58 入学試験①

 

 時間は瞬く間に過ぎていった。

 勉強と訓練の日々を過ごしていくうちに、色づいた葉が木から離れ落ち、杖の街には本格的な寒さが訪れた。


 はらはらと曇り空から小さな白雪が舞い落ちる中で、アズサは手にしていた手帳を閉じ、目を閉じる。


 『法式手帳』。

 アズサは手帳を使ううちに、あらゆる可能性を想像するようになった。手帳は便利なものだった。けれどももし、これから先の未来で、手帳が使えなくなったとしたらどうすればいいのだろう。手帳に頼らない力を付けていくことが、今は必要なのではないか――。


 最初はただ、便利なものを得た喜びがあった。しかし手帳に頼るほど、アズサは不安に思った。

 

 ――それに。

 ゼンは、アズサが手帳に頼りきりで魔法を使うことを、心から望んではいないような気がした。アズサを想ってした贈り物でも、便利なものだからと渡されたのではなくて、上手に使うように渡されたのだ。


 ゼンの遺した物だからこそ、アズサはあの本を大切に使いたかった。

 アズサは基本的な魔法の法式陣をいくつも練習した。 法式の仕組みを考えることは、アズサ自身が、法式と【魔力アラ】を扱う上で、大いに役立つ勉強だった。 


 そして、セノルの言うことももっともだ。根っこにある問題を変えられるのならそうするべきだ。

 何度も試しては失敗したが、自分自身の力で【魔力】を扱えるように、アズサだってなりたいのだ。

 

 アズサは法式を覚えることだけではなく、自らの力で、そのままの法式で、【魔力】の操作を練習していくことを選んだ。


 ――静かに息を吸い込んで、吐き出す。

 ――冷たい風が頬を撫で、冬の匂いが鼻をかすめた。


 形を持たない【大いなるものテーレ】を、形の有るものとして認識する。ユキと話した時に感じた水の喩えを意識することで、何かがあるという感覚が、アズサの身体に馴染む。それは身体の中を水となった【大いなるものテーレ】が巡るような感覚だった。


「【灯せウルーシェ】」


 その言葉も静かに空気へと溶け込むと同時に、アズサの手のひらに小さな光が生まれる。小さい。爪の先ほどの光の粒が、儚く揺らめく。


「――あっ」


 指先に力が入ると、パッと光が弾けて消えてしまった。

 アズサはがっくりと肩を落とした。小さな光を灯せるようになってきたが、光は弱々しくすぐに消えてしまう。

 

 小さな光を短い時間だけ灯せるようになった。練習を重ねて魔力の感覚も徐々に掴めてきた。けれどもぱっと光るだけでは足りなかった。


 入学試験まで残された日はわずかしかない。

 入学試験の日が近づくにつれ、アズサの胸に、小さな不安が膨らんでいた。本当に自分が力を発揮できるか確信が持てなければ、これ以上大きな光を灯せるとも思えなかった。もし失敗したら――。そんな思いが、どうしても頭を過ぎってしまう。


 アズサは頭を抱えてしゃがみ込んだ。


 「あー! もう!」

 

 アズサの隣には、ユキがいる。アズサも分かっていた。ユキは、魔法の天才だ。


 セノルも息を呑むほど彼女の才能は頭一つ飛び抜けている。分かってはいるものの、ユキの魔法を見ていると、自分でもできそうに簡単に見えて、けれども出来ないのだろうと現実を突きつけられているような気持ちになる。

 アズサはしゃがみ込んだまま、ふうー、と長く白い吐息を伸ばした。


「ずいぶん上達したじゃないか」


 振り返ると、セノルがいつものようにふらりと現れ、アズサをじっと見つめていた。


「セノル先生」


 アズサは少し驚いたが、すぐに困ったように笑みを浮かべた。


「小さいのはできたけど、どうしても上手くいく気がしないんです」


 セノルはアズサに近寄り、その横に座った。


「……自分の力でするって難しいです」


 アズサは自分の手をじっと見つめた。魔法に関する知識は頭に入っているという自信があったが、それが使えないことに情けなく感じていた。


「そうか?」


「そうかって……。だって、これしか、光がつかないんですよ。頭では分かってるけど、やっぱり法式陣を書きかえたもののほうが、いいんじゃないかって」


「うーん」セノルは唸った。何を言おうかと、考える間が空く。「じゃあ、君が今までやってきたこと、全部無駄だったってことか? たしかに、入学試験の時、その時に魔法が使えるようにするのなら法式を書きかえることも一つの手だ。入学してから魔力の操作を頑張って鍛えればいいかもしれない」


