第三節 失って、回生

21 うつろう色



 3



 

 トレーの上に乗せた粥からは白い湯気がふわふわと立ち昇っている。

 アズサは足下に寄り添って歩くウルの身体を蹴らないように、自分の――今は少女の――部屋へと向かった。

 半分開いた部屋の扉の隙間からは橙色の明かりが柔らかく漏れ出ている。アズサは扉を数回叩き、部屋の中へと声をかけた。


「ごはん、持ってきたよ。入っていい?」


 返答は無かったが、アズサは片手で盆を支え、もう片方で扉を押し開ける。

 足のあいだで彷徨いていたウルはすぐさま部屋の隅へ向かって行くと、足を折り畳み、背を丸めて座り込んだ。もはやそこは彼の定位置になっており、壁際にはマルサの与えた毛布が積み重なっている。


 目当ての人は、寝台の上で身体を起こしていた。視線はずっと窓の外を眺めており、アズサが声をかけてもその顔を動かさずにいる。部屋に入った事さえも、気付いていないのだろうか。


「夕食だよ。ほら、マルサおばさんの作った粥だ。もう少しで先生も来るから、今日はいつもより早めの食事だけど、良いよね?」


 それでも反応はなかった。アズサはこれもいつも通りだと思い、少し落胆して肩を落とした。少女は全く反応を示さなかった。


 あまりにも窓の外を見つめ続けるものだから、アズサは、その蒼い瞳の先を追いかけ、自身も窓の外へ視線を向けた。そこには美しい橙色の光が、彼方の山脈を包み込むように燦爛さんらんと輝いている景色が広がっていた。


「夕日を見てるの? この部屋からだと一番綺麗に見えるんだよ」


 静かに凪いだ横顔は、一体何を思っているのかさえ読み取れない。美しい景色を見ているのに、何の感情もない。掛けた声に対する反応すら、もちろんなかった。もはや、そちらの方が普通だと思えるほど。だが、それでも、今日はいつもよりだった。


 静かな姿をちらりと見ながら、アズサは運んできた粥に手を伸ばし、端に避けていた机をユキの目の前に引き寄せた。


「よし。火傷しないくらいの熱さになったかな。ほら、これスプーンね。それからパン、おばさんが焼いたんだ」

「……ひ」


 掠れた吐息とは違う音をアズサの耳が拾う。木の葉から滴り落ちた水滴のように、小さな声がその口から発せられた。


「えっ?」


 アズサは驚いて掴みかけた匙を盆の上に落とし、すぐさま後ろを振り返った。ユキはゆっくりと視線を動かして、アズサの顔を見上げる。そしてまた一言、「ゆうひ」と口を動かした。


「――え、えっ……うん! あれは夕陽だよ」

「なまえ……」


 再び口を開いたユキが平淡な声でもう一度言った。その声は小さいものの明瞭で、氷のように透き通り、耳に心地よく響いた。


「な、名前って、僕の?」


 アズサは自分に向けて指を示す。するとユキはごくわずかな動きで首を前に倒した。


「ぼ、えっと……僕はアズサ。アズサ・リアンタ」

「あ、ず、あず」

「アズサ。僕の母さんが付けてくれた名前だ。リアンタは父さんの姓。すごく珍しい響きだけど」

「あず、さ」


 アズサはごくりと喉を鳴らした。


「君の名前も教えてほしいな。ちゃんと聞いておきたいんだ。君のことはユキって勝手に呼んでいるけど、合ってるのかな」

「な、まえ」

「うん」

「……なまえ」


 ユキは固く口を閉ざす。何かを推し量っているように、その眉間に皺が寄った。


「分からない?」と、アズサは聞き返した。するとユキは、「……分からない?」と同じように言葉を繰り返す。ユキは口から落ちていった言葉を追いかけるように俯いて、また口を閉ざしてしまった。

 アズサは眉尻を下げた。何かを言いたいのか、伝えたいのか、もしくは言えないのか、分からなかった。けれども無理にその先を促すのは気が引けてしまった。


「答えたくないなら良いよ」


 と言葉を付け足し、アズサはユキにパンを食べやすいように千切ると、その目の前に差し出した。

 焦げ茶色の塊をユキはジッと見つめた。それはまるで初めてパンを見るような目付きだった。


「パンだよ。食べたことない? ちょっと硬いけど美味しいよ。ほら」


 アズサは差し出した手を引っ込めずに、ユキの手を取ると、その手にパンを置いた。白い指先が恐る恐る硬いパンの生地に触れ、柔らかく握られる。


「ああ……う……」

 

 しばらく黙っていたユキは突然、何かに向かって意味の無い言葉を発する。その始めの言葉はアズサの知らない聞き慣れない音をしていたが、やがてそれは次第と理解できる言葉へと変わった。


