08 晴雪の間


 白よりも少し青みの入った銀色。その長い髪が頬に掛かり、透き通るような白い頬は、灯光石の明かりに当てられて仄かな橙色に染まっていた。髪と同じ色の睫毛が閉じた目の下に影を作り、あどけない丸みを帯びた顔はアズサと同じ年頃の容姿をしている。


 どうして、此処にいるのだろうか。アズサの頭の中で疑問が膨れ上がっていた。暗い洞穴が似合わない、見目麗しい少女だ。


 身に纏う服は上物だとわかる布地だった。糸のほつれた生地には未だ艶が残っており、裾の部分に掛けては見事な銀糸の刺繍が施されている。

 だが、その白い服に染み付いている黒い模様にアズサの目は留まった。


「まさか、血……?」

 

 長袖の白い衣は所々無残に破けており、染みついた赤黒い斑点模様も、すでに乾いて固くなっている。アズサは唾をごくりと飲み下し、少女に近づいた。


 腹の辺りが特に真っ黒に染められ、元の白い衣服の生地は見る影もない。まさか、腹に穴が開いているのか。アズサは口端を引き結び、白い衣を静かに持ち上げた。


 少女がその白い外套の下に着ていたものは、身体の線に合わせて作られた黒い服だった。

赤黒い染みが滲む箇所の黒い布は、ちょうど、抉られたかのように大きく破れており、真っ平らな白い素肌が露わになっている。しかし、服は大きく破れているものの、怪我の跡が何処にも見当たらない。


「怪我は……してない? 血じゃない、のか? それなら別の人の血とか、そんな……」


 アズサは恐る恐る、その首筋に手を当てた。

 とくん――、とくん――。弱弱しい脈拍が指先に伝わってくる。まさかと、アズサは手を離した。指先には温もりが残った。暖かい。脈がある。


 少女の肌は、まだ温かさを残していた。弱々しく、その胸の辺りも上下に動いている。

 アズサはちらちと自分の隣に視線だけを向けた。生きているのだと分かっていたのだろうか。獣は少女の頬や手を舐めたり匂いを嗅いだりして、ずっと甘えたように鳴き続けている。


 知っていたの、と喉まで出かかった言葉を留めると、アズサは大きく息を吸い込んで少女の唇に手を翳した。手のひらに、微かに生暖かな吐息が触れた。アズサは溜めていた息を、また大きく吐き出した。


「……よし、家に運ぼう。きみは歩ける?」


 獣はくうとひと鳴きして、足を引きずりながら少女から身体を離した。物分かりのいい魔獣だ。明確な知性を持つ魔獣はほんの一握り。人間の言葉を理解する魔獣はおそらくその一握りにも満たない。


「その怪我だけ、簡単な手当てをしてから行こう。すぐに終わるから」


 ピクリと耳がわずかに揺れ、獣は、大人しくその場に座った。


 アズサは肩にかけていた鞄から治療の道具を取り出すと、大人しい獣の身体に、止血用の包帯を巻きつけていった。怪我の手当は、多様な危険が潜む山に住むアズサにとって、自然と身に着いたことの一つだった。

 

「君の友達は、あの中で生きてたんだね。よかったのかな。きみにとっては良いことなんだろうけど、僕にはもう、訳がわからないよ」

 

 獣は包帯を巻かれている間、じっとアズサの手元を見続けていた。

 その視線は真剣に手元を追い掛けているようで、手の動きに合わせて動く鼻先に、アズサは思わず笑いを溢しながら言った。


「……ああ、よし、これでとりあえずは大丈夫かな。でも暴れちゃだめだよ。家に帰ったら、もっとちゃんと手当てをするから。――うわっ!」


 獣は短い金と銀の鱗の尻尾を揺らして地面を軽く叩き、アズサの頬を舐めた。 和らいだ表情に、アズサは獣の癖が分かってきた気がした。目と尻尾は口ほどにものを言うというのはまさにその通りである。


「元気だって言いたいんだよね。この子は僕が背負うから、ちゃんと着いていてね」


 アズサは少女の身体を背負い、獣に向かって微笑むと、灯光石を包んだ布を片手に立ち上がった。


 気味が悪いほどの静けさに包まれていた洞穴には、ぽちゃん、ぽちゃんと、水の音が小さく響いている。足元には天井から落ちた水滴が水たまりを作り始めていた。


 濡れた地面や岩の迫り出した箇所を避け、背中から落ちそうになる少女の身体をしっかり押さえながらが進む。

 そしてようやく、入口の近くに辿り着いた。外の光が差し込んで洞窟の中も次第に明るくなっていく。

 だが、ほっと息をついたその拍子に、少女の身体がずるりと傾いて、慌ててアズサはその身体を背負い直した。身体に力が入っていないだけでなく、少女の身体は異様に軽い。背中越しに触れる身体は薄くて、骨と皮しかなさそうだ。


