22 細氷
実の所、ユキの中には複数の人格が生まれ始めているのではないか。そうアズサは考えていた。その兆候は漂う言動や雰囲気から明らかで、全てが同じ一つの人間であるとは到底思えない。
今まさに言葉を交わした人は、中でも一番まともである様子だった。会話はさして通じないが、きちんと言葉は成り立っている。
あの小さな明るさを持つ少女が出てくることはそう無かった。
けれども、一番の厄介なことは、アズサやマルサのことを別の誰かと間違えているということ。もしもその誰かと話をしているとして、アズサが反応を誤ってしまったら。もしアズサがその人ではないと、気がついてしまったら――。
あたり障りのないことを言い、意味の分からない言動に相槌を打ち続け、それはまるで細い糸の上を渡っているようなことでもあった。
「食べたかい?」
アズサが寝台から立ち上がったところで、マルサとディグレの二人が廊下から顔を覗かせた。アズサは部屋の外へ近づき、小声で答えた。
「半分ね。途中で食べるのが嫌になったみたい。それにまた僕を誰かと勘違いしてた」
「食べただけ十分さ。しょうがないよ。これ以上どうすることもできないようなら、隣町か、それか別の場所でも、大きな病院に連れて行ったほうが良いかもしれない。先生も言っていたしねえ……」
「大きな病院に行ったとしても、あの状態なら今とは大差ないだろう。病院の奴らなんぞ、厄介者は邪険にして、粗末に扱うだけだ。それに……動物は一緒に行けない」
部屋の隅で丸まったウルを静かに目に映し、ディグレが言う。その言葉にマルサは遣る瀬無く息を吐き出して眉尻を下げると、アズサの頭を撫でた。
「さあ、アズサ。食べ終わったのなら片付けるよ。お皿を運んできてちょうだい。……ああ、おまえさんはこれからどうするの?」
「俺は、外へ行ってくる。今日はいつもより暗くなるのが早いから、先生の様子を見に行ってくる」
「そうね、分かったわ」
ディグレは熊のような身体をのそりのそりと横に動かして、廊下の奥へと消えていった。
その様子を見送り、アズサは部屋の中に視線を戻した。ユキはまだ寝台の上で身を起こしている。すっかりと気が抜けて、ぼんやりとした顔をしていた。
「そろそろ先生も来る。皿を片付けたら、それまであの子の様子を見ていてくれるかい?」
「うん」
「じゃあ、頼んだよ」
部屋に戻ると、アズサはどこか遠くを見つめるユキの目の前に立ち、その視線の先で手を左右に振って顔を覗き込んだ。
視線は動かなかった。意識を閉ざしているのか、はたまた目を開けたまま寝ているのかもしれない。
「片付けるからね」
アズサは皿を片付づけ始めた。お盆の上に載せたところで、そうだ、と思い返す。再びその目の前に膝をついて力の入っていない手を取ると、案の定、その手は汚れたままだ。
「……ごめんなさい」
消え入るような声が上から聞こえてきて、アズサはその顔を見上げた。
「なんだか君は謝ってばっかだね」
濡らした布で丁寧に手を拭いながら、アズサは困ったように眉を寄せる。謝られるのは、どうにも慣れていなかった。
すると、それよりももっと聞こえないほど小さな声で、ごめんなさい、とユキは繰り返した。
「別に、謝ってほしくてやってるわけじゃないよ。むしろこういう時は、ありがとうって言うんだ」
ユキは何も言わずに下を向いたまま、ただアズサの手元を見つめていた。アズサの言いたいことが伝わったのかは分からない。
手を拭い終えて立ち上がり、部屋を後にしようとお盆を抱えたアズサだったが、その時、背後から小さなうめき声が聞こえてきた。
