04 遠吠え


 アズサは声の出所を探し、しばらく川沿いを歩き続けた。

 そして、山側の岩壁に、ぽかりと空いた穴を見つけた。膝を付いて身を屈めれば入れる洞穴だ。助けた獣は小型の犬ほどであったからここにいるのかもしれない。そう思って、アズサは入口へ近づいた。

 洞穴の入り口に、打ち付けられた雪と岩肌の黒色がはっきりとした境界線を作っていた。その上にはアズサが追いかけていた赤い血の跡が残っている。


「いるの?」


 アズサは洞穴の奥に声を投げた。返事は無い。

 からん、とランタンが揺れ、湿った穴の岩肌を橙色の光が照らした。アズサは唇を引き結んで洞穴の中に体を潜らせた。


 入口の狭さとは一転して、中には広々とした空間が存在していた。手を付いて立ち上がったアズサは、目の前の光景に思わず言葉を失った。


「こ、氷……?」


 そこは、天井から壁、地面まで、青く透き通った物体に囲まれていたのだ。

 アズサは初め、青い氷かと思った。しかしそれはよく見ると不思議な色合いをしていた。深い瑠璃色、薄い水色、透明、緑がかった色。ランタンの光によって、様々な色に変化していく。その壁はどこかじんわりとした熱を帯びていた。


「なんだろう、氷じゃないのかな。でも、石でもない。色が、動いてる……うわっ!」


 ぬるい水に触れたような、人肌にふれたような暖かさに、アズサは驚いて手を引いてしまった。氷だと思っていたのに、冷たくない。洞穴の全てが得体の知らないもののようで、天井の岩肌からぴちゃんと垂れ落ちた雫の音も、ただ静かな岩肌も、全てが不気味な気配を纏っている。

 

「なんだろう、これ……」


 岩壁から突き出た塊にもう一度触れようと、アズサが手を伸ばしたその時だった。洞穴の奥から、唸り声が聞こえてきた。


 ――グルル、グルルル……。


 静かな足音と獣の低い声に、アズサは振り返った。地の底から溢れ出すような声が洞穴の暗闇から聞こえる。まるで、酷い痛みを身体の内側に押しとどめているような声だ。


「そこにいるの?」


 アズサはランタンを向けた。


 洞穴の奥から、銀色の小さな獣が現れた。獣は長い鼻筋に皺を寄せ、牙を剥き、眼光を光らせてアズサを睨み付けている。

 その銀色の毛並みは鈍く曇っていた。以前は輝いて見えていたその毛並みも、今では血と泥に塗れて見る影もない。銀糸の毛並みの一部は赤黒く固まっている。

 幼さの抜けきらない丸い瞳が、警戒の色を強めてアズサを睨んでいた。


「だ、大丈夫だよ。僕だ、忘れちゃった?」


 恐る恐る話しかけると、獣はさらに顔を歪めて足を後ろへ引く。細められたその金の瞳が、静かに揺れていた。

 敵意や怒りではない。恐れと不安がひしひしと伝わってくるようで、アズサは優し気に語りかた。

 

「だいじょーぶ、大丈夫だよ。痛くて、つらいよね」


 狼の子供だろうかと、始めにアズサは思っていた。その顔と胴体がこの山に棲む野生の狼にも似ていたからだ。

 しかし、その背には二対の鷲のような羽が生えていたのだ。首のたてがみは馬のように長く伸び、そしてピンと立った短い二つの耳の間には丸みを帯びた角がちょこんと付いている。さらに、腰の辺りから長く伸びた毛の下には、蜥蜴の鱗のようにザラザラとした尾が生えていた。それは、アズサの知る狼の特徴ではなかった。


 ――グルルル……。


 よく見ると、右の足首の辺りに巻いた包帯が取れかけている。アズサはランタンを引いて、もう一度、静かに話し掛けた。


「怪我、まだ治っていないでしょ。だから僕、薬を取りに行ったんだ」


 薬の包みを取り出して目の前に掲げると、金色の瞳はアズサの一挙一動をじっと監視するように動いた。


「右足の包帯も取れかけているし、こんな場所にいたら、いずれ死んでしまうよ」


 丸い金の眼がアズサを貫き、獣は少しだけ唸り声をひそめた。――信用できるのか。そう問われているようでアズサは喉を鳴らした。

 アズサは膝をついて、その金色の瞳を見つめた。


「僕を信じて。――大丈夫、怪我を見るだけ。悪いことはしない」


 果たして獣に言葉が通じているか分からなかったが、獣が探るように視線を合わせてくる。しばらく、二つの影の間には静寂が満ちた。

 身動きもせずアズサは待った。心の内を見透かすような金色の瞳から、目を逸らしてはいけないような気がした。


 そのうち獣は顔を伺うように身を低くしてアズサに数歩近づくと、薬の包みに黒い鼻の頭を近づけた。二度ほど短く息を吸い込むように匂いを嗅いだと思えば、獣はくるりと背を向けて歩き出す。


「えっ、ちょっとまって!」


 引き留められた小さな獣は一度だけ振り返り、そしてまた背を向けて歩き出した。

 アズサはしばらく呆然とその場に立っていた。獣は足を引きずって数歩だけ歩くと、再び振り返って、止まったままのアズサに視線を投げる。


「……ついて来いってこと?」


 獣は、そうだとも、すんとも、何とも言わなかった。ただ無言のまま背を向けて歩き出し、立ったまま動かないアズサにまた振り返った。

 それが何度も続いて、アズサはその背に向かって足を踏み出した。

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