14 信頼


 ディグレはかつて魔獣に怪我を負わされたことがあった。人の言葉を真似し、人を騙すことを得意とした狼の魔獣、『誘狼ゆうろう』だ。狼と聞きいて真っ先にその存在を疑ったのだろう。


「おじさん!」


 ディグレとバルクスの二人に、アズサはまだ獣の存在を伝えていなかった。二人が獣をどう見るのか、二人を目にした獣がどのような態度を取るのか、そのことを考えると、アズサの背筋には冷たい風が通り抜ける。


 ディグレは部屋に踏み入った所で足を止めた。アズサは胸を撫で下ろし、呆然と立ち竦んだ大人たちの間を潜り抜け、小さな獣の姿を探した。


 少女が寝ている寝台の前に、獣は羽を折り畳んで座っていた。

 獣の金の瞳はじっと四人の人間を映し、そしてその場に優雅に腰掛けている。その姿に、アズサも大人達と同じように息を呑み込んだ。


 丸みを帯びた幼い姿であると言うのに、そのたたずまいにはどこか気品が溢れており、窓から差した月明かりを浴びた白銀の姿は宝石のように輝いている。目が奪われるような美しさに、全員が唖然と動きを止めてしまった。


「お、狼……い、いや、まだ子供?」


 バルクスは腰を抜かして尻もちをつき、青ざめてわなわなと震えながら、そう言葉を吐き出す。

 斧を片手に構えたディグレも異様な姿に目を見開いて立ちすくんでいた。辺りの森の全てを知る彼にとっても、その獣は初めて見る姿をしていた。見覚えのある、あの醜い牙を尖らせて、骨ばった姿をとる『誘狼』の影はどこにも無い。ミエラル村の森など似合わないその出で立ちには、言葉を失うほど凄みのある美しさがあった。


 獣は人間たちを、ぐるりと、ゆっくり一回り見渡した。暗闇の中で金色の瞳が怪しく光る。人か、とでも言いたげな、観察して、値踏みしている視線だった。

 月明かりに照らされながら背筋を伸ばすその姿に、誰かがまた、ごくりと喉を鳴らした。獣は不意に視線を下に戻して少女を見ると、すぐに顔を上げる。そして、獣の視線とアズサの視線がかちりと交差した。


 はっとしたアズサは、身体を獣の前に滑り込ませた。


「お、おじさん! この獣も僕が助けたんだ。大丈夫だよ、僕たちには襲い掛からない!」

「攻撃しない?」ディグレは厳しく目を細めた。その声は少し上ずっていた。「そいつは魔獣だ。狼の魔獣は狂暴だぞ」

「それは知ってるよ。だけど、僕を信じてほしい。この子はちゃんと、僕たちの言葉が分かるんだ」

「魔獣には人の言葉を理解する個体もいる。だが、そういう奴らは狡猾だ。理解しても、それに従うわけじゃない」

「でも……っ!」

 

 ディグレ斧を握る力を強めた。岩のような手の甲にある痛々しい引き攣った傷跡が見えて、アズサはうっと言葉に詰まる。肘のあたりから手に掛けて残っているその傷は、『誘狼』の爪痕だった。


「この子の友達なんだ。僕に女の子のことを教えてくれたんだ」

「友達?」ディグレは眉を吊り上げた。「どうして友達だと分かる。その魔獣が、お前に言ったのか?」

「う、いや、言われてないけど……」


 アズサは拳を握りしめた。背に庇う獣が少女と友達だということは、アズサが獣の行動をそう見なしただけに過ぎない。それでもアズサは心の中で、獣が敵意を向けていないと確信していた。


 もし獣がアズサを騙し襲おうとしているならば、ディグレとバルクスが来る前に、アズサとマルサは骨の髄まで喰われていたかもしれない。今こうして背を向けている状態でさえ、獣にとってすればアズサは格好の餌食だ。もしも後ろから襲い掛かられたとしたら、アズサはその足の毛から覗く鋭い爪で八つ裂きにされて、ひとたまりもないだろう。


 アズサが獣を庇うのは、ただひとえに、獣に対する信頼の情を抱いていたからだ。

 このまま背中に喰い付かれたら。その不安が全く無いとは言えない。獣が狡猾で、ディグレの言うようにアズサを欺いているかもしれない。それでも共に過ごしたほんの僅かな時間があったから、アズサは獣に心を寄せていた。


「僕は、その……僕は」


 どう説明したら、ディグレは同じように考えてくれるだろうか。

 言うべきことも言葉にならず、アズサはちらりと背中の後ろに視線を投げた。


「この獣は……」

 

