02 温度



 吹雪がもう少し収まってればと、そう、文句を言いたくなって、少年は心の中に悪態を浮かべる。目的の場所、自分の我が家までの道のりは未だ遠い。真向かいで広がる深い闇に、ほんの少しだけ、足が竦む。


(早く帰らないと……)


 少年は抱えた小包を見て心を奮い立たせた。小包の中には今しがた買ってきた薬草が入っている。少年にとって今一番必要なものだった。

 掠れた吐息が耳奥に響き、森の奥から寄せる風の波が不気味な音を立てる。歩けば歩くほど目の前には深い闇が広がって行く。ザワザワと揺れる木の影からは、今にもまるで何かが突然飛び出して来そうだ。


(……大地に初めの光が灯り、知りえたものは星を持つ。ちーさな箱の中に入れ、……青い石を探してる)


 少年――アズサは、心の中で、静かに歌を口ずさむ。


(熟れた光が天に舞い、語らぬものは雨を待つ……二つの鈴を鳴らしたらー、小さな花を、二つ、三つ、四……五……六……七……八歩……)


 恐れているものは何も森だけではない。頭の中に、養父のが浮かんだ。


(ゼンさんの言いつけ、破っちゃったなぁ)


 森が暗いと感じたら、無闇やたらに足を踏み入れてはいけない、と。そう、低く諫める声が頭の中で響いた。アズサは随分と顔を合わせていない養父を思い出して、寒さに揺れていた身体を一層震わせる。


(……いや、いいや、うん。知ったら怒るけど、知られなければ良いだけだよね。ここまで何も無かったし、それに、もうすぐ着く。あと少しでクマ石も見えるはず)


 養父の怒り顔を消すように、アズサは頭を振った。そうして三本並んだ兄弟杉の分かれ道に辿り着くと左に曲がり、歩きながら五十を数え、深い森の奥へと足先を向ける。


 そこにはまだ誰も踏み入っていない白雪の道が続いていた。そのまま、軽い雪を蹴り飛ばしながら道を真っ直ぐに進んだところで、アズサの目の前には大きな石が現れた。熊に見紛うほどの見目からクマ石と名付けられた巨石を目印にして、今度は右に曲がり、アズサはまたしばらく山を登った。緩い勾配を上がり、次第に息が上がり始めていた。


 そうして辿り着いた場所で、白く煙った視界の先に、一本のブナの巨木が堂々と立ちはだかった。


 重たくなりつつあったアズサの足取りも、ブナの巨木を目にすれば少しだけ軽くなる。目的地はもう着いたも同然。アズサはハーっと肺から冷たい空気を追い出して、頭上から外套を持ち上げると足を止めた。外套の下で、闇に紛れるほどの黒髪がちらちらと風に揺れる。


「着いたぁ」


 巨木の向こうに開けた丘の上には、アズサの家がある。


 山奥にひっそりと佇む小さな家の所有者はアズサの養父だ。幼い頃にアズサを引きとって育てゼンは出稼ぎに出たままあまり家には帰って来ない人で、アズサが最後に顔を見た時は今から一年以上も前のことである。家に住むのはアズサ一人というわけだ。


 しかし、巨木のこちら側からでは、

 魔法師であるゼンは家の周囲に結界を張った。どれほど前からその結果が張られていたのか誰も知らないが、その結界はアズサが生れた時にはもう既に存在していた。


 村人は当然のこと、名のある魔法師でも、結界を認識できる人間はそういないと、そう、アズサは養父から聞いたことがある。魔法師も、魔術師ではない人間も、この場所は森の一部として見えているのだ。

そして結界の中に入れる者は、アズサと、養父、そして養父の両親。それから『書庫』の中にあるに名を記し許可を与えられた人物と、許可を得た人物の付き添いのある者だけである。


 ――しかし。


 結界の中に初の来訪者がやって来たのは、つい三日前のことだ。

 その来訪者は見たこともない美しい獣の姿をしていた。そして尚且つ、ひどい怪我を負いながら、勝手にふらりと結界の下を潜ってきたのだ。


 アズサにとって、誰か――たとえ獣であったとしても――見知らぬ者がやって来るのは初めてのことだった。そして酷い怪我を負い、ふらふらと身体を揺らしながら歩くその姿を放っておくことはできなかった。


