07 法式陣



 「うぁあっ!」


 アズサは咄嗟に獣の上へ覆い被さり、顔を腕で庇った。

 獣は鋭い光に苦し気な呻き声を上げ、上にのし掛かったアズサの腕の中で身を捩った。駄目だ、と必死にアズサは腕に力を入れて、獣を抱き締める。


 目を閉じても、鋭い光が瞼の上に刺さった。

 まるでそれは、空の真上からじりじりと地面を焼く強い陽光のようだった。光は白く冴えわたり、視界の全てを瞬く間に、白一色に塗り替えた。


 それから、どのくらい伏せていたのかは分からない。アズサは光が消える時を待って、ぎゅっと、固く瞼を閉じていた。


 すると、何処からともなく吹いてきた柔らかな風が、アズサの首筋を撫でた。アズサは肩を揺らした。その風に乗って、うっすらと、甘い香りが漂う。


 この場には似合わない、の香り。


 それは嫌な匂いではなかった。むしろ、アズサにとっては好ましい香り。山の小道に咲いている、気が付かなければ通り過ぎてしまうような、白く小さな花の香りに似ていた。


 それはいつか遠いどこかで知った香りだった。妙な懐かしさに胸のあたりがツンとなって、頭をガツンと思い切り殴られたような気分になる。


 ああ、知っている。ああ、懐かしい――。そう、何かが、心の奥の何かが、まざまざとアズサに警鐘を鳴らした。香りは、アズサの内側にある何か別の記憶を、身体の奥底から連れ出そうとしている。


(知ってる、これは、あの青い花の香りだ。――……あれ、なんで、青い花って)


 香りの正体が気になったアズサは僅かに目を開き、そして驚きに息を呑み込んだ。


 視界の端では幾つもの光が点滅を繰り返していた。ちかちかと瞼の裏で光が爆ぜ、強烈な光の線が飛び込んでくる。色とりどりの光に包まれて、クラクラと揺らぐ頭を立て直そうとしたアズサは、ふと、茶色の手袋に覆われた自分の右手の甲のあたりに違和感を感じた。


(なに、これ)


 目の焦点を合わせるように、アズサは瞬きを繰り返した。ぼんやりとした中で、焦げ茶色の手袋の下から青白い光が溢れ出しているように見えた。


(なにか、ひかりが)


 何度も、アズサは瞬きを繰り返した。繰り返しているうちに徐々にその違和感も消えしまったが、アズサは手袋を取り払って手の甲を見た。そこには何もなかった。


 左の手のひらで瞼を拭ったその時、洞穴の中を満たしていた光が一度大きく閃光を放った。


「うぅっ」

 

 光は小さく窄まり、洞穴を覆う透明な塊の中へと吸い込まれていく。

 身体の下にいた獣が身をねじり、アズサの腕の隙間から抜け出していく。ようやく明瞭になった視界で眼前の光景を見たアズサは、ただただ驚きに目を見張った。


「わぁ……!」


 美しいが広がっていた。あまりの美しさに全身の力が抜けてしまって、アズサはその場にぺしゃんと座り込む。


「これは何? 星詠み占いの線に似てる、かな……すっごく綺麗……」

 

 足下にも広がった光の線を指でなぞり、アズサは、ほう、と感嘆の息を零した。


 光の粒をいくつも含んでいた塊――おそらくは魔法原石テウラン――が、さらに光を吸い込み、無数に輝いていた点と点を繋ぐ。さながらそれは夜空に浮かぶ星の流れ。星々を繋ぐ金の線はまた別の線と重なり、繋がり、何かの模様を描いていく。

 

「――いや、ちがう、これは陣か!」


 アズサはすぐに周囲を確認して、巨大な魔法の法式陣が描かれていることに気が付いた。陣の基本の形として、一番外側の枠組みとなる【ルフト】があるが、それがどこにも見当たらない。


 さらに陣は一つではなく複数あるようで、いくつも小さな陣が所々で重なり合い、繋がっていた。それはひとえに、この陣がとても複雑な高次のものであり、何かとてつもない強大な力を有するものであることを示している。


「こ、ここにいたらだめだ!」


 小さな獣の体をすぐさま抱き上げて、アズサは後ろに飛び退く。

 どこまで後ろに下がっても、陣の光は終わらない。アズサのいた場所は陣の中心近くだったのだろう。円を描いた法式の中心へ向かって、強烈な輝きガ集まってゆく。【心臓ハイト】に値する模様がある場所だ。


 急いで身を引いたところで、すでに魔法の陣は全てを覆い尽くそうとしていた。まずい、とアズサは想った。頬に汗が垂れて、地面に吸い込まれていく。


(絶対ここにいたら駄目なのに……すごい、こんな魔法は見たことがない)


 やがて、光の線が全て繋がった。塊から、青白い光の線が分離して浮かび上がる。

 アズサは獣を抱えたまま座り込んで、その光景に見惚れてしまっていた。


(やっぱり、魔法はきれいだなぁ)


 美しい魔法は、思わず息をのむほど圧倒的。そして、強力な魔法であればあるほど人の目を奪う。アズサは目の前に広がる光景を唖然と眺めるしかなく、全身は金縛りにあったように指の一本も動かせなかった。


 その間にも陣は膝の辺りまで浮かび上がり、光が怪げに揺らめいて、二度ほど胎動するかのように光波を放った。アズサが眩しさに目を細めたその時、足元の模様がくるりと時計回りに動き、光輪が一つに縮まっていく。


 アズサは獣を抱く腕に力を入れた。集まった光は拳よりも小さな濃い青色の球体になると、塊の上に――あの白い少女の上に、ふわりと浮き上がっていた。


「いったい、なにが」


 起きているの。そう続けようとした言葉をアズサは喉の奥に留めた。柔い光を放つ光球がすぅっと塊の中に吸い込まれていく。


 腕の中にいた獣が身を動かし、黒い鼻先でアズサの頬に触れた。まるで安心させるようにペロリと頬を舐めて、輝く琥珀の瞳でアズサを見上げている。


(じっとしてろって、言いたいのか?)


 青い光がゆっくりと、横たわる少女に近づいていく。

 光は少女の胸の辺りにすうっと入り込んで消えてゆく。そしていよいよ周囲が暗闇に包まれると思われた時――微かな音が聞こえてきた。ピシ、キシ、ピシ、と何か亀裂が入る音。それは次第に大きくなっていた。


 気がついて足元を見ると、塊の表面にいくつもの罅が入っていた。蜘蛛の巣のように広がった罅は、塊の全面を覆い尽くし、そして、静寂が訪れた。


 ふわりと、どこからともなく吹いてきた風がアズサの頬を撫でる。その途端、暗闇の中に青い光の粒子が飛び散った。【魔法原石テウラン】の塊は消え、その場所に残されたものは岩肌の剥き出しになった仄暗い洞穴だけだった。


「うわっ、まっ!」


 突然腕の中から飛び出した獣に、アズサは静止の声を上げた。


 獣の背中を追いかける前にアズサは鞄を漁り、小さな四角い箱を取り出した。箱の中には一度使い終わった灯光石の欠片が入っており、アズサはそのうちの一つを布で包むと、ランタンの中から取り出した大きな灯光石と勢いよくぶつけ合わせた。


 カツーン、と。小気味よい音が壁に反響する。二つの石はじわじわと熱を帯び、再び柔らかな橙色の光を放ち始めた。アズサは布で包んだ二つの石を持って、獣が座り込んだ場所を照らした。


「ああ……」


 あの白い少女が、塊の下に閉じ込められていたはずの少女が、肢体を投げ出して地面に横たわっていた。

 



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