41 斜陽と逢魔②



 しばらく経って、ユキがふと顔を挙げると、空を灰の雲が覆い始めていた。山際からもくもくと湯気のように立つ雲が清々しく晴れた空を走り出している。

 

「ユキ、お待たせ。――ン、どうかした?」

 

 戻ってきたアズサは、竹の水筒と小さな焼きたてのパンを手に、じっと空を見上げていたユキに首を傾げた。

 

「雨の匂いがする。きっとこれから、雨が降る」

「雨だって? ……ほんとだ、雲が出てきてる。降ってくるかなぁ。あ、はい、これ」

「あ、ありがとう」

 

 ユキは微かに笑って、差し出されたものを両手に受け取った。

 アズサもユキの隣に座り、パンを口に放り込んだ。頬を膨らませて何度か咀嚼そしゃくすると、ゴクリと呑み込む。それからもう一口頬張ろうと口を開けたところで、ユキが何も手をつけていないことに気づき、開きかけた口を一度閉じた。

 

「どうしたの? 焼きたてのホカホカだから、美味しいんだ。いつもこの街に来ると買ってるんだよ。……もしかして、お腹空いてなかった?」

「ううん」

 

 ユキはぽうっと空を見続けていた。光をはね返すような青い視線は、雲のその更に遠くを眺めているかのようだった。

 

「――荒れた天気になる」

 

 ぽとりと雫を落とすような声で、ユキは呟く。何かを感じ取っているのか、ユキは稀にぼんやりと何かを見つめていることがあった。

 

「じゃあ、早く帰ったほうがいいか。食べたら、おじさんを探そう」

 

 決まってその時、ユキの言うことは良く当たる。占いよりも強力な予言のごとく。アズサは口にパンを詰め込んで最後の一切れまで飲み込んだ。

 


 ディグレと合流すると、ハーダルの街から灰小馬ハイコウマの荷馬車に乗って、三人はミエラル村を目指した。


 丘を登り山間の道を進む途中には空一面がかき曇り、今にも雨が降り出しそうなほど、どんよりとした天気に変わった。ついに山を抜ける頃、その墨を溢したような空から一斉に太く長い雨が地面の打ち始めた。

 

 御者が必死に馬を走らせミエラル村へと辿り着くと、村は激しい雨に包まれていた。

 時刻は既に迎月げいげつの刻を回り、陽は山の向こうに沈んでいる。村の道には人一人も出ていない。霧だった飛沫の向こうに、ぽつぽつとほのかな明かりが灯っていた。

 

 大粒の雨が地面に打ち付けられ、ぬかるんだ地面の合間を溜まった水が流れて行く。泥を跳ね飛ばしながら三人は森を目掛けて一目散に走り、顔に当たる雨をそのままに、風のように駆抜けて、ようやく大きな木々の下に身体を潜り込ませた。

 

「大丈夫か?」

 

 息を整えていた子供二人を心配そうに見ながらディグレは言った。

 葉に当たる雨音がざあざあと聞こえて、静かなディグレの声はその雨音にかき消されてしまそうだった。雨に濡れた服が重たく、むずむずとする。アズサは犬のように頭を振った。

 

「わっ! ウル、待って、うぁっ!」

 

 ようやく袋から出たウルも、開放されて気分が良くなったのか、同じように全身をぶるぶる震わせて、そこら中に水をはね飛ばした。思い切り水をかけられたユキは、小さく悲鳴を上げた。



 

 雨が赤く色づく葉を汚していた。

 葉の隙間を縫って零れ落ちる雨から逃れるように、三人は急いで山を登った。木の下から下へと潜り抜けながら進み、しばらくして、茂みの先に、橙色の明かりを窓の外に溢した小屋が見えてきた。

 

 アズサとユキは玄関の上に張り出たさんの下に飛び込み、体の雨粒を振り落とすと、じゅくじゅくと水気を含んだ服の裾を両手でぎゅっと絞った。


 絞っても、絞っても、水気はとれなかった。そうこうしているうちに横から手を出したユキが水渇きの術を使うと、三人の服もウルの毛並みもみるみるうちに乾いていった。

 

 ディグレは通りざまにユキの頭にポンと手を置いていくと、扉を開けて中に入り、「帰ったぞ」と、何時ものように低く平坦な声で家の中に声を掛けた。

 

「そういえば、あの洞窟から持ってきた荷物、置いたままだったね」

「どこに置いてきたの?」

「裏庭にある小屋の中だよ。でも……」


 アズサはせっかく乾いた服を見下ろして、軒下から手を少しだけ雨に濡らした。

 乾かしてもらったのに、また濡れるのはどうだろう。そう考えていたところで、「また乾かすよ」と、ユキは微かに笑って頷いた。

 

 二人は軒下から飛び出して家の裏手に回った。裏庭には、ディグレの工具やいらなくなった物を詰め込んだ、これまた小さな物置小屋がぽつんと建っていた。

 

「こっち!」

 

