13 来訪の予感


 ◇◆◇◆◇



 来訪者を告げる涼やかな鈴の音が鳴り響いたのは、マルサが少女の様子を見ると席を立ち、手持ち無沙汰になったアズサが暖炉の前で本を広げていた時だった。


 アズサは玄関の扉を開いて外の様子をうかがった。


 周囲の雪は、静かに溶け始めている。すると、月明かりに当って光が跳ね返った雪景色の中で、大きな人影とぼやけた橙色の灯火が左右に揺れていた。厚手の靴底で、ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏み固める音と、左右に踊る光は徐々に大きくなってくる。光と足音は白い道を真っ直ぐに辿って来た。


「おじさん?」


 光がその持ち手の輪郭を映し出す。熊のような巨体を揺らしながらゆっくりと歩いてくる人影に、アズサは扉から手を離した。


「おじさん、おかえりなさい!」

「ああ、遅くなった」


 アズサの目の前まで来た大男が、ゆっくりと口を開く。平坦な声音は穏やかであったが、その低い音には奇妙な威圧感が籠もっている。巨木が木の幹を震わせて話しているかと思う程だ。


「マルサの置き手紙を見た。それから、この人が……」

 

 その大男――ディグレは、自身の身体を半歩分ずらし、後ろをくいと親指で示した。


「お前に呼ばれたと」


 厚い肩越しに後ろを伺うと、その隣に、幅のある背中に隠れていた人影がぬっと現われる。優しげな風貌の男が、「やあ。こんばんは、アズサ」と、穏やかな笑みをその表情に載せて片手を上げた。


「――えっ、バルクス先生?」


 予想もしていなかった人の来訪に、アズサは驚いて声をあげた。

 ディグレの後ろに、麓の村で診療所を開く、医者のバルクスが立っていた。

 ひょろりとした細身に、焦げ茶色の髪を後ろに撫で付けた品の良い姿。皺の寄った額と優しげに細められた目元には少しばかり疲労が滲んでいる。


「いやあ、遅くなってしまったよ。もう少し早く来られると思ったのだけどね」


 バルクスは服についた雪を払いながら言った。身に纏っていた外套の裾が湿って、含んだ水分が床に落ちていった。

 心なしかその息も弾んでいるようで、雪道を急ぎ足で来てくれたのだろう。アズサはバルクスを見上げた。


「先生、手紙では明日にってお願いしたのに」

「ああ。でも怪我をしている人がいるのなら急いで駆けつけるのが医者というものさ。早く診た方が良いだろう? それに君の頼みだしね。本当はもっと早くに来ようとしたけれど、あいにく急患が来てしまって」

「もう大丈夫?」

「ああ」


 バルクスは表裏も感じない顔でにっこりと笑った。アズサの出した言伝鳥を見て、すぐに来てくれたのだろう。

 多くの村人達がアズサを避けていると言うのに、バルクスはいつでもアズサに優しかった。アズサはその優し気な笑顔を見るたびに、少しだけ、むず痒い心地になった。


「先生とはここに来る途中で、偶然会った」

「ええ、おかげで迷わず来ることができましたよ」


 ディグレが静かな声音で付け足して、バルクスを玄関の中に招き入れた。魔法の結界のおかげで外よりも温かいとはいえ、春の夜の涼しい風が、扉を閉めた拍子にふわりと入り込んだ。



 ◇◆◇◆◇




 濡れた外套を脱ぐと、バルクスは愛用の鞄を手に取る。疲労の色濃い顔を見かねたマルサが少し腰を落ち着けてお茶でも、という提案をしたが、彼はやんわりと断った。


「先にその人の診察をしますよ。見て欲しいという人はどこに?」

「え、ええ……先生がそう仰るなら、そうしましょう。アズサ、お湯を沸かしてあるから、暖かいお茶を用意しておいてくれないかい」


 アズサは首を縦に振り、暖炉の前の椅子に深く腰を落としたディグレを見やった。「俺も」とディグレも言った。

 

「じゃあ先生、こちらですよ。ああ、足元には気をつけてくださいね! いつも片付けろと言ってるんですけど」

「大丈夫ですよ。いやあ、いつ見ても凄い本の数ですね。今度、僕も借りに来ようか――おっと。わっ、おわっ、あっ――……ごめんよアズサ!」


 ばたばたばた。崩れ落ちた音がして、バルクスの悲痛な声が飛ぶ。アズサは戸棚を開きながら振り返って、「あとで片付けるから!」と、声を張った。

「わあ、ごめんよ!」 バルクスの声がまた飛んだ。本の崩れる音と共に。

 

 こういうとき、魔法が使えたらどんなに楽だろうか。アズサは散らかった部屋を見て肩を落とした。


 台所に入ると、水の注がれた小鍋が火に掛けられてぼこぼこと泡と音を立てていた。アズサが鍋の中に茶葉の包まれた袋を落とすと、湯の中にはじわりと茶色の線が滲み出た。

 その表面が焦げ茶色になったところで袋を引き上げて茶飲み用の水差しに注ぎ蓋をすると、アズサは木製の杯とそれを乗せるトレーを用意した。


「こんな吹雪の中、外に出ていたんだって? なぜ言わなかったんだ」


 机の上にトレーを置くと、椅子に深く腰掛けたディグレが唐突に口を開いた。咎めるような視線に、アズサは目を逸らした。


「……それは、その」

「お前は昔から遠慮してばかりだ。もう少し誰かに頼ることを身につけろ。一人じゃできない事が、俺達には多い。先生を呼んだことは、良かったがな」


 マルサに言われたことと同じような内容だった。アズサはマルサと同じ事を諭す姿に思わずくすりと笑いを噛み締めた。バーリオ夫妻は似ている部分を見つけ出す方が簡単だ。

 二人の言葉に、どこか胸の奥が暖かくなるような心地になって、しかし同時に、何かが胸の奥底で詰まっているような妙な様な気分になった。


「なんだ、おかしなことを言ったか?」


 訝しげに眉を寄せたディグレに、アズサは急いで首を振った。


「ううん。おばさんからも同じことを言われたよ」

「マルサが。そうか、まあ、言ったことは心の内にでも留めておけ。人を助けたんだってな。お前は正しいことをしたよ」

「う、うん」


 ディグレは褒めるような言葉さえ滅多に言わないというのに、今日は珍しく口数が多いようだった。


 そこでアズサふと、何かを忘れていることに気がついた。とても大切なこと。逡巡して首を傾げると、暖炉の端に重なった毛布の山が目に留まる。

 その時、部屋の奥からバルクスとミレアの悲鳴が書庫に響いた。


「ま、魔獣!?」


 バルクスの困惑した声に、アズサの隣から鋭い感情が湧き上がる。


「なに、魔獣だと?」


 ディグレは盛大に顔を歪めて眼光を鋭く細めた。

 魔獣の存在は、総じて人から嫌われている訳では無いものの、良い感情を抱いていない者は少なからずいるものだ。そしてディグレもそのうちの一人だった。


「待って!」


 しまった、と。アズサは突き刺すように静止の声を上げた。

 既にディグレは腰を上げ、愛用の小ぶりの斧を握りしめると、本の山の中を問答無用で突き進んでいった。

 





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