45 信じて



 

 


「アズサ!」

 

 後ろから聞こえてきた声にアズサは意識を引っ張られた。先ほどの声とは違う、どこか掠れたユキの声。


 自分が強く握りしめていた手の上に温もりを感じて見れば、後ろから左手を伸ばしたユキが、アズサの手を上から包むように結晶を握りしめていた。

 

「――ふたつ――二つ数え、たら……手をゆるめて」

 

 ユキはぼんやりとした声で言った。今にも飛んで行きそうな意識を無理に繋いでいる声音で。

 

『逃がすかァッ!』

 

 ユキはちらりと横に倒れていたウルの姿を見やり、アズサと共に結晶を握った。

男は自身の目を手で覆いながら叫び、揺らしていた身体を二人に向けた。光の波に抗いながら、男はずるずると黒衣を引きずって近づいてくる。

 

「ユキ……っ」

 

 アズサの頭は今にも爆発してしまいそうだった。何かがぽっと、頭の内側から飛び出してしまう。ふと気がつくと、鼻からぽたりと血が落ち、杖を突き刺した地面に雨粒とともに吸い込まれていくのが見えた。

 

「わたしを信じて」今度は強い声でユキは言った。「行くよ、いち――」

 

 男は二人を捉えようと手を伸ばし、『――【呪えウギル】』地の底から這い出るような低い声で魔法を唱えた。――その声かき消すようにユキが「に!」と耳元と叫び――男が光を退けるように杖を向け――『【息よ、絶エイ――】』

 

「【うつせハルカ】!」

 

 アズサが手を離すと鋭い声が飛び交った。男の呪文を弾き飛ばし、その言葉が終わるよりもユキは口早に言い切って、アズサの手とウルの身体を掴んでいた。

 

 男の怒りの叫びが背後から聞こえた。男がこちらに手を伸ばしていたのが見えた。そして同時に、世界がぐるりと回る。引っ張られる。

 

 ユキは、がっしりとアズサの手を掴んでいた。そのうち握った手が抜けていってしまうような気がして、アズサも固く手を掴んだ。


 全身が引きちぎられる。意識していてもうまく呼吸が出来なくなり、何か強い力にぎゅうぎゅうと圧迫されているようだった。

 

 世界がぐるんぐるんと回って、そして――ドスン。どこかに落ちて、アズサを思い切り尻をぶつけた。

 嗅ぎ慣れた羊皮紙の匂いが鼻いっぱいに広がった。二人と――そしてユキがぎゅっと抱きしめたウルは――見慣れた本の山の中にいた。

 

 書庫だ。

 

「ここは……、僕の」

「思い……ついたところが、ここしか、なくて」

 

 ――ようやく帰ってきた。アズサは胸をなで下ろしたが、下を向いたまま荒く息を繰り返していたユキに気がついて、その背をさする。

 

「もっと……もっと遠いところに……!」ユキは絶え入るような息で言葉を繋げた。「ここ……ここ、なら良いと思ったけど……だめ、ここじゃないところに行かないと!」

「で、でもここには結界が……」

 

 ユキはどこか泣きそうな顔でアズサを見上げた。ぐっと唇を噛みしめると、「ないの」と言う。

 

「ないって」

 

 何が、と。嫌な予感が背筋を這い、アズサはその先を言えなくなった。

 遠くから恐ろしく嫌な気配がしてきたと同時に、知り得ない何かを、現実を、突きつけられたような気がした。アズサは呆然とした。心が妙にざわざわと波立っている。

 

 アズサは、ふと、窓の外を見た。


 部屋の中は静まり返っていたが、どこか遠くに聞こえていた音が徐々に明瞭になってきた。ザアザアと流れる音。雨。横に打ち付けられた雨とごうごうと風が、窓や扉を強く叩いている。遠くで光った青白い稲光が、ピシャリと窓に映った。

 

 いつもあるはずの、結界に守られていたはずの静かな夜が、そこにはない。

 

「ないの! だから……きっと……!」

 

 口を閉ざしたユキはまたウルを抱きしめて、そしてアズサの手を握った。世界が回り、アズサは強い力に引っ張られた。

 

 ――ドン。二人は鈍い声を上げて、どこかの部屋の床の上になだれ込んでいた。落ち着いた雰囲気のある部屋。すぐさま奥から慌ただしく物音が聞こえてきて、男が一人やってきた。

 

「誰だ」

 

 男は警戒した様子で声を発した。いつもの温厚な声ではなく、どこか鋭い声。その手には短剣が握られている。

 

「せ、せんせい……」

「その声は――アズサか!?」

 

 男はランタンを片手に掲げた。ランタンの光に照らされて、次第にその顔が見えてくる。男は普段の見慣れた仕事服を着ていた。そしてアズサの顔を見ると、短剣をその手から滑り落とした。

 