 言葉は通じなくても、ただ獣に助けて欲しかったのかもしれない。その思いが通じたのか、アズサが喉の奥から言葉を絞り出したその時、石のように座っていた獣が突然その腰を持ち上げた。

 凝り固まった体を解すように、獣は天井に向かって背筋を大きく伸ばして、背中の巨大な二対の翼を広げた。一枚一枚の羽に隙間が生まれて光が動いた。

 ディグレは動きを見せた獣に対し、いの一番に叫んだ。


「アズサ、そこから離れ――なにっ!?」


 構えた斧の先は行き場を失い――その一瞬の出来事に誰もが息を呑んだ。


「つ、翼が」

「うわぁっ……!」


 淡い金の光と共に巨大な鷲の翼が獣の背で崩れ、空気の中に溶けていく。光の礫となって消失していくさまを目の辺りにし、四人は動くこともできない。


 ガタン、と何かが落ちる音が部屋に響いた。ディグレが驚きのあまり斧を手から滑り落とした音だった。板張りの床に研ぎ澄まされた斧が突き刺さったが、誰も、床を傷つけた斧にさえ意識を向けられなかった。


 アズサの頭の中では以前読んだ本の活字とページがぐるぐると回っていた。『銀王狼』が記されていた書物――『大陸魔獣大全 ~ポットルありから狂暴ドゥボドウ、絶滅種、伝説の幻獣や竜種まで~』の一節が、ふと浮かび上がる。そしてその中のある一節だけが明るく輝きを放っていた。


(「『銀王狼』は成獣になると、自身の大きさや姿を自由自在に変えることができる」――本当だった。羽も含まれるとしたら、僕の目の前で、今、消えた! 僕の目の前で……でもこの姿が成獣……そんなわけ……)


 驚きのあまりに思考の海の中へと飛び込みそうになったところ、握りしめた拳に暖かな吐息が触れる。少し湿った、冷たく柔らかなもの。獣の黒い鼻だ。


「……やっぱり、君は分かってるんだよね」


 鼻先が触れたのはほんの一瞬のことだったが、それが獣の答えだとアズサは小さく笑う。

 獣は何事も無かったかのような澄ました顔をして、静かにアズサの手から離れていった。そして椅子の上に二本足で立ちあがると、前足をめいっぱいに伸ばし、アズサの腕に足を引っかけて上目遣いに顔を向ける。


 覗き込まれたその月のような瞳の奥に、アズサの顔が映っていた。


「抱っこすればいい?」


 しばらく見つめ合ってアズサが尋ねると、獣の尾が左右に揺れた。

 なんとも分かりやすい。アズサはくつくつと笑い声をあげた。これじゃあまるで、狼ではなく犬のようだ。中型の犬ほどあった身体は翼が無くなったことで更に小さくなり、心なしか顔も幼くなったのではないかとさえ思えてしまう。――否、本当に一回りほど小さくなっている。


 アズサは前足の下に腕を入れて、すくうように獣を抱き上げた。大人しく腕の中に納まった獣の背をひと撫でしても、獣は嫌がる素振りを見せない。

 不思議なことに、背中には翼が生えていたような跡も残っておらず、艶やかな毛並みが波打っている。ほっとして、アズサはもう一度背中を撫でた。


「ほら。大丈夫だよ、ね」


 呆けた大人たちに向き合って、アズサは安心させるように表情を緩めた。


「……あ、ああ」と、気が抜けたように、ディグレは息巻いていた肩をすとんと落としす。

「私も、大丈夫と思うよ、あんた。心配いらないよ。さっきだって、私の野菜スープをおいしそうに食べてくれたんだ」

 マルサが助け舟を出し、胸を張る。

「おまえのスープを?」

「ああ! 二杯もね!」


 あっはっはと高らかに笑うマルサの声だけが響き、ディグレとバルクスはぎょっと目をひん剥いて、何度か瞬きを繰り返した。


「だから大丈夫。さあ先生、いつまで床に尻もちをついているんです? 獣のことはアズサに任せておいて、ほら!」

「え、あ、えぇ……」


 未だ訳も分からず困惑していたバルクスに手を伸ばして立ち上がらせると、マルサはディグレに向かって言った。

 

「ほら、あんたも斧を拾って。あとで床を直さないとね」

「あ、ああ。そう、そうだな」ディグレは頬を掻いて斧を拾った。「アズサ、床はすまなかった……。確かにそいつは、他のとは違うのかもしれん」

「じゃあ、何もしない?」

「ああ、ああ――俺もお前を信じよう。だが責任は、ちゃんと持てよ」

「うん……、ありがとう、おじさん」

 

 ディグレは言葉を言い残して、のそりと部屋を出ていった。その背に大きく頷いたアズサは、獣を抱きしめる腕に少しだけ力を入れた。




 

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