43 大刻印

 



 森の中へと入ったところで、二人は後ろを振り返った。重なる木々の向こうに燃えていた火は、雨によってその勢いを弱めていた。

 

「アズサ……」

 

 アズサは何も言わずに、雨が降ってくる空をただ眺めていた。

 

「あ、アズサ……ねぇ、ウルが……」

 

 横顔からは何も感じられなくて、ユキは顔を背けることしかできなかった。

 

「アズサ」

「先生……バルクス先生のところに……」

 

 もう一度呼びかけると、強く握られた手が少しずつ力を失っていった。アズサはゆるゆると顔を動かしてウルを見やり、静かに言った。ユキは解けそうな手を強く握り直した。

 

「……うん」

 

 ――ガサ。

 不意に、茂みが揺れ、遠くから何かがやってくる気配がした。音は真っ暗な森の奥――小屋の方から聞こえてくる。

 

「早く行こう」

 

 背筋を這う嫌な寒気から目を背けるように、先を急ごうと振り返ったところで、二人はぴたりと体を止めた。

 

 戦慄が体を稲妻のように貫いた。

 

 目の前に、小屋にいたはずのあの黒い影が立っていたのだ。

 アズサとユキは一二もなく走り出していた。だが男が腕を一振りすると、身体はすぐに言うことを聞かなくなる。「あっ」と思った時にはもう目の前に地面があった。二人はぐしゃぐしゃに泥濘んだ地面を転がり滑っていた。

 

 赤く燃える炎を背に悠々と歩いてきた男の服には


「……っ! お、お前はいったい何なんだ! おじさんとおばさんを……どうして!」

 

 力任せにアズサは大声を上げた。

 

「なんでこんな……!」

『――知らないのか。そう、そうか。それでは教えてやろう。それはお前がを持っているからだ』

「は……?」

 

 男がゆっくりと、自信をみなぎらせた声音で口を開く。アズサは地べたに這い蹲ったまま男を見上げた。男の口調は先程よりも流暢だった。

 

「だ、大刻印? 大刻印って……は、はは、そんなもの、僕は持ってない。人違いだよ。僕は、そんな」

 

 渇いた笑い声が喉の奥から出てきたが、それと同時にふと――自分が今言ったことに、アズサは確信が持てなかった。それならば何故、ディグレとマルサはあれだけ必死にアズサを逃がそうとしただろうか――。

 

「ぼ、僕は……」

『――お前は大刻印の所有者。〈ウルエラの大刻印〉だ。随分と長い間お前を探していた。お前の存在は、早く排除しなくてはならない』

「な、なんで――、なんで僕が死ななきゃならない」

『――お前の両親は我々の邪魔でしかなかった。奴らは脅威だった。だからあの時奴らの息の根を止めたというのに、生れたお前にが受け継がれた。お前の存在も我々の脅威。お前の存在があるから』

「父さんと、母さんに――? 僕の父さんと母さんに、な、何を」

 

 目の前が真っ暗になった。男の言葉はまるで頭の中に入ってこなかった。

 

「アズサ!」

 

 男の手がアズサに向かったその時、仰向けに転がされていたなっていたユキが上体を起こして鋭い声で唱えた。

 

「【麻痺せよシスペリア】!」

 

 閃光が男の目の前で弾け、火花のごとく散る。ユキはぐっと唇を噛んだ。男はユキへ身体を向けると、まじまじとユキを見下ろした。

 

『――ほう』

 

 男は愉快そうに笑った。

 その手に黒いもやが集まって、徐々に形を成していく。男が靄をしかりと掴むと、そこには黒炭のように薄汚れた、闇のような魔杖が現われた。

 

「……【黒塗りの杖エシラ】、そ、その杖……それは……」

 

 ユキは唖然とした表情で呟いていた。

 その杖の正体が頭の中に浮かび、そして同時に、心の中を掻きむしるような、ひどく言いようもない感情がわっと湧き上がってきた。

 

『その歳であの魔法。それに、杖を使わずとも魔法を唱えるとは尚のこと面白い。小娘、お前、何者だ?』

 

 【黒塗りの杖エシラ】。【黒塗りの魔法ハイン・ティーシェ】を使った魔法師の、慣れの果て。――ユキの中に、ユキにも正体の分からない、炎に打ち付けた鉄よりも熱い感情が沸き上がる。


