24 まだ、生きたい



「それを決められるのはユキだと思う」


 アズサは苦しげに歪んだユキの表情を思い出した。

 

「ふむ。それもそうだね、患者の意思を尊重するのが一番だ」

「――ここに来てから、すごく、苦しそうだったんだ。それが呪いのせいなら、僕は少しでも楽になってほしいと思ったし、あんなに悲しい思いを抱えたまま死んでほしくなかった。でも、ユキは」

「死にたい、と言ったそうだね」


 言葉を重ねたアルティナに、アズサは顔を上げた。


「それは本当に彼女の意思なのかもしれないが、恐らく呪いの影響を受けている可能性もある。呪いは人の最も弱い部分を掘り起こして、そこに付け込み、苦痛を与える。苦痛に耐えきれず、最後には殺してくれと叫び始めるんだ」


 アルティナは腕を組んで重心の位置を変えると、その表情に、ほのかな微笑みを浮かべた。


「彼女は死にたくないとも言ったようだね。どちらが本当の気持ちだろう」


 アズサは、とめどなく大粒の涙を流し、死にたくないと言われたあの時の感情を身をもって感じた。生を呪い死を願う気持ちよりも、生にしがみつこうとした感情だ。


「――バーランド先生、目を覚ましました」


 静かな声がかかる。ユキの様子を見ていたバルクスが、汗を拭いながら顔を出した。


「ただ……熱が高くなってきています。話をするなら今しかないでしょう」

「ああ、分かったよ」と、アルティナは大きく頷いた。


 寝台に横たわったユキは力を失ったように酷くぐったりとしていた。身の内で暴れまわる呪いの影響から熱にうなされ、断続に激しく肩で呼吸を繰り返している。額には汗の玉が浮かび上がり、頬や額に張り付いた銀色の髪はびっしょりと濡れていた。


「お嬢さん、話せるかい」


 アルティナが声を掛けると、ユキは薄らと目を開けた。どんよりと混濁した目がアルティナを見上げた。


「君は今、呪いの魔法に侵されている。その呪いを抑える魔法をこれから掛けようと思っている」


 汗に濡れ、熱のせいで嫌なほどの赤身を帯びた頬に手の甲を当てながら、アルティナが告げる。その手が冷たかったからか、ユキは一瞬身を強ばらせた。


「はぁっ……、はぁ……、うっ……」

「苦しいのは呪いのせいだ。私はそれを少しでも良い方向へ持って行きたい。だから、魔法を掛けることを許可してくれるかい。でないと、ここままでは死んでしまう。君はそれを望んでいないだろう」


 アルティナの言葉に反応しようとしているのか、ユキの瞼が震えた。けれども口から零れるのは熱い呼吸と嗚咽だけだった。

 

 ユキは力も入っていない右腕を、必死に持ち上げようとしていた。それはアルティナに向かってではなく、天井に――、天に向かって伸ばされている。手のひらを上に向けて、五本の指をめいっぱいに広げて、何かを掴もうとしているかのように。


 咄嗟に、アズサはその手を掴んでいた。

 その時、どうして掴んだのかは、アズサにもよく分からなかった。けれども掴まなければならない気がして、無意識のうちに、身体が勝手に動いていた。――ただ、そうしなければならなかった。


「はっ……はぁ……っ、ア……あず、あずさ」


 初めて呼ばれた名前に、アズサは握りしめた手に力を込めた。そのままゆっくりと手を降ろすと、ユキは熱に浮かされた目でアズサを見つめていた。


「あ、わたし……」


 アズサはぐっと唇を噛んだ。


「僕……。僕は君がまだ、必死で何かを探しているように見えるよ」

「さ、さがす」

「そう、探してる。ずっと何かを探している。何を探しているの?」

「探す……。わ、わからない。わからない、わたし……」


 ユキはゆるゆると首を振り、いっそう苦しげに顔を歪める。大量の汗が、赤くなった頬を流れ落ちていった。


「いやだ、いやだよ、みんな、なんでいなくなっちゃったの? どうしてわたしを置いていったの? どうして? ああだれか……みんな、わたしにおしえてよ……」


 アズサは、握りしめた手の力をさらに強めた。


「どうしたらいいの? どうしたら、どうすべきだったの? ……わからない。わからないわからない! なんで、なんで……!」


 流れ落ちた汗が、目尻を濡らしてすっと落ちた。


「……なんで、わたしはまだ、生きているの」


 吐き出された命の声は、ちょうどその窓の外に見える、夜空に浮かんだ遠い星の瞬きのように震えていた。

 アズサはただずっと手を握っていることしかできなかった。ユキの慟哭どうこくは胸に突き刺さるナイフのように鋭く、冷たく、哀しい色をしていて、とても巨大な負を孕んでいた。

 それでもアズサは目を逸らさずに、まっすぐユキの瞳を見つめていた。それに耐えきれず、ユキは目元を歪ませて言った。


「『しあわせ』って、なんだろう」


 ポロリと零れ落ちた疑問に、アズサはじっと耳を傾ける。


「『しあわせになってね』って……そう……」

「死んだらしあわせになれる?」


 アズサは聞き返した。

 

「分からない」

「君にはもう何もすることはない? 僕はね、まだこの世界には知らない事がたくさんあるから、それを知りたいんだ」

「わから、ない……」

「僕は『天音の心』を持ってる、らしい。でも魔法を使えない。なんでなんだろう、どうしてなんだろうって。どうして僕は魔法が使えないんだろうって、いつも考える。それに、僕は生れた時からこの家にいる。どうして僕はここに住んでいるんだろう。どうして僕の父さんと母さんは死んでしまったんだろうって」


