44 諦めてなんか


 


 その刹那、身を引き裂かれるような痛みが走った。

 頭に手を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく感覚。色々なことが洪水のように頭の中を過ぎ去っていく。痛みに自分を保つことができないまま、アズサはのたうち回った。

 

(痛い。いたい。苦しい。くるしい。くるしい!)

 

 枯れた喉を更に絞ったような、多くの悲鳴が聞こえてきた。男達の叫び声。女達の悲鳴。子ども達の泣声。何度も、何度も、何度も、頭の中で響いていく。

 

(ああ、きっとこれは、【黒塗り魔法ハイン・ティーシェ】っていうやつだ。――禁じられた、魔法。……どうして、僕は死ななきゃならない? みんな、ゼンさんは、知っていたの? どうしてこんなに苦しまなくちゃならないんだ? 僕が何かをしたのか? ――僕は何も、何もしていない!)

 

『なんだその目は』

 

 暗い天上から雨と共に落ちてくる言葉に、アズサはぐっと鋭い眼光をむける。男は苛立ちをあらわにしてアズサの前髪を掴み上げた。

 

「ぁ……くっ……ぼ、僕は――お前に、なんか!」

 

 男はまじまじとアズサの顔を見て、そして暗く黙りこんだ。

 

『……目、その目だ。実に気にくわん』

「うっ……あ、ああっ!」

 

 ずしりと胸の辺りが重たく心臓を直に握られたかのような痛みがして、アズサは胸元の服を握りしめた。喉の奥から途切れた嗚咽が滲み出る。理不尽なまでの痛みがアズサを襲った。

 

 死が目の前に迫っている。

 黒い炎が男の手元で揺れ、次第に形を成した。その右手には黒い剣が握られていた。

 髪から手が離されてアズサは地面に叩き落とされた。その向こうで男が黒い剣を振りあげている。アズサは目を固く閉じて叫んだ。

 

「ぼ、ぼくは……死に、たくっ……!」

 

 魔法が使えたなら。魔法じゃなくてもいい。剣でも、なんでも、目の前の男を倒す力――力があったのならば。

 

(僕は、こんなやつのために、また諦めなきゃなのか? みんなをころした、やつのために?)

 

「僕は――」


 魔法が、この手で自由に使えたなら。剣が、この手にあったなら。

 

(今までだって。いっぱい、ずっと僕は――。ただ、僕はただ、ただ――)

 

「僕は……っ」

 

 魔法が。剣が。この手に――……。

 

 ――いいか。アズサ、お前がどんな存在だったとしても。


 それは、きっと、ただの一つの記憶にすぎなかった。

 始めは幻のようにぼんやりとしていたいつかの記憶。それが次々と蘇り、折り重り、鮮明に見えてくる。そして溢れ出したその記憶の断片の一つが、大きな光と音をともなって頭の中で響いた。


 ――お前は、自分で自分の道を切り開くんだ。


 男には何一つも敵わない。けれども。


 ――お前は、今、どうしたい。


 たとえ、諦める理由がいくつもあったとして。



「おまえの! お前のため、にっ――死んでなんかやるもんか!」

 

 頭の中で、願いが、次から次へとあぶくのように弾けた、その時。

 目の前で、眩い光が散った。


 太陽の光を直接その目で見た時のように視界が白く冴えた。突然の眩しさにアズサは目をぎゅっと閉じたが、それでも瞼の上に光が突き刺さった。光は一つではなく、無数の色と輝きを帯びていた。

 

 アズサは僅かに目を開いた。目の端では幾つもの光が点滅を繰り返し、ちかちかと自分の瞼の裏でも光が爆ぜ、強烈な光の線に襲われた。全てが白一色に変わっていた。

 

 暗い森の中に気が遠くなるほどの光の白波が溢れ出す。気圧され、圧倒され、濁流のように押し寄せる光の波しぶきにその場は包まれた。

 