 アズサは大事に握っていた袋を掲げると、優しげに橄欖石の瞳を細めた。手に抱える小包には大事な薬が入っていた。怪我をした獣のための薬だ。


「これを飲んだら、もっとよくなるはずだよね」


 見知らぬ誰かのために何かをする。それはアズサにとって、あまい馴染みの無い行為であり、見ず知らずの来訪者は、いつも同じ毎日を過ごすアズサにとって凪いだ水面に落とされた小石のような存在となった。


 助けた理由は単純だ。ただ、その傷が痛々しくあったから。そして、深手にみすぼらしい毛並みであっても、その獣の姿がどこか神々しく感じたのもある。だからよりいっそう放ってはおけず、何か助けになりたいと思ってしまったのだ。


 薄い頬にちりちり刺さる雪の針を拭いさり、小包を抱え直したアズサは、止めていた足を踏み出した。


 白い綿を被った枝は、今にも折れてしまいそうな程に垂れている。明日にはポッキリだ、と考えながら、枝の下を慎重にくぐり抜けたところで、ぐわりとアズサの視界がぶれる。


 透明な膜に肌が触れ、身体が柔らかなものに包まれた。すると、耳の奥まで鳴り響いていた吹雪の音が、たちまち消え、目の前には静謐な空間が現われる。


 巨木の内側は嘘のような静寂に包まれていた。

 ごうごう、びゅうびゅうと、怒り狂っていた外の吹雪とは、まるで正反対の景色が広がっている。しんしんと、粉雪が音もなく空から落ちてきているだけで、結界の中だけは嘘のように静まり帰り、強い風さえ一つ吹いていなかった。そこはまるで地面に積もった雪が全ての音を吸い取ってしまったかのように。


「きれい……」


 その光景に、アズサは思わず声を上げ、誰の足跡もない鏡のように真っ平らな世界を駆け抜けた。誰の足跡もついていない白雪の上を飛び跳ねながら、柵に囲まれた見慣れた小道の中を走っていく。


 その目と鼻の先にはこじんまりとした家が建っていた。白い柵に囲まれた茶色の古びた家は、木こりの休憩小屋だと言われても仕方のないほど小さい。柵にも屋根の上にも、春先に種を撒いた畑にもかなりの雪が積もっていたが、今まで通ってきた村の様子に比べたらまだ幾分も良い方だろう。


 ようやく家の前に辿り着いたアズサは鍵で錠前を外すと、音を立てないように木製の扉を開け、中に向かって声をかけた。


「ね、帰ったよ!」


 机の上にランタンを置いても、返事はなかった。いずれにせよ返事を返してくれるような間柄ではなかったが。


「ちゃんと温かくしてた? 村で薬をもらってきたんだ。これなら怪我にも効くかなあ、ね」


 独り言のように呟きながら、薬を抱えて部屋を移動する。本、本、本――足の踏み場もないほど積み上がった本の山の中で、暖炉の中で燃える木がぱちぱちと爆ぜる音が聞こえてきた。家を出る際に継ぎ足した赤い魔石がじりじり、ジワジワ、溶けるように燃え、部屋はほどよい暖かさに保たれている。


 その暖炉の前にいるだろう目当ての姿を探して、アズサは首をかしげた。


「あれ?」


 どうにも、部屋の中に気配がなかった。アズサは濡れた外套もそのままに部屋の中を見回した。暖炉の前にはすり切れた何枚も毛布が丸く重なっているだけで、今までその姿があった場所にはぽっかり穴が空いている。


「いない……!」


 腕の中から小袋を落として、アズサはまだ熱の残る布の山を掻き分けた。

 いくら探してもあの来訪者の姿はない。そこには、銀色の毛と赤い血の雫が点々と床に足跡を残している。


 血の跡を辿っていくと、それは小屋の裏口へと続いていた。

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