 アズサはゆっくりと、染みこむように言葉を続けた。


「知りたい。全部知りたい。知りたいから調べるんだ。いっぱい色々なことを知れば、いつか答えが分かると思ってる。君は『しあわせ』が分からないって言った。どうしたらいいのかも、どうして生きているのかも、分からないって言った」


 ユキは口を閉ざして、ただアズサを見ていた。

 アズサは握った手を見つめて、顔を上げ、もう一度その空色の瞳と視線を合わせる。そしてはにかんだように、ふっと笑った。


「僕は君のことを何も知らないけど、だから、分からないからこそ一緒に知ろうよ。『しあわせになってね』ってどうして言われたのか、考えて探していこうよ。それに、もし、もしもだよ。本当に分からなかったら、どうして生きているのか分からなかったら、じゃあ、僕を理由にすればいい」


 これは僕のわがままだけど、とアズサは小さく付け足して、言った。

 

「君が生きている理由は、僕が君を助けたからだ。僕は君に、生きて欲しい」


 その時、まるでこの状況が分かっているかのように脇を潜って現われたウルが、その鼻先で二人の手を優しく突いた。ウルは、ぐるぐると喉を鳴らした。

 ぼくもここにいる。そう言いたげな様子がありありと伝わるようで、アズサはその頭をもう片方の手で優しく撫でた。


「う、あ……ウ、……」


 ユキの目には、いつの間にか、きらきらとした光の影がたまっていた。閉じた目からその光がゆっくりと落ちて、銀の髪を濡らす。固く閉じた瞼が震えて、次から次へと涙が落ちていく。ユキは、焔のような熱い息と一緒に、震える唇を開いた。


 ――わたしは、まだ……まだ、生きたい。


 恐らく、その言葉が全てだったのだろう。

 

 床に大きな法式の陣を書き、アルティナはその中央にユキを寝かせた。

 熱烈な言葉だったぞ、とアズサを茶化したアルティナとバルクスだったが、それ以降は真剣な表情を崩すことなく各々の役目に取りかかった。

 

 呪いを抑えるという魔法は、アズサが予想していたものよりもとても静かに紡がれようとしていた。

 

 アルティナは一晩中をかけて法式を完成させ、そして魔法を唱え続けた。時折、部屋の天井からは雪の結晶が舞い降り、風が吹き荒れていた。アルティナはただひたすら落ち着いた様子で、法式とユキに向き合った。そのスッと伸びた背は、アルティナの自信を示していた。


 対してアズサは、まったく落ち着かない時間を過ごした。気が気でない様子をマルサとディグレに諫められたが、くるくると尻尾を追いかけるように足下を回り続けるウルの姿に引っ張られ、どことなく胸がざわついてならなかった。

 

 けれどもいつの間にか、それまでの疲れがどっと押し寄せてきて、アズサとウルは気づけば眠りに落ちてしまっていた。


 

 ◇◆◇◆◇

 


 げっそりやつれた顔したアルティナが姿を現したのは、太陽が山際に顔を見せようとする頃合いだった。


「成功した……。成功はしたが、熱が下がらない。カイレン、後は頼んだ」と、言い残したアルティナは、積み上がった本の山の中に崩れ落ちて気を失った。その言葉通り、ユキの白い肌は真っ赤に染まり、まるで火にあぶられたかのような高熱が吹き出していた。

 

 その状態が一日、二日、三日と続いても熱は下がらなかった。回復したアルティナが熱冷ましの魔法を掛けても収まらず、原因の分からない熱にユキは長くうなされ続けた。


 四日目の朝、ディグレの地鳴りのようないびきに、アズサはいつもより早く目を覚ましてしまった。腹の上にのしかかっていたウルを退けて起き上がると、アズサは普段通り、まずは顔を洗って、歯を磨いた。


 明け切らない朝の涼やかな空気が、書庫の中を霧のように漂っていた。

 静寂な空気にひっそりと足を忍ばせ、アズサは目的の場所へと向かった。廊下はさらにひやりとしていた。部屋を舞う埃が、差し込む光に照らされて輝いている。


 部屋の中には、アルティナとバルクスがいた。

 アルティナは寝台の横の椅子に顔を伏せ、バルクスは壁際に背を預けて、二人とも眠りに落ちてしまっていた。目の下にはくっきりとした隈がある。夜通し看病をしていたのだろう。


 そして、アズサは部屋の奥を見て、思わず息を詰めた。


「えっ……」


 ――そこに、寝台から身を起き上がらせている人影があったからだ。薄い背を丸めた人影が銀の長い髪をゆっくりと揺らし、その合間からアズサを見ていた。


「あ、お……おはよう」


 その言葉に反応するように、少女は口を開きかけてまた閉じると、自分の喉に手を当てる仕草をしてアズサを見上げた。

 はっとしたアズサは、寝台の隣に置かれていた水差しから水を汲んでコップを差し出した。アズサの手は震えた。すると白い手が彷徨って、アズサの差し出したコップをしっかりとした力で掴んだ。


「大丈夫?」


 首が縦に動く。問いかけた言葉に反応が返ってくる。アズサはほっと肩の力を抜いた。


「よかった」


 少女がおもむろに顔を上げる。

 朦朧もうろうとしていない、鮮やかな天色の瞳が動く。そして、不安げな視線が彷徨った。


「ね、あの、あなたは……だれ?」


 何も変わらない澄んだ声音で、何かがぽつんと抜け落ちたように、少女は頭を傾けた。



 

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