46 目覚め




 ◇◆◇◆◇


 ふわふわとした羽に包まれるような感覚と、甘い香りが鼻をくすぐった。

 

 沈んで、起き上がって、また沈んで。泥のように眠っては、うすらと意識が覚めていく。アズサはその状態を繰り返し、しばらくの間、微睡まどろみの淵を漂っていた。

 

 ――もう、起きないと。

 

 アズサは眠りかけの瞼をゆっくりと持ち上げる。

 手を動かしてみると、身体がその柔らかなものの中に沈んでいった。その部屋はほどよく暗く、まるで夜の中にいるようで。どのくらい寝ていたのか身体はずっしりと重たく、肢体を投げ出したまま、ぼんやりとした視界を慣らすためにアズサは瞼を数回震わせた。

 

 視界が明瞭になり、天蓋の真上に夜空が見えた。

 満点の星々が浮かび、その合間を透明な魚が悠々と泳いでいる。

 

「美しいじゃろう。この魔法を作った者はの、暗く何も見えない夜に怯えないよう、光と友を作ろうとしてこの魔法を紡いだのじゃ」

 

 ぼんやりとその光景を眺めていると、不意に隣から声がかかった。

 

「目が覚めたかのう」

 

 海のような夜空の前に老爺のにこやかな顔がすっと現われる。

 彼は長くて白いあごの髭を上下に撫でながら、まじまじとアズサの顔を見ていた。知らない人物がいきなり出てきたことにぎょっとして、アズサは上半身を持ち上げる。勢いをつけすぎて、身体が白い綿のような布団の中に沈んだ。

 

 老爺は深い森の色をした奇抜なマントを羽織っていた。彼が動くと、古ぼけた本のような、はたまたどこか爽やかな香木の香りが一緒に動く。それは眠る前に感じた匂いとどこか似ており、その時アズサはこれまでの全てを思い出した。

 

 あなたは、誰。

 そう口を開きかけ、アズサは自分の喉に手を当てた。

 

「声が出ないじゃろうて。水を用意しよう」


 目の前の老人もその様子に気がついたのか、手の届く位置に置かれていた水差しを掴むと、銀色の杯にそっと注ぎ、アズサに差し出した。

 

「もちろん、心配はいらん。【魔法医ラファネイ】のケリス先生が用意してくれたものじゃ。ほんの少しばかり心を落ち着かせる魔法薬が入っておるが、害はない。ああ、わしも一杯貰っても?」

 

 アズサが迷わず杯を受け取ると、老人はにっこりと笑い、もう一つあった銀の杯に水を注いで傾けた。

 ケリスという人物が何者かは分からないが、この老人は信用できるような気がして、アズサも銀杯に口をつけた。すーっと涼やかな心地が喉に広がり、不思議なほど、痛みが消え去った。

 

「調子はどうじゃ。どこか、違和感のあるところは?」

 

 アズサは首を横に振って、さっそく口を開いた。


「――あ、あなたは誰、ですか? どうして僕は」

「まあ、まあ落ち着きなさい。そう慌てると咽せてしまうぞ。安心しなさい、危険はもう過ぎ去ったのじゃ」

「えっと、ユキは――、ユキはどこに? バルクス先生は?」アズサは掠れた声でも構わずに、矢継ぎ早に聞いた。「ここは、ぼくはどのくらい寝て」

「安心しなされ、あの少女も、動物も、そしてバルクスも無事じゃ」

「そ、そうですか。良かった……」

 

 老爺はそっとアズサの手を握り、落ち着かせるように数回優しく触れた。皺の寄った手は温かく、アズサはまだ口から出ようとしていた質問を飲み込んだ。

 

「まずは自己紹介をしよう。わしの名はアシャロウ・ロヴェルディという。本名はもうちっと長いんじゃが、この二つの名だけ覚えていてくれればいい。……大丈夫、わしは君の味方じゃ」

 

 アシャロウは柔らかな光を宿した目をアズサに向けた。

 

「では、次に君の名を教えてはくれまいか」

 

 アズサは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「……ぼ、僕は、アズサです。アズサ・リアンタと言います」

「アズサ。良い名じゃ。して、君の質問に答えよう。まず、『どうして』という質問に答えるのなら、バルクスが君をここへ連れてきたからじゃ」

「ここ?」

「ああ。ここは、エルヴァ魔法学校という場所での」

「……エルヴァ?」


 アズサは戸惑いを露わにして、その言葉を繰り返した。

 

