42 いきなさい




 まるで、闇に溶かした影のような、ひょろりと背の高い男の姿。

 アズサとユキがその人影に気がついた時、ディグレは台所にあった空の鍋を手に取っていた。そして、見たこともないほどの俊敏さと力強い動きで、彼は古びた天井に向かって鍋を縦に放る。

 ――ガシャン! 鍋は天井にぶつかって落下し、床の上で使い物にならなくなった。

 

 天井の板が外れて床の上に崩れ落ちる、その一瞬。

 落ちてきた板目の間、きらりと光る細長いものがあった。ディグレはその棒を迷い無く掴んだ。

 一振りの剣だ。青白く光る刀身を勢いよく抜きざまにして、ディグレは低い姿勢で走り込んだまま、男へ向かい一閃を放つ。

 

 カラン。

 投げ捨てられた意匠のある鞘が床の上を転がり、ガキンと刃が岩にぶつかったような音が響いた。幾度とディグレの剣さばきが鋭い光を放った。ディグレの立ち居振る舞いは洗練された動きで、握った剣はその手に深く馴染んでいる。

 

「グゥッ!」

 

 ディグレは苦く顔を歪めた。剣は鋭く空を切って男の前で止まった。

 そこに何か見えない壁があるかのように、ディグレの剣戟を防いでいる。男は指先一つとして動かしていなかった。

 

「こいつ……!」

 

 ディグレが苦々しく吐き捨てると、影のような男の衣から暗色の煙が立ちこめた。

 

『――ミツケタゾ』

 

 地のそこから響く、不気味な声が木霊した。

 ディグレはほんの数秒前、マルサが言わんとしていた事を思い出す。――来た。奴が来た。早く逃げて。

 その時、ディグレは己の頭の中が、かっと熱くなったような気がした。

 

「逃げろ! 早く行け、アズサ! こいつはお前を狙ってきた奴だ!」

「――え」

「この忌々いまいましいが……っ!」

 

 ひどく焦った表情のディグレが喉を切り裂くような声で叫ぶ。アズサはその言葉の意味が分からずに、唖然とディグレを見やった。

 

 ディグレは剣を片手に男と相対したまま、近くにある棚から赤い石を掴むと、地面に向かって勢いよく叩き付けた。割れた石の中からボッと炎が燃え上がり、それは四つん這いの獣の形に姿を変えて男に牙を剥く。

 

 続けざまに、ディグレは三つ四つと石を割る。炎の獣がさらに数を増やし一気に男に襲いかかった。法式の付与された魔石――そのような高価な物がこの家にあること。そのことにアズサは驚きを隠せなかった。

 

 ディグレは炎の獣たちと共に男に向かって剣を向け、大きく切り込んだ。しかし、またもその刃は何かに阻まれる。ディグレは直ぐさま飛び退いた。ひゅ。横に倒した顔の傍を、見えない何かがディグレの頬を切り裂き、一線の血が滲む。

 

 男が指を一本動かした。一匹の獣が醜い悲鳴を上げながら、炎に巻かれて消え、そこには光を失った灰色の石が転がった。他の炎も次々とただの石ころに戻っていく。

 

 ディグレは台所に置いてあった小さな本を乱雑に取りページを一枚破った。

 床が揺れ、壁がうねり、部屋中から木の幹が波のように手を伸ばして男を縛り付けた。ディグレは再び口でページを破る。真っ白な紙は鳥のように羽を動かして男に群がった。白い鳥たちは鋭い嘴でギィギィと嘶きながら男の身体にまとわりつく。

 

 しかし、男が片足を大きく踏みならすと、男を捉えた木や蔦は黒く朽ちて消えた。鳥は炎をまとい、身もだえて黒い墨となると、無残に床の上へと落ちていく。

 

『老イタ騎士風情ガ、邪魔ヲスルナ』

 

 男はただディグレに向かって手を伸ばした。ディグレは一つ悪態を吐くと、背後を振り返って叫んだ。

 

「早くここから――! ガッ、ぅ、ァ……!?」

 

