ。言葉が脳裏を過ぎていく。何ヶ月か前に、アズサがユキに届けた言葉。

 

 ――分からないからこそ、一緒に知ろうよ。『しあわせになってね』ってどうして言われたのか、考えて、探していこうよ。

 

「アズサがわたしに教えてくれたのよ。言ってたじゃない。たくさんのことを知って、いっぱい考えて、探して……そうしたらいつか、答えが分かるんだって」

「――あ、あぁ」

 

 アズサは目を丸くして、まじまじとユキを見た。そう伝えたのは今のユキに対してではなかったはず。まさか記憶が戻ったのかとも思ったが、その様子は見られない。目の前にいるのは、あの時とは違う表情をした少女だ。

 

 確かに、アズサはそう言った。覚えていた。嘘偽り無くアズサが普段から思っていることで、ユキと約束を交わした時にそう伝えた。

 

 そしてふと、あの時と同じように、アズサの頭の中にゼンの声が蘇る。

 

 ――俺たち魔法師にとって、言葉を慈しみ、約束を守ることが、何よりも大切なことなんだ。

 

「そうか。――そうだよ」

 

 決意を込めて、短く息を吐つく。

 

「ゼンさんはずっと嘘をついていた。それはけど、でも―― あの人は戻ってくるって言った。全部終わったらって。あれは絶対嘘じゃなかった。僕はまだ、ゼンさんが死んだこと、信じられないんだ」

 

 アズサは真っ直ぐ顔を起こした。ユキは決意をしたアズサの表情を見て、同じように真剣な面持ちをして、ひとつ頷く。

 

「やっぱり、僕は、自分の手で知りたい。無知は嫌なんだ。ゼンさんが死んだ理由も、おばさんとおじさんたちを殺した〈うろの狐〉って奴のことも――僕自身のことも、全部……!」

 

 みどりの瞳が光を浴びて煌めいた。全てを知りたい。それは果てしなく自分勝手で、ひとつと残らず正当な願い。射抜くようなその眼差しには、固い決意がみなぎっていた。

 ユキは手を差し出したまま、その視線を受け止める。

 

「アズサが望むのなら、わたしはずっと、あなたの味方になる」

 

 その言葉にアズサは大きく目を見開いた。そしてその澄み渡った大空のような、全てを包み込むような色を持つ瞳から、視線を外せなかった。

 

 見つめ合った時間は、ほんの数秒にも満たなかったかもしれない。アズサはゆるゆると視線を落とし、差し出された白い手に目を向けた。

 細い手には似合わない薄い色の裂傷が、親指の付け根から小指の付け根まで痕を残している。最初から残っているその傷は、どこか、アシャロウが見せた契約魔法の傷跡にも似ていた。

 

 その手を取ってはいけないと思う自分がいて――それでもこの手を取れば、ユキはアズサの味方になる。誰かが傍にいてくれるのだ。

 アズサはごくりと唾を飲んだ。薄く刻印の痕が残った自らの手の甲を見る。心の奥底で何かが深く、重く、音を立てた。

 

 これから先の未来で、何が起き、何が変わるかも、今は考ることさえできなかった。

 それでもこの時、差し出された手を取ったことで、アズサはまだ自分が独りぼっちではないと、心のどこかで安堵した。




 

 次回 第二章『水明』

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