「……そんなに、責めないで……違うの……ああするしか、なくて」


 アズサの心臓がどきりと音を立た。

 その前後の会話の脈絡は、分かりきったほど繋がっていなかった。けれどもそれは確りとした言葉だ。

 もしかすれば、このまま会話を続けることで、何か、この少女のことを知ることが出来るだろうか。アズサはそう思って、乾いた口を開く。


「僕は責めてなんかないよ」

「わ、分かった、うん、大丈夫だよ。これは私がやらなきゃ、だめなんだって」

「何を……何か、やらないとなの? 一体、何をやらなきゃなのさ」


 アズサが言うと、ユキはまた押し黙った。そして数秒、ほんの短いその時間の中で、かちりとその雰囲気が切り替わった。それは、ほんの瞬きの間の出来事のように、一瞬のことだった。


「――ね、私の分も食べて良いよ」


 俯いていた顔を上げたユキは、目の前に立つアズサを見上げてふわりと笑った。


 笑った、というのも、あくまでアズサがそう思ったまでだ。笑ったように見えていたと言うのが正確なところで、表情はさして変わっていなかったかもしれない。だが、彼女の纏う雰囲気が、さらりと柔くなったのだ。


(……さっきとは別人だ)


 柔らかな表情と共に差し出されたパン。そして、ユキの顔。それぞれを交互に見比べて、今度はアズサが口を閉ざした。

 ユキはアズサが半分にしたパンをさらに半分にして、ほら、と促していた。


「もう半分はね、ほかの人のぶんよ」

「他の人……、ええと」


 言葉に詰まって、アズサは口を閉ざした。


「どうしたの? 食べない? ふふ、半分こにしよう」

「……うん、もらうよ。ありがとう」


 アズサがパンを受け取ると、ユキは満足気に目元を緩ました。座って、とその隣に促され、どうすればいいのかほとほと困り果ててしまったアズサは、仕方なくその隣に腰を下ろした。


「ふふ、ふふふ。ねえ、蜂蜜は好き?」

「蜂蜜?」


 困惑したまま首を傾げると、ユキがその白い指先をそっと近づける。


「えへへ、ほらパンを貸して。何を付けたい? 好きなもの、何でも出してあげる。蜂蜜、それとも木の実のジャムがいい?」

「えっ、と……」

「――あぁ、そう、あなたは蜂蜜が好きだったのよね」


 一体何をしようとしているのか、アズサには皆目見当もつかなかった。

 アズサが困惑している間に、すーっとパンの千切れた面に沿って、ユキの指先がふわりと動く。

 アズサはその指の動きを目で追って、あっと息を飲んだ。指の動きに沿って、白いパンの表面に、黄金色の塊がトロリと重なった。


「えっ!?」アズサはびっくりして、おかしな声を上げそうになった。「これって、まさか……蜂蜜?」

「ふふ、ふふふ。ね、おどろいた?」


 薄く微笑むユキは自分のパンにも同じように指を重ねた。アズサは、魚のように口を開けたり閉じたりして、その横顔と指先と自分の手の中にあるパンを何度も見返した。


(ま、魔法だ――何の魔法だ?)


 目に見えない無から、有が生み出される魔法。この少女は、魔法が使える。

魔力原石テウラン】の中で生きていたのだから、薄々そうでは無いかとアズサは思っていた。けれども、いとも容易たやすく魔法を使った様子に、ぽかりと空いた口が塞がらない。


「何の魔法?」


 ユキは目を瞬いて、「私が作った魔法だよ。前にもしてあげたじゃない」と、軽い口調で答えた。


(――なんだって?)


 新たな魔法を生み出すことはとても難しいのだと、魔法師であるゼンは言った。

 魔法を生み出すには、魔法の全てを理解した上で、自分の望みを果たすための式を一から組み立てなければならない。相応の知識と魔法への理解、想像力、更には魔力の量も関係する。


 果たして、作ったということが事実かは定かではないが、驚いてパンをまじまじと見つめるアズサを他所に、ユキは突然またぼーっと何処か遠くに目を据えた。パンの上から垂れた黄金色の液体がユキの指先を汚し、そのほんの僅かな時間、虚ろな空白が生まれた。


 そしてユキは、ハッと息を返すと、その名を呼んだ。


「ウル……ねえ、ウルは?」


 アズサが答えるよりも早く、部屋の隅の毛布がもぞりと動いた。緩慢な動きで立ち上がったウルは静かにユキの足元へ腰を下ろした。


「あれっ……。ウル、なんだか大きくなった? えへへ、もうすぐ冬だから、あなた達の巣に藁を敷き詰めないとね」


 そう言って、ユキはようやくパンを口にする。ああ。パンを少しだけ口に入れたユキを見つめて、アズサも手元のパンを口に運ぶ。そして咄嗟に、口元を抑えた。


「うっ――」

「ふふ、ね、蜂蜜食べてる気分になるでしょ?」

「う、うん。うん。そう……だね」


 膨れた腹の中に落ちていったパンは、香ばしくて、けれどもどこか、具合が悪くなりそうな風味をしている。アズサの頬に、冷や汗が垂れた。


「やっぱり、一緒に食べるって、いいことね」


 アズサはその微笑みに促されるまま、もう一度パンに齧り付く。口の中の水分が無くなっていく様を感じつつ、ただひたすら口を動かした。


 それは到底飲み込めるような味ではなかった。その黄金色の塊は、味の欠片も無い、ただどろりとしたものだった。

 



 

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