「バルクス、先生」

「ア、アズサ! なんてことだ!」


 バルクスはランタンを机の上に置き、すぐさま二人のもとに駆けつけた。


「なぜ、書庫にいるんじゃなかったのか!? それに怪我を……まさか……」

「お、おばさんと、おじさんが……」

 

 アズサはその先を言おうとして、ぐっと口を閉ざした。何が言いたいのかをその一瞬で理解したのか、バルクスはよろめいて頭を抱えた。

 

「二人の糸が切れたから……隣の町から急いで戻ってきたんだ。だが、そんな……遅かったか……でも、君たちが無事で……」

「い、糸?」

 

 バルクスは膝を着いて、震える手を伸ばし、二人の様子を足の先から頭の上までくまなく見る。そし二人をまとめてぐっと抱きしめた。肩越しに見たバルクスは心から安堵した表情をしていて、アズサは瞼が熱くなった。

 

「よかった――無事で――良かった、本当に良かった――」

「先生、僕は」

「アズサ。聞きたいことが山ほどあると思う。だが、まずはこの村から出ることが先だ。何があったのかは後で聞くから……。お願いだ、ユキ、もう一度『移動魔法』は――……。いや、無理そうか」

 

 バルクスは二人から身体を離すと立ち上がり、なにやら棚を漁った。

 ひどく焦った様子で物を散らかしていく姿に、アズサとユキは黙ってその姿を追う。どこまで知っているのか――否、知っていたのか、アズサは胸の中にすっきりとしない気持ちを抱きながら、その背中を見る。


 バルクスは瓶や小箱、紙束を棚から掻き出し、ようやく「あった、これだ!」と、一つの丸い石を取り出した。

 

「先生は、最初から」

 

 知っていたの。そう言おうとして、アズサは自分の手の甲を見た。まだくっきりと、その『模様』は残っている。

 

「この模様のこと」

 

 バルクスはその手の甲を見ると、「そんな」と目を見張った。

 

「これはいつ」

「おばさん達が男に……それで、逃げようとして、僕もう訳がわからなくなって! でも、これのせいなんだろ? おばさん達が……。先生は、この模様のこと」

「知ってたよ」


 バルクスは耐えるように固く目を閉じて、もう一度開いた。


「僕、夫妻、アルティナ、そしてゼンさん。むしろ、知っていたからこそだ」

「誰も教えてくれなかった!」

「秘密だからだ! 君はずっと……ずっと、守られていた。……ユキ、ウルをしっかり抱えていて。――……話せば、長くなる。ただ一つ言えるとしたら、それは――」

 

 バルクスはそこで言葉を切り、二人の手を引いて立たせると、床に落とした短剣を拾い上げた。――その時、バルクスの背後に黒い煙が渦を巻いた。「やつだ!」アズサが叫んだ。「追ってきたんだ!」

 

 バルクスは後ろを振り返って影を目にとめた。そして鬼気迫った表情でまたアズサに顔を向けた。

 

「僕からは口に出せない! だが、これから行く場所で聞く事はできる!」

 

 渦巻いていた黒い煙が段々と人の形になっていた。その影は実体がなかったが、三人に向かって襲いかかってきた。バルクスが二人を背にかばい、丸い石を床に投げつけ、そして足で踏みつけた。

 

 影が素早い動きで手を伸ばした。バルクスが何かを叫ぶ。部屋の中に白い光が広がり、また同じように世界が回った。

 

 光を切り裂いた影が、いくつもの黒い手を伸ばして追いかけてくる。まるで炎のように広がる影が三人の身体を捕えた。

 バルクスは唯一持っていた短剣で影を切り裂いた。世界が回っていた。回る世界から次々と影が引き剥がされていった。

 

 回って、周って、廻って。バルクスが剣を振ると、影が喉を切り裂かれたような金切り声をあげた。影が追いすがるように手を伸ばす。また全身が圧迫されて、アズサは息を止めた。

 

 回って――。「やめて!」高い悲鳴が聞こえて、青と黒の閃光が走った。ユキの声。その鋭い声の後に、黒い光がバルクスの背中にぶつかった。その身体が力を失い、両腕がだらりと宙にぶら下がる。


 回る。世界がぐるぐると周り、景色が揺れた。アズサは窒息してしまいそうだった。意識が保てなくなって、視界が滲んでいた。ユキががっしりとアズサの腕を掴んで、そしてまた、上へと引っ張られ……。

 

 ――ドン、と落とされた。

 

(どこ……だ、ここ……)

 

 アズサは温かな床に倒れていた。

 どこか、柔らかく爽やかな香木の香りがする。香を焚いているような香り。まだ世界が回っていた。頭の中がぐるぐると、全てが現実ではない幻のように、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。

 アズサは、意識が遠のいていくのを感じた。遠く……遠く……遠く……。









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