47 真実



 アシャロウは静かな声で懐かしむように視線を下げる。

 

「愛の力とは強いものでの、セノア殿下と君の父であるユト・リアンタは、ある時運命の出会いを果たし、二人は恋に落ちた。

 あぁ、そうじゃ、ちょうどあそこに突っ張っている崖から、あの湖に飛び込むようにのぅ。それはそれは見事な恋の話じゃ。そしてある時二人は駆け落ちした。運命の恋は必ずしも結ばれる定めではないからの。それにセノア殿下は……、城外の平凡な暮らしにずっと憧れを持っていた」

 

 アズサは少しだけ笑った。アシャロウが指で示した方を見れば、窓の外に見える湖の岸に、本当に突っ張った崖が見えたからだ。

 

「駆け落ちしたから、僕はあの村に?」


「いいや。駆け落ちには失敗がつきものじゃ。二人は女王陛下にとがめられ、城に留まることとなった。じゃがある問題が起きた。――刻印じゃ」

 

 アシャロウはアズサの手にそっと触れた。黒炭の消えかかった手だ。

 

「当時、魔法師や刻印を持つ者が殺されるという事件が相次いでいた。他の国でも、水の国でもじゃ。君を身籠もっておった殿下もまた命を狙われておった。

 殿下は何度か殺されかけた。しかし殿下は王族の中で唯一刻印を持つ者。出産という大きな出来事に加えて命を狙われるというのは、かなりの危険があった。だからこそ、王宮にいることがかえって危険だと判断した女王陛下は、殿下の身を別の場所へ隠そうとした。

 ――それこそ暗殺によって殿下は亡くなったとし、事が落ち着くまで誰も知らない場所へと二人を外へ逃がそうとしたのじゃ。女王陛下は信用たる者を選び、数名だけに伝え、殿下とユトを外へ出した」


「……おじさんとおばさんは、やっぱり、始めから知っていたんですね」


「ああ。ディグレ・バーリオは確か王宮の騎士じゃったかの。マルサ・バーリオはセノア殿下の侍女の一人じゃ。彼らは二人の世話を任せられた。そして、二人の護衛に」


「ゼンさん」


 アズサはすぐに、思い当たる人の名を口に出す。アシャロウは悲しげに頷いた。

 

「そう。彼もまた王宮の騎士、ユトの親友じゃった。そしてわしもあの時は王宮の魔法師として仕えておっての。この件にひとつ、手を貸していた」


「……それからミエラル村で、僕が生れた」

 

 アシャロウは頷いた。


「そうじゃ。隠れてから数ヶ月後のことじゃった。守りも、なにもかも、全てが順調じゃった。しかしその時、予想もしなかったことが生じた。ある日――、君の生れた日、あの場に一人の男がやってきた」


「僕たちを襲った男ですか。あいつは僕の両親を――」アズサはそこで一度、小さく息を切った。「殺したって」


「彼らの正体は、〈うろの狐〉という。禁じられた魔法と呪いを好んで扱い、人を人とも思わない非道な奴ら……。黒い杖を持つ者たちじゃ。理由は分からんが、彼らは刻印の力を狙っていた。セノア殿下から〈ウルエラの大刻印〉の力を剥ぎ取ろうとしたのじゃ」

 

 アズサは握りしめたままだった手に、また力を込めた。脳裏にあの黒衣の男がちらつく。

 

「簡単なことではないが、実際そこで……君を産んだばかりの殿下は刻印を奪われ、父君もともに命を落とした。そして刻印は生まれながらにして持つものじゃが、生れたばかりの君には刻印が存在しなかった。それは当然有り得る。刻印は子孫全員が受け継ぐものでは無いからの」


「でも、それなら……」


「君はむしろ赤児としては弱々しく、泣声を上げる力もなく、息もか細かった。母君が死に父君も死に、残されたのは君だけじゃった。男は君も殺そうとした。何の力もない赤児の息を止めるのは、容易じゃった」


 アシャロウは少しだけ間を置いた。


「その時不思議なことに、亡くなった殿下の刻印が、そっくりそのまま君の中に移ったのじゃ」

 