 セノルは両手を後ろについて、灰色の空を見上げた。


「でも、それだと必ず限界がくるし、周りの生徒たちには遅れをとる。俺は限界がくるようなやり方で、生徒を教えようとは思わないよ。それなら始めから、伸びる可能性があるものを伸ばそうと考える」


「ずいぶん信じるんですね」


 はは、とセノルは白い息を吐いた。


「小さくても短くても光を灯せた。けっこうな進歩じゃないか」


 アズサはセノルの言葉に耳を傾けながら、ふと胸の中に小さな光が灯るのを感じた。小さくても光を灯せたことを、セノルは伸びしろと言う。アズサができると信じているのだ。

 どうして信じるのだろう。アズサはそう思ったが、膝を抱えた腕に顔を隠すようにして、むず痒い気持ちも隠した。


「気休めだけど、正直すごいなって思ってる。俺、ほとんど君に教えなかっただろ」

「……確かにそうですね」

「おいおい、そこはちょっと否定しなよ」


 からからとセノルは笑った。確かにセノルは、ふらりと来てアズサに声を掛けて、またふらりといなくなっていた。思い返してみれば、セノルは何かを一から十まで教えようとはしなかった。


「ははは。まあ、だから一つ手助けをしようかなって」

「手助け?」

「ああ。ほら手を出して」


 言われるがまま、アズサはセノルの目の前に手を出した。セノルはアズサの手の少し下で、少し大きな手のひらを広げた。


「そのまま、さっきみたく、やってみな」


 戸惑いながらも、アズサは再び意識を手のひらに集中させた。深く息を吸い込むと、冷たい空気が肺に満ちる。風が頬を撫でる中、「【灯せウルーシェ】」と呟いた。その瞬間、あの流れがゆっくりと体内に染み込むのを感じた。


 しかしその感覚は突如として崩れた。


 自分の身体が自分のものではないような感覚だった。

 まるで川の水が急に氷に閉ざされたかのように、魔力の流れが止まり、身体がずっしりと重くなる。アズサは目を開け、焦りを感じながらセノルに視線を送った。


「今、【魔力アラ】の感知力を高めている。身体が重たく感じるのはそのせいだ」


 セノルは目を閉じていた。その声は低く、静かに響いた。


「前にも言ったけど、君は、【魔力アラ】の流れが所々がせき止められいる。無理に押し出そうとすれば逆に力が溢れ出てしまうし、制御しようとすれば、いつまでも流れは滞ったままだ」


 まるで水がゆっくりと川を下っていくように、ゆるやかに温かいものがめぐった。


「今度はさっきみたいに大雑把じゃなく、もっと繊細にやってみな」


「せ、繊細?」


「魔力ってのは力づくで法式に押し込むものじゃない。もっと、一本の糸を引き出すみたいに、細やかに、慎重に扱うんだ」


 アズサは頷き、再び目を閉じた。冷たい風が髪をかすめ耳に静かな風の音が届く。「【灯せウルーシェ】」と呟いた。すぐに感覚がふわりと動き、身体に力が入った。

 けれども、あのゆるやかな気配がなくなっている。


 意識を深く沈めていく。静かに、まるで深い水の底を探るように。


 ――魔力はどこに?