 その長い腕を一振りしたところで、二人の目の前からディグレの姿が消えた。ユキが小さな悲鳴を上げて息を飲み込んだ。そして、小屋が大きく揺れた。

 

 触れられてもいないディグレの身体は天井に叩き付けられ、そのまま地面に真っ逆さまに落ちた。手足と首は手折った枝のように曲がって、床に叩きつけられた体は動かない。ただその右手は一振りの剣を離さずにいた。

 

「お、おじさ……」

 

 男は黒い衣に身を包み、その顔は衣の中へと隠れて見えない。少しづつ近づいてくる男には、人を地へと屈服させるような異様な威圧感があった。ぐっと押しつけられた圧迫感は、息を接ぐことさえ邪魔をしていた。

 

 ディグレに走れと言われても、迫り来る恐怖に身体が動かず、アズサとユキは、心ともなく身を寄せ合って後ずさる。

 

 男と二人の目の前に、何処からともなく大きな光が立ちはだかった。ウルだ。

 

 その姿は幼さを消し去り、まるでアズサが初めて出会った時のような狼の成体ほどの姿をしていた。

 銀色の毛からは光が溢れ、部屋の中を神々しく照らしている。その背につく大きな羽を羽ばたかし、ウルは気合いを込めたように低く唸った。鋭い爪をむき出しにした太い前足を踏み出して、鱗に覆われた尾は威嚇をするかのように床を叩いた。

 

 煌めく金色の瞳が真っ直ぐに男を射貫き、男は銀の光から逃れるように身を捩った。

 その一瞬、ウルは身を低くして一歩後ろへ下がり、勢いのまま男の首筋に飛びかかった。しかし、またもウルの額は見えない何かに当たり、渇いた牙がかち合わさって、爪が男の衣を僅かに裂いただけであった。

 

 何度もウルの低い唸り声と地の底から鳴り響くような重たい物音が聞こえてきた。二人は身をすくめ、固く目を閉じた。祈るように、肩を震わせた。

 

 大きな物音は数秒続き、やがて断続的に鈍い音が何度か聞こえ、音は止まった。

 

「ギャゥッ!」

 

 男が大きく動かした手によってウルは後ろに飛ばされ、鈍く痛々しい音を立てて二人の目の前に転がっていた。

 銀色の毛並みは赤黒く染まり、右の前足がおかしな方向に曲がっている。ヒ、ヒ、と短い息を繰り返していたウルの身体は、次第に小さくなって、いつもの幼い姿となっていった。

 

「ウ、ウル」

 

 転がったウルの身体に、ユキは震えた手を伸ばし、血だらけの身体を抱えている。

 どうしたらいい――アズサの頭はくるくると動いた。けれども答えは出ない。

 目に入ったのは、横たわるディグレの姿だった。

 

 ――逃げないと。

 

「立って!」

 

 ユキの震える肩を力いっぱい掴んで、アズサは強い口調のまま叫んだ。

 

「あ、アズサ――」

「早く!」

「でもっ……!」

 

 ユキはウルをぎゅっと抱きしめ、髪を引かれるようにディグレとマルサの姿を探した。そしてアズサの顔を見て、あ、と息を止めた。アズサの薄い唇には血が滲んでいる。悔しさを奥歯で噛みしめている表情に、ユキはただ一つ大きく頷いて、足に力を入れた。

 

『見ツケタゾ、大刻印……』

 

 ユキの手を掴んで引っ張ったアズサは、裏口の扉目掛けて走り出す。男の言葉はうまく聞き取れなかった。

 その言葉に振り返った二人は何かに足を取られ、中心を失うまま、地面に引き倒された。

 

「あぁっ!」

「うっ」

 

 すぐに起き上がろうとしたが、身体は思うように動かない。男は二人のすぐ近くまで来ていた。すーっと地面を滑るように動く男は、足をあと数歩踏み出せば手が届いてしまいそうなほどまで迫っている。

 

 不意に、ひどく大きな稲光が落ち、小屋は青白く照らされた。ドォーンッ――続けざま地響きが轟き、小屋が揺れた。

 二人の後ろの裏口が風に押されて勢いのまま開け放たれる。扉の向こうは、まるで別の世界だった。全てを押し流してしまいそうなほどの雨が、凄まじく降り注いでいた。

 