その呻き声は、聞き間違いかと思うほどか細いものだった。振り返ってみると、ユキは口元を抑えてうずくまっていた。只事ではない。アズサは慌ててその近くに駆け寄った。
「どうしたの?」
そう声を掛けた、その時だった。
「――ぅ、あゥっ」
桶の中の水を溢したように、赤黒い液体が、びちゃびちゃと滝のようにユキの口元から溢れ出す。口を覆ったその手のひらを見て、アズサの喉がひゅっと嫌な音を立てた。
――血。綺麗にしたばかりの白い手には、赤黒い液体がべっとりと付着している。
青白かった顔はさらに色を失っていき、再びユキは咳込む様にして口に手を当てた。その口元は、まるで生の獣の肉に齧り付いたかのように黒い色に染まっている。ユキは背を丸めてうずくまり、苦しそうに布団の表面に爪を立てた。
「う、ぁ、い、いたい」
「い、痛いだって? 痛いって、どこが痛いの?」
「かひゅっ、ひゅー、うっ……くるしい……いたい」
アズサは大声でマルサの名前を呼んだ。水仕事をしていたのか、手を拭いながらマルサはやって来た。
「アズサ、どうしたんだい」
マルサは部屋に入ってきてすぐ手にしていた布を取り落とし、目を丸くして足を止めた。その時には既に、ユキの口から吐き出された液体の量は人が吐き出せるような量を超えていた。
床や布団が黒く染まって、またその上にびちゃびちゃと液体がこぼれ落ちていく。
ユキはせり上がってくる何かを必死に抑えているようだったが、抑えきれずに、絶えずそれは口の端から零れ落ちていった。
(血じゃない――)
赤い色だが血にしては黒い。インクのような黒い液体が口元から溢れ出す。
その得体の知れない何かは四方八方へと手足を伸ばすように染み込んでいく。ユキは汚れた両手で胸の当たりの服を強く握りしめると、苦しげに背中を丸めた。
「はっ、ひゅ、うぐっ!」
「ど、どこが痛いのか――ねぇ!」
アズサは何をどうしていいのかもわからず、ユキの背中を手で擦ることしかできなかった。
すると、マルサがその手に布と桶を抱え、息せき切って戻ってきた。何があったんだい、と困惑を露わにした表情に、アズサは首を大きく横へ振った。
「僕も、何がなんだか――」
「あ、あぅぅぅっ!」
悲鳴を上げたユキは、激痛に耐えるように顔を歪めた。気道を塞がれているかのように、喉の奥からは不吉な音がしている。ひゅう、ひゅうと、まるで、破れた笛の音のような音であった。
「ああああああっ!」
喉も張り裂けんばかりの声が、部屋の中で、暴風のように吹き荒れた。腹の底から搾り出された絶叫がその咽頭を突き破り、獣のような唸り声を出しながら、ユキは奥歯を噛み締めて身体を捩る。その額や首筋には脂汗がぶわりと滲んでいた。
部屋の隅で立ち上がったウルが、地を這うような低い唸り声を上げ、ユキに向かって牙を向いた。グルグルと喉の奥を鳴らすその声は、山の狼たちが警戒を顕にする時の鳴き声とよく似ていた。
それをユキに向けていることが、アズサには信じられなかった。
(な、何が起こって――突然、なんで――)
汗に濡れた前髪がうねり、額や頬に張り付いている。アズサはユキの顔を覗き込み、息を呑んだ。
見開かれた目は焦点を結んでおらず、苦痛に耐える眼は血走って、晴れ渡った空のように明るく淡い色をしていた瞳は見る影もないほど暗く濁っている。――まるで赤い血がじわりと染み込むかのごとく、深い湖のような濃紺色へと、瞳の色が変わっていく。
(目の色が……見間違い?)