 アシャロウは指先を振る。アズサの目の前に透明な球体がひとつ現れて、その場に浮かんでいた。

 

「刻印を持たぬ者に刻印が移ることなど、これまでには無かった! だが移ったんじゃ、君の命を守るように……。しかし、刻印には強大な【魔力アラ】が含まれている。もし小さなこの球体に溢れんばかりの力が注がれたらどうなる?」

 

 球体の中に、金色の液体がぼこぼこと溢れだした。液体が増えれば、小さい球体はすぐに一杯になってしまう。このまま増えてしまったら――。

 

「破れる?」


「そうじゃ」

 

 アシャロウが頷くと、球体が膝の上で崩壊した。外へと飛び出した液体は空中で止まり、アズサに降りかかることなく、そのまま静かに消失していく。

 

「あの時の君にも同じようなことが起こった。生れたばかりの君はあの時一度……、死んだのじゃ」

 

 アズサは小さく息を呑んだ。だが、息を呑んだ自分が、死んでいるはずがない。

 

「――僕は今、生きています」

 

 アシャロウはその疑問に答える。

 

「君の中に詰め込まれた【魔力アラ】が爆発したことによって、全てがなくなった。全てじゃ。そして、君は息をしておらんかった。

 じゃが、【魔力アラ】だけがいつまでも暴走を続けた。全てを飲み込んで、木々をなぎ倒し、男が放った魔法を跳ね飛ばした。鎮めなければ、やがてはミエラル村だけではなく、多くの人に危害をもたらす。そう思ったゼンは、君の中に暴発した全ての【魔力アラ】を封じ込み、そして枷をした」


「魔力を、封じた? でも僕、僕は」


「君は、ここへ来る前に魔法を使った。君の意識が、無理矢理、その枷を砕いたのだろう。それももちろん君の目には見えないじゃろうが、ゼンが君にかけた法式は成功し、君の中に【魔力アラ】が封じ込められた。なんと――君は息を吹き返したのじゃ。あれはまさしく、奇跡だった。二度目の奇跡。ゼンは残された君を守ると誓った。そして、表向きには君が死したことにしたまま、育てることを決めた」

 

 身近な仲間うちにだけは協力者として誓いの糸を結び、いざという時のために、備えたという。いざ、という時が今日だったのだとアズサは思った。どうしてゼンは自分を死んだことにしようとしたのだろうか。アズサの中で、様々な疑問が止めどなく溢れていく。それを見透かしたような表情で、アシャロウは話を続けた。

 

「ゼンは幼い君を一人で王宮には戻したくなかったのじゃ。封じられたために【魔力アラ】もない。身内もいない。いつ、誰が命を狙い、狙われるかも分からない。

 当時、君を保護できる立場の女王陛下でさえ、その地位は盤石とはいえなかった。よって女王陛下もその提案を受け入れた。君が生きていけるほど、あの血に塗れた王宮は良い場所ではなかった」

 

 アシャロウの声はどこか震えていた。

 

「そしてもう一つ、誤算が生じた。【魔力アラ】を封じたということは、君は【魔力アラ】が無きに等しく、魔法すら使え無くなってしまったということじゃ」


「だから僕は……、僕は【語れぬ者カエナン】だと」


「そうじゃ」


 アシャロウは悔いるように瞼を閉じる。

 じゃあ――と、アズサは心の中で先を繋いだ。そして脳裏に、男に追われた時、手の中に現れた結晶の感覚を思い出す。あれは恐らく魔法だったのだ。アズサには元々魔法が使えるだけの魔力があったのだ。軽く、それでも深い鼓動が奥底から聞こえてくる。

 

「僕は――、魔法が、使えるんですか?」

 

 同意するように、あっさりとアシャロウは頷いた。

 

「強大な力を持っていても、その力を使えない。かえってそれは狙われやすい、知らないほうが良いと思ったのじゃ。ゼンは頑なに君にこの事を教えるのを拒んだ。やがて時が経てば封じていた法式の力が弱まり、君が再び魔法を使えるようになると……こんな結果になるのなら、話しておいたほうが良かったのかもしれんがのう」