 顔の見えない男の腕がすっと伸び、二人の前に翳された。身体は石のようで、短い息だけが口から出て行くだけ。迫り来る男の白い蝋のような手に、アズサはぎゅっと目を閉じて――。

 

 ――閉じた瞼の向こうで、まばゆい赤色が輝いた。

 

「お……に、げ……さい……わ、たしたちの、きぼう……」

 

 不意に聞こえた掠れた声に、アズサは再び目を開ける。

 身体から血を滴らせたマルサが、無残にも壊れた家具に身体を預けて立ち上がっていた。その手に、深紅の石がいくつも握られて輝いている。

 

「うっ、グ――ゆる……お、ゆるし、くださいっ……。お、うじょさ……!」

 

 マルサの腕が弱々しく持ち上げられる。その手のひらに握られていたのは、暖炉の火を灯すために使用する魔石だった。

 

 最後の力を振り絞るようにして、握られた魔石が床に叩き付けられた。いくつもの魔石が一斉に、粉々に砕け散り、マルサの周囲に炎が巻き上がった。それは瞬く間に男の足下へと、みるみるうちに広がって。

 

 男は怒りに打ち震えたかのようにして二人から視線の外すと、大股にマルサのもとへ向かった。

 その手はマルサの首を掴み、もう片方の手で口を塞ぐと、何やら言葉を呟いていく。するとマルサの目や口から黒い液体が流れ出した。あれはなんだ。アズサは息を飲んだ。そして、男は苦しみに藻掻もがくマルサを突き飛ばすように放った。

 

「お、お前っ――だけは――……グウゥッ!」

 

 マルサは台所の棚の上に並べられていた硝子瓶に向かって崩れ、瓶を薙ぎ倒した。――ガシャーンッ。硝子瓶が甲高い音を立てて飛び散り、その中味が床の上で飛び跳ね、魔石の上に降りかかる。

 

 ばらまかれた瓶の中味が床の上を転がり、アズサの靴にぶつかった。

 

 はっと顔を上げると、マルサの厳しい叫びが炎の向こうから聞こえた。マルサは男の黒衣をキツく掴み、男の行く手を阻んでいた。

 

「いき、なさいっ……はやく! さあ!」

 

(――クブの実だ)

 

 アズサが目の前に転がってきた木の実の正体に気がついたその時、大きな火が天井まで逆立ち、深紅の津波が目の前に押し寄せた。マルサと、そしてマルサが掴んで離さない男の影が、火の壁の中に巻き込まれた。

 

『離せ、女ァッ!』

 

 発火性のあるクブの実が、バチンバチンと弾け飛ぶ音が聞こえる。

 弾けたその中にある油分が辺りに飛び散り、火にまみれた実が燃料となって、炎の壁を、厚く熱く掻き立てた。

 痛みを伴う熱気が頬を刺し、アズサは後ずさった。そして気づいた。足に纏わり付いていた違和感が、ない。

 

(――うごける)

「いぁ……ひっ、火が、いや」

 

 ユキは赤い炎をただ呆然と見やって、小刻みに震えていた。ああ、火が――。

 アズサは跳ね飛ぶように立ち上がり、ウルを手に抱えたままのユキを引っ張ると、裏口目掛けて逃げ出した。

 

 そして、篠突く雨の向こう側へと、ただひたすら走って走って、走り抜けた。

 

 目の前は真っ暗だった。

 アズサは何も考えずに走った。ユキの手を引くまま、無我夢中に走った。

 

 落ちた雷霆が轟き、近くの木の幹を真っ二つに裂いても足は止まらなかった。肩に掛けたままの鞄が暴れ、身体に何度もぶつかる。足や脇腹が鈍い痛みを帯びても、木の枝が顔を擦っても、暗い森の中を走った。

 

 そうしていなければ、ただ走らなければ。少しでも何かを考えてしまうと、悲しみが、後ろから追いかけてきそうだった。

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