『何――ッ、ァアッ!』

 

 男が断末魔の悲鳴を上げて目を覆う。ゆらめく光。まばゆくて、アズサは目を瞬いた。

 

 一瞬でその世界は変わり果てた。

 

 手足が不思議なしびれに支配されて、それはどんどん深くなっていった。周りにあるものが、雨も、風も、音も、匂いも、全てが遠のいく。感覚も、知覚も失われて、全てがぐるぐるかき混ぜられたようにアズサの中で回り続けている。

 

 まるで、この世界にたった一人取り残されたかと思う感覚だった。色を失い、色を得た世界が暴れる波のようにアズサへと襲い来る。息を詰めてただ立ち尽くすアズサを放って、光の川が踊るように世界を彩っていった。

 

(なんだ)

 

 アズサはくらくらと傾く脳を立て直して視線を上げた。無秩序と狂気。混乱した色彩の渦。全てが混ざり合って、全てが解離かいりし、言葉で言い表すことができないまま、腹の奥からせり上がる悪心をアズサは口元で押さえ込んだ。

 

(なんだ、これ)

 

 指先の間から、冷や汗と涎が地面に滴り落ちていった。なんだろう、なんだろう。ただひたすらアズサは目を回した。

 

 美しくて、けれども、おそろしい。が押し寄せている。大いなるものが、目に見えているのだ。

 

 ぜて、きらめいて、点滅して、流れて。その全てが、突然の目の前に現われて見えるようになった。美しさに押し潰され、何ともつかない漠然ばくぜんとした恐怖にアズサは喉を鳴らした。

 白く霞が掛かった様な線のはっきりしない色の中、ふと、口元を抑えた自分の右手を、アズサは見た。

 

(なっ……)

 

 手の甲のあたりがひどくむず痒い。そこに何かの模様が見えた。――そうだ、とアズサは似た光景を思い出す。

 

(そうだ、ひかり。……あの時の洞穴と同じ)

 

 青い光が線を作り、その手に模様を描いていく。右手に何かが集まってくるような気がして、アズサはぐっと指先に力を入れて握った。固い感触がした。掴め、と全身が叫び、迷わずにそれを握りしめると、アズサの手には氷のような結晶に覆われた一本の棒が握られていた。

 

「これ、は」

『まさか――まさか、今……っ!』

 

 男が腰を折りながら、苦しげにうめき声を上げた。

 

『魔法は使えないはずだ! 小僧、お前っ、その刻印を……!』

 

 男はぐっと仰け反り杖を振り上げた。

 アズサはその細長い棒を地面に突き刺した。――どうしてそうしたのか、身体が勝手に動いたのだ。すると、突き刺した地面から、金色の光が波の様に広がって。男は光に怯えた様子で、苦しげに身をよじる。

 

『ひかり――光、光がっ! ギャアァァッ!』

「ウッ……うぁっ……ああああああ!」

 

 頭の中をかき混ぜられているような痛みが、再びアズサに襲いかかった。アズサも短い悲鳴を上げた。頭が割れてしまう。身体中が内側から焼け付き、脳みそが沸騰して、どろどろに溶けていくような気がした。

 

 その原因が握りしめた結晶にあることは分かっていた。けれどもアズサはその手を離さずに、力の限り、さらに強く握りしめた。

 アズサは握ったまま動かなかった。男が眩い光に苦しんでいる。この光があれば。――これがあれば――。アズサはただひたすら、男がここから消えることだけを願った。

 

(手を離したらだめ――手を離したら、だめ――)

(――アズサ、だめよ)

 

 その時、透き通った声が耳に響いた。ぐつぐつと音を立てていた頭の中に、その声は風のように通り過ぎた。

 

(このままじゃ、【大いなるものテーレ】に飲み込まれてしまうわ。だから――)

(だめだ、これを離したら)

(大丈夫よ、――が、助けてくれる)



 

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