 

 ――魔法が使える。ずっと、心の中で望んでいた事だったはずなのに、気持ちはすっきりとしない。何か大きなものが心の中に穴を開け、その穴を風がすうすう吹き抜けていく。アズサは俯いて、膝の上の布団を握った。

 

「……僕たちを襲ったのは、〈うろの狐〉というやつなんですね」


「恐らくは」


「どうして、あそこが……どうしてゼンさんは、来てくれなかったんですか。今……ゼンさんは、どこにいるんですか」


「それは」

 

 アシャロウは静かに目を伏せて、そして重厚な羽織の中を探り、ポケットから一枚の青い紙を取り出した。

 

「アズサよ、どうか、ゼンを許してやってくれ」

 

 アズサは薄っぺらな青い紙を受け取った。そして途端に、心が固く張り付いていくような心地になった。

 紙にはゼンの名前が書いてあった。ゼン・バーリオ――そしてある二文字が飛び抜けてアズサの目に映った――『殉職』。

 

「じゅんしょく?」

 

 アシャロウは何も言わず、アズサは青い紙を裏返してみた。裏側はただ青いだけで、また表を見た。文字は変わらずそこにあった。

 

「誰が?」

 

 アズサは思わずアシャロウの顔を見た。胸の中に行き場のない感情が渦巻き始め、アズサはさらにもう一度青い用紙に目を落とした。その二つの文字が、何か意味の無い言葉のように思えてきた。

 

「ゼンさんが、な、なんで?」

 

 アシャロウは再びアズサに、手のひらに入る程度の小さな便箋を渡した。中身には一枚の紙切れが折り畳まれて入っている。アズサは震える手でその紙を取り出した。

 

 ――すまない。

 

 たった一言、走った文字で書かれていた。

 

「うそだ」


「わしは君に嘘をつけない」


「うそだ……そんな、どうして?」


「わしも、詳しいことは知らない」

 

 その瞬間、アズサの中で、言葉にできない何かが小さく破裂した。まるで、少し前に見た透明な球体のように。

 

 悲しみ、やるせなさ、怒り――? 胸を締め付けるような波が打ち寄せて、アズサはその小さな紙を指先でクシャリと歪めた。

 

「……雨が降っていた為か、かろうじて家は残っておっての。勝手ではあるが夫妻の遺体はこちらで葬儀の手配を済ませ、ここの敷地内の墓地に埋葬した。ゼンは……、残念ながら帰ってこなかった」


「かえって、こなかった……」

 

 アズサは俯いたまま、詳細を事務的に話していくアシャロウの言葉を聞いていた。失礼だとは思ったが顔を上げるのも億劫で、話の半分も耳の中を通り過ぎず、その声を何か薄い膜越しに聞いているような心地がしていた。

 

「君が住んでいた家は手を付けられてはおらんかった。そのまま結界を張り保存しておるが、今、あの場へ戻ることは得策ではないの」


「せんせいとユキは、どこにいますか。ウルも……」


「ユキ――、君と一緒にいた少女は別の部屋におる。あの魔獣も。先に目覚め、君のことをとても心配しておった。バルクスは」

 

 アシャロウがほんの僅かに言い淀んだ。

 

「バルクスは無事じゃが、ここへ飛ぶ途中に何かしらの魔法に当たったようじゃ。今は病院で治療を受けておる。死ぬことはないが……目覚めるにはちと時間がかかりそうでの。後で見舞いに行ってやっておくれ……」

 

 アズサは膝を抱えて顔をうずめた。これ以上はもう何も聞きたくない。何もあって欲しくなかった。

 

「ひとりに、してください」

 

 アズサは声を絞り出した。うずくまったままそう伝えると、「落ち着いたらまた話をしよう」という声と、部屋から出て行く音が聞こえてきて、やがて部屋はがらんとした空気に包まれた。

 

 アズサはただ、自分の中で動いている心臓の音だけに耳を傾けていた。自分の身体が今この寝台の上にあるのかさえ定かではなかった。



 

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