15 診察
マルサに促されてバルクスはすぐさま診察に取り掛かった。
少女は周囲でひと悶着があっても目覚める気配すらなかった。
少女の肌は窓から差し込む月の光に、さらに青白く照らされている。獣と同じ色を持つ少女は、薄汚れて生気の無い顔をしてもどこか神がかった美しさを秘めていた。
バルクスは少女に近づいて、そっと、口元に手をかざした。体に掛けられた布団が規則正しく動いている事に気づかなければ、死体ではないかと疑っただろう。
部屋に残っていたのはアズサとバルクス、そして獣だけだった。夜も深まり、夫妻とバルクスは書庫に一晩泊まる運びとなって、夫妻は寝泊まりをするための用意を別の部屋で行っている。
診察を始めたバルクスは、早速その眉間に皺を寄せた。手元を照らす蝋燭に光の影になって、余計にその谷が色濃く浮かび上がっていた。
「生きてる、よね」
斜め後ろに立って様子を伺っていたアズサは、獣を腕に抱えたまま問いかけた。
バルクスは慎重な面持ちで診察を進めた。身体の中の音を聞く道具に耳を押し当てたり、細い手首を取って脈を測ったりすると、小さく息を吐き出して肩の力を抜いた。
「脈は少し弱まっているが正常だ。おかしいことと言えば、見たところ擦り傷一つ無い事だろうかな」
バルクスは床につけていた膝を伸ばしてゆっくりと立ち上がった。そして壁際の机の上に置かれていた少女の服を広げて見る。無惨に破けた状態の服に、バルクスは難しい顔をして口を引き結んだ。
「この血は一体……」
「他の誰かのものだったら」
「それはそれで恐ろしい。まさか戦場にでもいたとかかい」
バルクスの言い方は茶化すようなものだったが、揺れた蝋燭の火に照らされた表情は強ばったままだ。血のようなものがべっとりと染みつき、乾き始めていた。染みは服の表ではなく、裏側に付着して広がったようだ。だが、もし赤黒いものが血液だったとしても、少女の身体には傷一つ無い。
「魔法のせい、かな」
アズサは胸の内に
魔法や魔法薬の中に、怪我や病気を打ち消す魔法はいくつも存在する。「魔法であるから」と言葉一つで物事を解決できてしまうほどの力を魔法は持つのだ。
バルクスは、ふむ、と首を傾けて考えこんだ。
「魔法か。確かにそれも、考えられないというわけじゃない。いや、むしろその方がピンとくるが……そうなると、なあ」
手の打ちようが、と。バルクスは無音の息を吐いて、広げていた服をきっちりと畳み始めた。
「アズサはどうして魔法だと思ったんだい?」
「それは……」
アズサは少しだけ言い淀み、床の板目に視線を落とした。
アズサは魔法がこの上なく好きだ。その好奇心と気持ちから、魔法についての本をたくさん読み、たくさんのことを知った。
けれども、バルクスは。バルクスは、魔法についてどのくらい知っているだろうか。アズサが魔法について話をして、分かってもらえるだろうか。理解できない、と顔を顰めないだろうか。アズサは自分の知っていることを誰かに伝えることが、あまり得意ではなかった。
魔法は人々にとって便利な手段の一つである。
魔法が使えない人間に一番身近である魔法は、魔法師の生み出した魔法道具であり、その恩恵は魔法師だけでなく様々な人々にもたらされていた。
しかし、完成された魔法を簡単な手段として使用するだけの人々にとって、その裏側にある法式の組み方や作用、文字、専門用語――その全てを知る必要はない。人々にとって、魔法は身近な存在のようで、遠い存在だ。
魔法を使うことができる人間は、大陸人口のほんの僅かに満たない。魔法の素質は生来決められている。『天音の心』と呼ばれる器官を先天的に身体の中に有している人間。それは、十万人に一人の確率であるとも言われている。
かつて、バルクスのような医者の生業をする者の多くは、【
しかし現在、必ずしも医学が、魔法を使う医者――【
そこで台頭した学問が、魔法による効果や術式を極力排除して編み出された新たな医学であった。バルクスが修めたその医学は、医術の神と、その加護と起源を受けた地を由来として、【
古来より存在していた土地由来の伝統的医術、比較的有効であると信頼される手法、そして魔法による【
とはいえども、魔法に対するは魔法である。
症状の根底に魔法が作用しているとしたら、それを治すことができるものも、魔法でしかない。つまるところ少女が目覚めない原因が【
「言いにくいのかい? 嫌なら聞かないけど、医者としては聞いておきたいかな。それに、魔法の用語くらいなら少しは分かってるつもりだ」
「あっ……」
頬を掻くバルクスの言葉は的を射ている。魔法を源流としていた医者だがらこそ、魔法について知っていてもおかしくない。
その事に気づかなかったアズサは気恥ずかしくなって、躊躇いがちに口を開いた。
「【
「テウラン? 【
「そう、【
もしかして知っているのかと、目を輝かせてアズサは言葉を繋げた。「それは……」と、バルクスは曖昧に声を出して頷いた。
「聞いた事はある。高濃度の魔力結晶だったかな? 滅多に見られないものだ」
「うん」
アズサは小さく息を吐き出して、話を続けた。
「見つけた時ね、この子、【魔力原石】の中……大きな氷みたいな塊の中に居たんだ」
「――え」