 扉は歪んでいたのか、重たい音を立てながら地面を剃って開いた。奥に進んで行ったアズサが声を潜めながら叫ぶ。小屋は子供二人でも狭いくらいだった。

 

 アズサは工具や荷物を慣れた手つきで順番に横へと寄せて、丁度、子供の指が入るような床板の隙間に指を突っ込むと、思い切り上に持ち上げた。古く軋んだ床板の下に、鞄が二つほど入るほどの空間が空いていた。

 

「前に見つけたんだ。何かを隠すには持ってこいさ」

 

 アズサは目的の鞄を見つけて顔を明るくさせると、荷物を上へ引き上げて埃を払う。そして後ろから床下を覗いていたユキに鞄を手渡した。

 

「ありがとう」

「うん。どういたしまして」

 

 二人は荷物を手に小屋から出ると、庭の畑を横切って、裏口の戸の前まで駆け込んだ。ユキが魔法で服や鞄を乾かし、裏口の重たい扉を押し開けようとした。

 

 ――その時だった。

 

「マルサ!」

 

 部屋の奥からディグレの悲鳴に近い叫び声が飛び、アズサとユキは肩を跳ね上げた。それは一度も聞いたことがないような恐ろしく低い声であった。

 

「マルサ、しっかりしろ! おい!」

 

 普段のディグレには似ても似つかない声に、二人は慌てて部屋の中へと駆け込む。ディグレの姿は台所にあった。

 

「おい! 何があった、マルサ!」

 

 ディグレは台所で背を丸めていた。床に膝を付き、何かを抱きかかえるようにして。

 その大きな背中ごしに見えた彼の腕の中には、白髪の混じった茶色の頭が抱えられている。――嫌な予感も振り切れずに、アズサその背中に近づいた。

 

 嫌な予感を確かめる間もなく、目の前で広がる光景に、あ、と喉からはかすかな息だけが零れ落ちる。全身から血が一斉に抜け落ちていった。ディグレの足もとには赤黒い液体がじわじわと広がっていた。

 

「マ……マル、サ、おばさん……?」

 

 ひゅ。隣にいるユキは信じられない面持ちで口に手を当てた。その音を最後に、その瞬間、アズサの周囲から音が消えた。赤い。この液体は何。どうして死んだ獣のように、足がだらりと地面に落ちて――。

 

 アズサはよろよろと足を縺れさせて、マルサの傍にへたり込んだ。目の前が真っ暗になって、周囲の景色が全て、現実からすーっと遠のいていくようだった。

 

 マルサ呼吸は断続的に続いていた。マルサの首筋からわき腹にかけて、深く裂かれた傷が見えた。傷跡からはとめどなくマルサの命がこぼれ続けていた。

 

 ひゅう、ひゅう。口からは弱々しい隙間風のような息が途切れながら吐き出され、血色の良いはずの表情には飛び散った血と青白い皮だけが残されている。破けた服は黒く変色しており、かすかに上下に動く胸だけが、切れかけた糸が繋がっていることをまざまざと表していた。

 

「マルサ、おい、マルサ!」

「マルサさん!」

 

 ユキは名前を呼びかけるディグレの隣に、崩れ落ちるように座る。そして真っ赤な胸の上に手をかざした。

 

「わ、私が、どうにかする。どうにかするから!」

 

 ユキは真っ青な顔をして必死に声を荒げた。その言葉は、まるで自分に向かっていっているようだった。

 

 けれどもそれは、マルサによって阻まれた。

 マルサはユキの手首を掴んでいた。凍えたような指先にユキははっとして、マルサの顔を見た。

 そのこげ茶色の眼にはまだ光が揺らめいていた。マルサは青い唇をゆっくりと動かして、何かを伝えようとしていた。けれども掠れた声は不鮮明で、吐き出した息の音だけが聞こえてくる。

 

「……く……、あ……ぃっ!」

 

 ディグレはその口元に耳を寄せた。マルサの手を握った大きな手が小刻みに震えている。

 

「…………、は……、……」

 

 マルサは視線だけを動かして、アズサとユキを見た。

 そして、ユキの手首は唐突に解放された。その冷たい力は、下へするりと落ちていく。

 

「ああ――」

 

 重力に従って床へと落ちる手を、アズサは呆然と見送ることしか出来なかった。

 

 どうして。

 そう声に出すこともできず、心の中で問いかけた時。突如、まるで天地をひっくり返したかのような、身の毛もよだつ悪寒が全身を巡った。

 

 肌の上をゆっくりと蛇が這いずり回り、全身に冷や水が掛かかる。足は凍り付いたように床について動かない。ぐるりと天井が歪み、壁がしなり、床の木目が波打った。


 実際にそうなっていたかは分からないが、アズサはそう感じた。何か目に見えない強い力が体の中に入って来ている。恐ろしく巨大で不気味な力に手足を縫い留められ、喉をぐっと締め付られ、アズサはその数秒――もしかしたらもっと長く、それとも短い時間――自分が息を継げていたのかも分からなかった。

 

 ――気が付けば。

 玄関のこちらに、黒い影が立っていた。





 

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