「あああああ、いたい、あたまが、いたいっ」
ユキが再び叫び声を上げた。ドン、と音が鳴った。
雷のような、地鳴りのような音だった。そしてその瞬間、アズサは強く吹き荒れる風に取り込まれた。
アズサの肩に、重たい空気がのし掛かった。顔もまともに上げられないような重圧。叫び声と強い風が部屋の中に満ちて、アズサは咄嗟に顔を腕で庇った。
周囲を取り巻く風は、古びた木製の椅子や箪笥、アズサが置いていった本、燭台――部屋中の全ての物が中に浮き上がらせた。狂乱する声に併せ、物が四方八方へと飛び交い、暗い色の窓掛けが嫌な音を上げて引き裂かれた。部屋はもう悲惨な有様だった。
窓硝子も砕け散り、アズサとユキの二人の体に降りかかる。次は恐らく壁がやられると、アズサは身構えた。
「ああああ、ああ、あっ、あぁ、あぁ……」
だが、ユキの叫び声は少しずつ小さくなり、ぷつりと途切れた。アズサが顔を上げると、散らばった硝子の破片に気がついたのか、ユキは震える手で、大きな破片を手に握りしめていた。
――酷く嫌な予感がした。アズサは咄嗟に、強い力でその手首を取った。
「待って!」
「ア、アズサ……!」
ゴォゴォと耳元で音が逆巻き、床の板が跳ね上がるように軋む。嵐の中からマルサが名前を呼ぶ声が飛んできたが、アズサにはもう目の前のことで精一杯だった。
「あう、うっ、うううっ……痛い、痛いの、助けてよ……! もうイヤなの、もう……!」
長い銀の髪が顔を覆い、その表情は見えない。だが、鋭い硝子の破片が、白い喉元で光っている。
黒く汚れた手に握られたガラス片からは、今度こそ真っ赤な液体が滴り落ち、それを見たアズサの全身がかっと熱くなった。
「やめろ!」
硝子の破片ごと、アズサはその手を握りしめた。
「はな、はなして、はなして。嫌だ、わ、わたっ……わたし……だめ……」
「何が、一体何がだめなんだ!」
アズサは力任せに怒鳴った。自分でも驚くほど声が出た。びくりと肩を震わせたユキは、何か悪いものに憑りつかれでもしたかのように、虚ろな表情で言葉を繰り返した。
「し――死ななきゃ、死ななきゃだめ。生きてちゃだめ、だめなの、早くしないと。うるさい、うるさい――っ! な、なんで、なんで止めるの、なんで――ヘキ、なんで、ヘキ!」
虚ろな紺色の瞳が、じっとアズサを映した。声は悲鳴に近く、そしてひどく痛々しいものだった。そう信じて疑いすらない。そうしなければならないと、その瞳が訴えている。
飛び散ったはずの硝子が巻き上がると、鋭い刃となってアズサの頬を掠めていった。
ユキは尚も、誰かの名前を叫んでいる。その目はアズサを見て、アズサに嫌だと叫んでいるのにも拘らず、アズサだと認識していないのだ。
「僕はそいつじゃない」
頬を伝う血を肩で乱暴に拭い去り、アズサはとうとう抑えが効かず叫んでいた。怒鳴った声に比例して手の力をさらに強めると、ユキは低いうめき声を上げて身じろいだ。
「僕はアズサだ!」
ユキの小さな肩が震えた。アズサは喉元を狙う手を力一杯引き留めた。ガラス片ごと握りしめたせいか、アズサの手も傷つき、血が流れていった。そして血は指先の上を滑り、布団に染み込んでいく。黒い液体の上に、赤い血が混ざった。
「ああっ……!」
そしてついにアズサの手の中で、ユキの手の力が次第に弱まっていった。アズサも自分の手の力も抜くと、硝子片は二人の手からすり抜け、布団の上へと落ちた。
「あっ――あ、ああ、そんな、血、けが」
「怪我?」
ユキはひどく焦燥した様子で、アズサの手を見ていた。まるでいけないことをしてしまった子どものように、小刻みに震えた手を伸ばして、怪我をしたアズサの手に触れる。
「な、なんて、なんてことを――」
「だ、大丈夫だよ、これくらい。大丈夫だから」
「ごめ――ごめんなさ、わた、わたし――ああ、あ」
そのまま俯いてしまったユキを落ち着かせようと、アズサは頬に笑みをのせて言った。けれどもユキは俯いたまま肩を震わせ、動かなくなってしまった。
未だ二人を取り巻く風は切り裂くような冷たさをはらみ、刃のように鋭く吹き抜けていく。アズサは吹き荒む風に思わず目を閉じた。
「うっ……」
何か冷たいものが頬に触れた気がして、アズサは顔を上に向けた。
天井のどこからともなく氷の結晶が舞い落ちてきていた。室内だというのに、本物の細氷が降り注いでいる。口をついて出た吐息も白く煙り、アズサは俯いたままのユキを見て、そして驚きに目を見開いた。
ユキの全身から、青白い光の礫が滲むように溢れ出していた。
淡い色の光りがユキの身体を包み込み、そして巻き上がった風の中に散っていく。その冷気に、アズサは思わず身震いを止める事ができなかった。
なんて寂しくて、悲しくなるような寒さだろう。このまま身体の奥底から全て、凍り付いてしまいそうで――。
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