バルクスは一度呆けて口を開いていたが、しばらくしてまた聞き返した。普段の優しげな顔を崩し、愕然とした表情で。
「なん、なんだって?」
「大きな塊の中に入っていたんだ」
少女を見つけた時の状況を、アズサは一つ一つの出来事を辿って説明した。
見たことのない洞穴のこと、獣が道案内をしてくれたこと、【
「な、なるほど、【魔力原石】……。信じられないような話だし、たしかに、魔法師ではない僕には難しいものだ」
「先生はもしかして、【魔力原石】を見たことがあるの?」
「いいや、無いが……」
バルクスは首を振った。そして頭の後ろを手で撫でつけた。
【魔力原石】という言葉は、バルクスが医者になるための勉強をしていた時に、興味が湧いて本を捲っただけの内容だ。あまり覚えてはいないけれど、とバルクスは前置いて言う。
「そもそもなんだったかな。【魔力原石】は、えー、閉じられた空間に高濃度の魔力が発生することで凝固するものだったから、せいぜい手で握れるほどの大きさにしかならないと……。
だからとても珍しいものだって聞いた事があるよ。人間を覆うほどの大きさになるなんて、それは本当に【魔力原石】だったのかい?」
得心のいかない目に見つめられて、アズサはどきりと肩を張った。
「そ、それは分からないよ。僕も初めて見たから。でも、魔法の陣みたいなものがあったんだ。先生たちにも見せたかったけど、もう消えちゃったから証拠はないし」
「消えた……ううん……そうか。何かしらの魔法があったんだね」
真剣な面持ちで頷いたバルクスは、眠った少女の上に優しく毛布を掛けて整えると、取り出した道具を鞄の中に詰め始めた。
「僕の言うこと、信じてくれるの」
バルクスは目を瞬かせた。
「もちろんだ。なんだい、嘘をついているのかい?」
「ついてない!」アズサは頭を振った。「でも……」
「信じるさ」
バルクスは確りと断言した。
「信じてもらえなかったらどうしようかって、思うよな。でも、信じてもらえるかどうかよりも、言わなければ始まらないことだってある」
バルクスは柔らかな表情で続けた。
「僕は、君は嘘をつくような子じゃないって知っているし、君は普通の子より頭が良いと思ってる。どんな所で嘘をついて良くて、どんな所で嘘をついてはいけないのかも分かってるだろう。
それに君は嘘を吐く吐かないより、どっちを選んだらどうなるかを考えるか、たとえ嘘だったとしても、それを信じて貰うようにするんじゃないか」
「……う、うん」
「はは、もしかして当たっていたかい?」
さも当然に話すバルクスに、アズサは面食らって、きょとんとした顔で躊躇いながら頷いた。嘘を吐いても意味がないと、その思考が数秒前の自分の頭の中に過ぎったのは確かだ。それを見破られたことに、アズサはどきりとした。
「僕は君がしたいと思ったことには手を貸してあげたいし、君が必要無いと言うようなことは極力しないさ」
バルクスは、村の誰とも、そしてバーリオ夫妻とも、また違った種類の人間だった。
基本的に村人はアズサに無関心だ。バーリオ夫妻、特にマルサはどちらかといえば、世話焼きで、一から十までのことをしようとする。しかしバルクスは、言ってしまえばその中間にいるような存在だった。誰とも違うアズサの特異性を知っているからこそ、アズサと適度な距離にいる、不思議な大人だ。
彼は一本線を引いておいて、見守るような立場にいる。アズサの手助けはするが、アズサが自分で出来ることには口を出さない。かえって、アズサが一番信頼できる立ち位置にバルクスはいた。
村人との交流の中に居てもバルクスがアズサに対してごく普通に接してくれる理由は、バルクスがこの村で生まれ育った人ではなく、遠くの町から移住してきたという事もある。そもそも彼はこの村に居ることが変だと周りから思われているほど、人も良く、腕も良い医者だった。
「僕の知り合いに【
実の所バルクスは名の知れた医者なのではないか、というのがアズサの思うところだ。国に数人しかいないという【魔法医】の知り合いが居るというのは、かなり珍しい。
「【魔法医】の知り合いがいるの?」
「ああ。昔世話になってね。魔法が関わっているかもしれないから、一度診てもらおう。まあ、来てくれるかは分からないから期待はしないでくれよ。今どこで何をしてるか知らないんだ」
バルクスは困ったように笑い、服の裾を二度ほど手で払うと、普段から持ち歩いている革製の鞄を拾い上げた。
「僕はマルサさん達と話をしてくるよ」
そのまま部屋を出て行ってしまうかというところで、先生、とアズサはその背中を呼び止めた。
「なんだい?」と、バルクスは微笑みを携えながら振り返った。
「その……」アズサは抱えた獣の後頭部に視線を落とす。「僕にできることって、何かある、かな」
「ああ。もちろん」
アズサが顔を上げると、バルクスはいつもと同じように目尻に皺を寄せていた。
「もし、この子に何かしてあげたいと思ったならね、手を握ってあげればいいよ」
「手を?」
「ああ。人は温もりが好きな生き物だからね」と、バルクスは優しく笑った。
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