25 喪失
「えっ、あ……えっと」
突然のことに困惑しながら、アズサは優しく笑いかけた。
「僕はアズサだよ。アズサ・リアンタだ」
「アズサ……、アズサ・リアンタ……?」
ユキはアズサの名前を何度か口の中で転がした。酷く落ち着いた様子を見せるユキに、アズサは心なしか一抹の不安を覚えた。
「アズサ。ねえ、アズサ。ここは、どこ? どうして私、ここにいるの?」
「ここは僕の家だよ。水の国のファータノア王領とスザン公爵領の境にある、ミエラル村。山にいた君を見つけて連れてきたんだ」
「水の国、ミエラル村……」
「もしかして、何も覚えてない?」
「ファータ、ノア……アズサ……」
ユキは単語を繰り返し何度も呟いで、けれどもその顔を難し気に歪めた。そして片手で頭を抱えた。
「ユキ、大丈夫? ユキ?」
アズサは、頭を抱えて項垂れたユキの名を呼ぶ。ユキは下を向いたまま、しばらく固まっていた。そしてもう一度声をかけると、ユキはきょとんと目を見張って顔を上げた。
「あっ……ごっ、ごめんなさい。それ、私のことだよね」
「えっ、あ、いや。僕が勝手にそう呼んでたんだ。ほら、君の腕に模様があるでしょ? それ、ユキって読むんだと思って。だから、その」
ユキは肘の上まで服の袖をまくり、黒い不思議な模様を見て驚きを顕にした。穴が空くのではないかと思うほどまじまじと見て、「私の名前?」と、首を傾げる。
「名前が分からなかったから、そう呼んでいただけ。だから、君の名前を教えて欲しいんだけど……」
アズサがそう言う間にも、ユキの表情は困惑の色を強めた。
「名前? 私の名前? えっと、名前……え……えっと、えっーと……う……」
ユキはウンウンと唸り声をあると、また頭に手を当て、糸のような銀の髪をくしゃりと掴んだ。その口からは「え」と「う」の音しかない出てこなかった。
ユキはしばらく悩んだ末にひとりで勝手にうなずくと、パッとアズサを見て言った。
「ユキでいいよ。それで」
「それで良いって……。もしかして、自分のことが分からない? 名前も?」
「う、うん。その……、名前が」
ユキは考えあぐねるように視線を彷徨わせた。
「目が覚めてから、色々と考えた。だけど何も……なんでここにいるのかも……、分からないの。名前も何も……なんだか思い出せなくて」
空色の瞳が下に陰り、淡く青みを帯びる。アズサはなんと返していいのか分からず、唇を固く結んだ。
「なんだか、心に、ぽっかり穴が空いたみたいな気がする。でも、何がそこにあったのかも全然分からない。あなたは……私のこと、知っているの?」
なんと返せばいいだろう。
愕然とした表情のまま、アズサはゆるゆると首を横に振った。
事実、アズサは少女のことをほとんど知らない。この家に来た以前のことであったら、尚さら何のことも。
この家に来てからのことならば、アズサにも話せることはある。だが、いざ話そうと思ったとたん、言葉が木片となってアズサの喉奥に引っかかった。
どんな様子だったのか、どんなことがあったのか、それを隠しておく理由もない。けれどもその澱んでいない空色の真っ直ぐな瞳を見ると、あの時の様子を正直に話すことに、アズサは気が引けてしまった。
「……僕が君に言ったことも、何も覚えてない? この家に来てからのことも?」
「え、えっと、その……。ご、ごめんなさい、わたし」
――何らかの副作用がある。アルティナの言葉が蘇った。
「じゃあ、あの子は」
「あの子?」
寝台から離れ、部屋の隅で丸まっていた白い塊に近づき、アズサはそっと抱き上げた。
まだ寝ていたを起こしてしまったようで、辺りを見渡してユキを見つけると、ウルはクウクウと甘えたように喉を鳴らした。大人しくアズサの腕の中に収まりながら、硬い鱗の生えた尾を左右にゆっくり振っている。
アズサが傍に寄ると、ユキの顔の色はみるみる明るく輝いていった。嬉しそうに破顔し、
「かわいい」と、上ずった声でウルに触れようと手を伸ばす。
クウゥ、クゥーン。ウルは、甘えるような、訴えるような音で鳴いていた。
それが居た堪れなくて、アズサはそうっとウルの身体をユキへと手渡す。始め戸惑いを露わにしたユキだったが、嬉しそうに、何の邪気もない無垢な表情でウルを抱きかかえた。
「アズサが飼っているの? 名前はなんて言うの? わぁ、なんだか不思議な生き物ね」
「ウルだよ」
「へぇ、あなたはウルって名前なんだね。私の名前は……そう、ユキって呼んでね」
ユキはあどけなく笑い、羽の消えた
(やっぱり……)
アズサはいてもたってもいられずに口を開いていた。
「君がウルの名前を教えてくれたんだ。ウルは君の友達だって」
「この子の友達?」
「うん。君が、だよ」
アズサは、その腕の中にじっと身を丸めたウルの姿を見遣る。分かりやすいと思っていた金の瞳が静かに細められ、ユキの返事を待っている。
ユキは黙り込んだ。アズサと同じようにウルの顔を見つめていたが、少しして、消えるような声で言った。
「ごめんなさい。あなたのことも、思い出せないの」
そう告げられたウルの顔つきは、意外と穏やかであった。安心したかのように耳がぺたりと伏せっていた。
しかしそれが、自分の主人が目を覚まして嬉しいのか、それとも自分の名前が初めて口に出されたものであるように聞こえたことが悲しいのか、付き合いの浅いアズサがいざ読み取れるようなものではなかった。
クウーンと、ウルはまた喉を鳴らした。そしてユキの頬をざらざらとした舌で舐めた。
「わっ、もしかして大丈夫だって言ってるの? あは、わわっ、ありがとう……。ウルは綺麗な銀色だね。あっ、私の頭と一緒! だから友達なの?」
整えられた柔い銀の毛並みを気に入ったのか、ユキはきらきらと目元をほころばせて、何度もその背中の毛並みを撫でる。その姿には、今までにはなかった別人の雰囲気が纏わりついていた。
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