「おっと、と! うーん、やっぱりけっこう軽い……」


 いつからこの場所にいたのだろうか。何も食べていないから、腹や腕もぺしゃんこなのかもしれない。目覚めたら何か腹に良いものでも作ってあげないと。

 そう考えた矢先に、アズサの腹が情けない声を鳴らした。恥ずかしくなって、アズサは背負った少女を見る。


「ね、ねぇ。生きてるよね? 僕の背中で死んだりしないでよ」


 血色の悪い唇に掛かった銀の髪が、ふっと揺れる。首筋にあたる微かな吐息の擽ったさだけが、ゆすぶり上げても一向に目を覚まさない少女の生きている証拠だった。


 返事を期待したわけでもなかったアズサは、そのまま何も言わずに歩き続けた。遠くに見えていた小さな光が徐々に大きくなって、目が眩むほど、周囲の明暗が勢いよく変わった。


 今までの吹雪が全て幻だったと、そう思わずにはいられないほどに、洞穴の外には澄み切った晴天が広がっていた。

 アズサはその眩しさに、瞼の上に手をかざした。



 ◇◆◇◆◇



 

 久しぶりに顔を覗かせた太陽が、待っていましたと言わんばかりに輝いている。


 空には雲一つない快晴が広がっていた。息も詰まる吹雪は一転して、山の隅々にまで、清々しい空気が流れている。積もった雪が少しだけ溶け始め、水を含んだ白雪の上に反射した光がちかちかと目に刺さった。


 吹雪が収まったことで、山の中には動物たちの気配が静かに戻りつつある。視界の隅でちらりと影が動き、低木がガサガサと揺れている。潜んでいるのは小さな動物たちだ。害はなく、この森に棲む小動物は臆病で、アズサの前には進んで姿を見せなかった。


 しかし、大型の動物は問答なしにやってくる。もしこの場で他の動物に襲われても、アズサは為す術を持たない。


 唯一の味方である狼に似た獣はアズサの前を勇ましく進んで行く。その間も、何度か後ろを振り返って、また先を進むということを繰り返していた。耳をピンと立てて首をめいっぱい伸ばしながら辺りを見回している姿は、危険な場所が無いかと探しているのかもしれない。


 獣の色は、まるで鏡のように銀世界を映していた。

 アズサは時折その姿を見失ってしまったが、一定の距離が空くと、獣はアズサの隣に必ず戻ってきて、そしてまた先へと駆けていった。


 そして、ようやく視界の端に巨木の影が見えた時、呼吸は喘ぐように弾み始めていた。滑りやすい斜面や岩の上で足を取られたせいで、気を張り詰めて、その度に力を入れた全身がへとへとに疲れきっている。


 アズサはここ何時間も休み無く動き回っていた。今までは恐らく何か別の物がアズサの疲労感を堰き止めていて疲れを感じさせなかったのかもしれないが、それが一気に溶けてどっと押し寄せてきたのかもしれない。


 その疲労に加えて、首筋にあたる息が少しずつ弱くなっていることが、アズサの中に焦りを生んで、どんどん気持ちを急かしていくのだ。


 しばらく歩き続けて、ようやくアズサは目印となる巨木の下に辿り着いた。巨木の先には平滑な雪原が何処までも広がっていた。巨木の下を通り過ぎると、景色は見慣れたものへと変化を遂げ、小さな家がアズサを出迎えた。


 するとその時、ふと、背中の上の重みが偏った。首筋に当たる呼吸の調子が崩れていく。


「……う、うぅ」


 はっとして、アズサはその場に立ち止まった。肩越しにくぐもった声が聞こた。それは糸よりも細く、力のない、聞き逃してしまいそうな涼やかな声で、アズサはその声を聞き逃さないよう耳をそばだてた。


「……さ、ぅ……ご……なさ……」


 アズサの肩に掛かっていた少女の腕がわずかに動く。

 力なく垂れていたその手が、何かを掴もうとした。アズサは手の伸ばされた先に視線を向けた。


 そこには目覚ましいほど清々しい青い空が山を覆っている。

 うわ言のように呟かれる言葉。その内容は聞き取れないものだった。抑揚もなく何かを必死に訴えているさまは、なぜだか聞いていて、とてもいい気分にはなれなかった。


 言葉にもならないその声は、少女を寝台に降ろすまで、ずっと続いていた。




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