「うむ。君も知っておろう。水の国『アクアリオネ』、またはセレイアと呼ぶ我らが王国の、その中西部に位置するハルレルド公爵領、杖の街『ラノエ』にある、魔法の学び舎じゃ」

 

 アシャロウは天井に指先を向けると、すーっと横に切った。まるで布を裁つように夜空が端から裂け始め、泳いでいた魚は波紋を立てて逃げるように何処かへと潜ってしまった。

 

 夜のカーテンが開いていく。アズサの周りの景色が変わった。

 そこは暖色の灯りに照らされた、木造りの部屋。寝台、机、本棚、箪笥――誰かが使っている一室のようだった。

 壁の窓から差し込む光が地面に四角い模様を作っており、さらにその上ある青色の飾り窓からは、青い光がきらきらと落ちてきている。

 

 窓の外には大きな湖が広がっていた。空を写し取ったような青い湖――水の国にはいくつもの湖があるが、青く光る湖は一つだけ。杖の街『ラノエ』にある、パヌシーバ湖だ。

 

 周囲を険しい山々に囲まれた地には、いつしか大陸の中央に広がるラドラト湖へ至るリーヌ川から流れ出た水が窪地くぼちにたまり、巨大なパヌシーバ湖と離れ狐島を作った。その中心に浮かぶ孤島が、杖の街『ラノエ』であり、街全体が『エルヴァ魔法学校』なのだ。

 

「僕は、どうして」


 アズサは窓から目を離して、アシャロウを見た。

 

「もし君に何かが起きた時には、と、そう決まっておった」アシャロウは続けて言葉を続けようとして、けれども唇の動きを僅かに遅らせた。「しかし――うむ――そう誰が決めたのか、なぜ決めたのか、それが君にとってまず重要じゃろう」

 

 ちと荷が重いがの。と、アシャロウの灰色の瞳が静かにアズサを見据える。

 

 アズサは心のどこかで、アズサのことを教えてくれる人を待っていた。そしてそれは、ゼンだと思っていた。

 

 けれども、ゼンはここにはいない。

 目の前の老爺の真っ直ぐな視線に、アズサはこくりと唾を飲み込んだ。いま。今、聞けるのだという予感がした。自分でもおかしいと思えるくらい、頭は明瞭だった。

 

「僕は、なぜ殺されかけたんですか。僕は魔法も使えないのに、あの男は刻印がどうとか言ってたんです。どうして、おばさん達は――おばさんと、おじさんは……!」

 

 僕を守ろうとしたのですか。殺されたのですか。言葉を呑み込んで、アズサは膝の上でぎゅっと拳を握った。

 

「ああ、どこから話そうか」


 アシャロウは皺の寄った瞼をふと下げた。


「じゃが、これは少し難しい話になる。それでも聞きたいかい? 今はまだ病み上がりじゃ。具合が良くなってからでも、わしは君に話をすることが――」

「いますぐ」


 アズサはアシャロウの言葉に被せる勢いで声を強めた。


「今すぐ、知りたいです。でも僕はあなたのことを知りません。あなたが本当のことを言っても、嘘をついても、僕には判断ができない。僕は本当のことが知りたい」

「それはもっともな願いじゃな。うーむ、どれどれ。一つ約束をしよう。手を出してごらん」

「て、手を?」

 

 アシャロウは左の手のひらを見せるように差し出した。

 アズサは躊躇ったように右手をその手の上に乗せると、アシャロウは依然と優しげな表情のまま、一つ頷いた。何が起こるのか分からないまま、アズサはその様子を覗った。

 

「『約束は誓とれ。あまねく命運に契約を言祝ことほぎ、女神ルドスの天秤が下に申し上げる』。……そうじゃの、わしは君に嘘偽りなく話すことを誓おう」

 

 互いの右手と左手の周りを、光を帯びた糸の線が取り囲んだ。そしてその線はゆっくりと重なり、二つの輪を作って、二人の人差し指に巻き付いた。

 

「【誓は此処にありジュレイラ・ラモルタ】」

 

 そして巻き付いた光の線は、指に溶けるように消えてなくなった。

 

「契約の魔法?」アズサは自分の指をまじまじと見つめた。

「そうじゃ。わしが一方的に約束をしたからの、君には何の害もない。そうじゃ、試しになにか言ってみようかの」

 

 アシャロウは考えるような仕草で顎に手を当てる。

 