 知らない。そんな感情は知らない。ユキは心の中でかぶりを振り、何が一番なのかを考えた。一番は――まずここから、アズサとウルを連れて逃げることだ。


 ユキは男の問いかけには口を閉ざし、代わりに隣のアズサを見やった。

 アズサは何の表情もない顔ですくんだまま、一つも動かずにいた。避けようのない大きな恐怖を目の前にして、気力を失っているようだった。

 

『まあ、答えずともよい。ここでお前も……』

「来ないで!」

 

 ユキは、口の中から今にも出てしまいそうな感情をぐっと飲み込んで、動かない身体を無理に動かした。男の魔法で身体は鉛のように重たく石の様に固い。――だがユキは、それだけだ、と思った。

 

 ユキは全身の力を振り絞った。そして男に向かって手を向けた。

 

「――【空よ、雨よ、水よクオド・リオリエ】」

『なに? 魔法を――』

「【動けリーフ】っ!」

 

 瞬間、降りしきる雨が時を止めた。木々の合間に落ちる雨と、足下の泥水。男の周りに満ちた水気が渦を巻いて男の身体を覆った。

 

「アズサ……!」

 

 ユキはぐったりとしたウルをすぐに抱え上げて、地面に座り込んでいたアズサの肩を掴んで揺すった。

 

「アズサ、行こう!」

「あ――」


 アズサの虚ろな表情がユキを見据えた。ゆるゆると頷くその表情は青白く、薄い肩は小さく震えている。

 

「アズサ!」

 

 ここから逃げなければ、殺されてしまう。ユキの中の何かが警鐘を鳴らしている。ユキは意を決してアズサの腕を引いた。

 しかしその時、背後の空気がぐんと揺れた。男を抑えていた水が四方へ飛び散り、津波のような波飛沫を上げ、二人の身体を飲み込んだ。

 

『小娘が』

 

 一瞬、鋭い針に刺されたような痛みが身体に広がり、ユキは声にならない悲鳴を挙げて地面に倒れた。赤い閃光が視界に迫っていた。

 

「【防げディーフェル】!」

 

 ユキは後ろを振り返り、唇を震わせた。赤い閃光は目の前で火花を散らして霧散した。この時、自分でも何故か分からないほど、ユキの頭の中では様々な魔法とその使い方が蘇っていた。

 

 ユキが腕を振ると、男の足元が凍りつく。男は固まった足を気にもせずに力ずくで足を踏み出して氷を割った。

 瞬く間に割れた氷が刃のように鈍い光を帯びて反り返り、その黒衣に突き刺さった――と見えたが、氷は男に刺さる直前、その先端から溶け出す。

 

 息付く間もなく、男がその杖の先を地面に叩きつけた。

 ユキの身体は勢いのまま空に伸びた木の枝まで浮かび、そして真っ逆さまに叩き付けられた。頭に一撃があった。出張った木の根に打ち、ユキは目の前がチカチカと光ったような気がした。地面が回った。一瞬のことだった。いったい何が起きたのか、まるで理解できなかった。

 

「ぁ、グ、ぁあっ……!」

「ユキ!」

 

 アズサは蒼白した顔で、ぐったりと倒れたユキの身体を支えた。ユキは朦朧もうろうと瞼を持ち上げようとして、頭を左右に揺らした。

 

『所詮は小娘、この程度か』

「くっ……」アズサは地に手を食い込ませて、男に向かって掴んだ泥を投げつけた。「――来るなっ!」

 

 泥の塊が男の足元にべチャリと落ちる。


 『――何のつもりだ? それだけとは実に愚かだな、小僧』


 勝ち誇ったように言う男が二人を見下ろし、緩慢に黒い杖を振り上げた。

 

「や、やめろ! 殺すのなら僕だけにしろ! 僕を殺すために来たんだろ!?」

『お前の望みを誰が聞くと?』

 

 男は愉快そうな声で、何も出来ないアズサを嘲笑あざわらう。


『自らを守る魔法も使えず、敵を貫く剣もない。己のせいで誰かが死に、己は何もすることができない――と。さあ、嘆け。憤りを覚えろ。そして。己の無力さを』




 

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