「止めろ。力を入れすぎだ。もっと静かに」


 明確な存在は無い。

 けれども確かにここにある。

 指先から腕を通り、体中を巡っていく不思議な感覚。それは透明で、柔らかく、けれど確実に存在している。


「学び初めは、唱えてから魔法が起こるまで時間がかかってもいい。まず最初に君がやるべきことは、【魔力アラ】がどこをどう通ってるかを感じ取ることだ。焦るな。強く押し出すな。目の前に細い糸でも浮かんでいると想像して、少しずつ、その糸をほどくみたいにやってみろ」


 アズサは繊細な糸を扱うように魔力を探り、少しずつ、体内に眠る魔力を静かに引き出そうとした。


「今度はその【魔力アラ】を少しだけ手のひらに集めて。たった一滴とか、一筋でいい。それをゆっくり動かすんだ」


 深呼吸を続けながら、慎重に、魔力を少しずつ手のひらに導いていく。魔力が限りなく細い道を流れ、アズサの手のひらへと集まった。次第に温かな感覚が手のひらを浸し、その繊細な流れを感じる。


「そのまま、流れを絶やさないように」

 

 セノルの声がどこか遠くて聞こえているような気がした。

 余計な力は入れない。ただ手のひらにわずかに流し続ける。細かい動作が必要だったが、少しずつその感覚が心地よくなっていくのが分かる。


 セノルの手が下ろされる。アズサは自分の感覚を研ぎ澄ませた。


 ゆるやかな流れが、まるで体の一部であるかのように、自然に感じ取れるようになっていた。

 アズサは感覚に身をゆだねた。まるで、自分も自然の中へと解けていくような感覚だった。


 時間の感覚が曖昧になり、風の冷たさも、周囲の音も、すべてが遠のいていく。

 ただ、体の中で魔力が静かに巡り、手のひらへと集中していく過程だけがありありと感じられた。それは、意識を完全に委ねた先にある、静寂のような時間だった。


 アズサの手のひらに小さな光がぽっと灯った。


 その瞬間、アズサの意識はその光によって引き戻された。

 まるで忘れていた現実に急に立ち戻るかのように、冷たい風が頬を鋭く撫で、周囲の寒さが一気に身にしみる。白い息が凍てついた空気の中でふわりと漂い、アズサは、自分の頬に解けた水滴の冷たさを強く感じた。

 

「あ……」


 光は先程より大きく、強く、揺らめいている。アズサは息をのんだ。


「【魔力アラ】のコントロールだ。無闇に【魔力アラ】を感じてそのまま力を出すんじゃなくて、必要なだけを無駄なく流す。まるで呼吸を整えるように」


 セノルの手は離れている。正真正銘、確かに自分自身の力で灯した光だ。


「次は最初から一人でできるように。【魔力アラ】は繊細に扱うんだ」




 ◆◆◆



 迎えた新明月にいあけづきの十日。前日に降った雪が薄らと地面を白く濡らす、足元の悪い日。


 二人は集合時間の少し前に、試験会場となる城の東南、『ルッテベン講堂』に来ていた。大きな半円状の部屋の中心には演説台があり、その台を囲むようにして、机が階段上に並べられている。


 集合場所にはすでに多くの人が集まっていた。並べられた机に点々と子供が座る。アズサと同年代の子どもだが、その中には歳下か、歳上かと思う者もいた。


 一番にアズサが驚いたのは、獣の耳や尾を持つ者、肌の色がアズサとは違う者、不思議な服を着ている者がいたことだった。エルヴァ魔法学校は、広く他の国にも開かれた学び舎だ。アズサの知らぬ国から来た子供もいるのかもしれない。


 まだ何も始まっていないからこそ、講堂には静かな緊張が満ちている。その緊張から自分を守るように、アズサはぎゅっと手のひらを握った。


「机の番号と、手の甲の番号が合う席に座ってね」


 講堂に入ってすぐ、扉の入口に立っていた魔法師の女が告げた。

 アズサとユキは手の甲の数字を見合った。外の受付にいた魔法師が、講堂に入る前にかけた魔法。手の甲には三桁の黒い数字がぼんやりと浮かんでいた。アズサは092、ユキは024。席番号では、アズサは後ろで、ユキは前の席のようだった。


「緊張してる?」と、ユキが聞いた。

「少し、ちょっとだけ」

 アズサの心臓は音を立て始めていたが、それを隠すように笑った。

「わたしも」

「ユキも?」

「うん」

「そろそろ開始時刻ですから、皆さん席について!」


 部屋の前方に現れた女性が、声高らかにそう告げた。


「アズサ、大丈夫だよ」と言うと、ユキは前の方の席へと歩いていく。


 ユキも緊張するのか。アズサは意外だと思った。その後ろ姿を見送って、アズサも自分の席に座った。

 

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