「わしの好きな食べ物はディルック・バールズのポンポンアイスじゃ」


 何も起こらず、アシャロウは茶目っ気のあるように片目をつむる仕草をする。「今のは真実じゃよ。あの店のアイスは絶品での」

「はぁ」

「それで――わしはの、君の実の祖父なのじゃ――アイタ!」

 

 アシャロウが「アイタ!」と叫んだ声と、アズサが、「え」と聞き返すのは同時だった。


 バチッと青い雷のようなものが手元で光ったと思いきや、アシャロウは痛そうに人差し指を押さえた。

 アズサは自分の体の中の血の気のなくなる心地がした。慌ててアシャロウの指を見ると、糸が消えて行った場所にはうっすらと赤い線が痛々しく残っていた。

 

「だ、大丈夫ですか!? 赤くなって……!」

 

 軽く火傷をしたかのように赤く色づいた皮膚に、アズサはすぐさま寝台の隣にあった水差しを掴んだ。だが、アシャロウは火傷をした手をやんわりと挙げ、もう片方の手で水差しを受け取ると、それを元の位置に置いた。

 

「ほっ、ほっ、ほっ。心配してくれたのかの? 大丈夫じゃ。少々、ピリッとしただけじゃよ。まぁ、これで信じてもらえるかのう?」

 

 アズサはすぐさま何度か頷いた。けれども、初めて会った目の前の老爺が、何故ここまでしてくれるのかアズサには分からなかった。

 

「どうしてそこまで……」

「言ったじゃろう、わしは君の味方じゃ」


 アシャロウはゆったりと微笑む。その微笑みには、誰も彼もを無条件に安心させるような雰囲気があった。


「うむ、それでは始めの話に戻ろうか。刻印の話を聞いたことは?」

「……【一番初めの魔法師セレ・ラファナ】の話、なら」

「そうじゃ」アシャロウは大きく頷いた。「天の女神シゼリアの子である【魔導師エレネイア】。――かの人から教えを得た者達。それが七人の【一番初めの魔法師セレ・ラファナ】と呼ばれる者たちじゃ」

 

 アズサはゆったりとした声に耳を傾けた。アシャロウの話し方は、不思議と耳の中をよく通った。変な抑揚があって、聞いていると眠たくなるような喋り方であるのに、なぜだかその言葉に耳を傾けたくなる調子だった。

 

「【一番初めの魔法師セレ・ラファナ】。彼らには力と共に七人の神々の恩恵と加護が授けられ、その証には『大刻印』が与えられた。そのうちの一人がこの水の国を作った初代アクアリオネ王であり、彼女は水の神の加護を得て〈ウルエラの大刻印〉をその身に宿した」

 

〈ウルエラの大刻印〉。

 あの時の男が言っていた言葉だと、アズサは口の中で転がした。そして、右手の甲を見た。――模様は消えてしまっていたが、うすらと黒墨の痕が残っていた。

 

 刻印は血脈へと受け継がれていく。その過程で途切れることもあれば、新たな刻印として派生することもあった。それでも、初めの〈大刻印〉はただ一つの一族に受け継がれていく。つまり、それは――。

 

「僕にはその刻印がある、から」

「もう、ここまでの話でおおよそ予想がついているじゃろうから、手短に話そう」


 アシャロウは真剣な視線を真っ直ぐアズサに向けた。その視線に、アズサの心臓は少しだけ早く鼓動を打つ。

 

「〈ウルエラの大刻印〉は、長い年月をかけてアクアリオネの王家によって繋がれてきた。君は〈ウルエラの大刻印〉を持つ者。ひいては我が国、アクアリオネ王家直系の血を引いている」

 

 アズサは息を呑むこともしなかったし、急に背を打たれたような刺激も感じなかった。なぜかその言葉がすとんと心の中に落ちてきた。ただ俯いて、「そっか」とだけ、ひとり口に出していた。

 

「あまり驚かんのじゃな」


 アシャロウはアズサを見定めるように目を細め、口髭を撫でた。

 

「君の名はアズサ。アズサ・セレイア・イアリス・リアンタ。父方のリアンタの姓であるのは、君には王位を継承する権利が無いからじゃ。だが一つの情によって、王家の人間だけが許されるセレイアの名が残された。君は当代の女王陛下、ユノリア・セレイア・リノ・カレニア・アクアリオネの……、甥にあたる」

「それは僕の――僕の、母が」

「君の母君はセノア・セレイア・ウルヒス・イレニ・アクアリオネ殿下。女王陛下の妹君にあたるお方じゃ。殿下は〈ウルエラの大刻印〉を持つお方だった」

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