12 隠しごと
皿と皿の擦り合わさる音がほんの少しの間響いた。それからマルサはゆっくりと口を開いた。
「彼らは……【
【魔導師】は浮浪の民であり、栄光と遁世の歴史を辿っている。
【女神に愛された一族】――大陸でその言葉を唯一と冠する者達は、古くから魔法の領域においてその頭角を著していたものの、今となっては表の舞台から姿を消した存在だ。
彼らは何百年もの間、社会から逃げるように大陸の各地を転々としていた。そしてあるとき一族の先人たちは、水の国の山脈の隅で暮らし始めたのだ。
「私には国の話は分からない。でも、あの人達が酷いことをするような人じゃない。だが【
珍しく言葉に言い淀んだマルサの表情には、自分の事のようにひどく辛い感情が浮かんでいる。その似合わない表情に、アズサはもしかしてと尋ねた。
「マルサおばさんは、その人たちに会ったことがあるの?」
「ああ、ああ。一度だけ、会ったことがあるよ」
「本当に?」アズサは声を上げた。「 【
「あっはっは、そうだよ、見たことがあるのさ。私は運が良かった! おまえさんも、そういうことに興味があったんだねえ」
「興味あるよ! だって歴史書にも、魔導書にだって名前がある人なんだから」
「そうか、そうか! おまえは本当に本が好きだねえ」
前かけて手を拭いながら、マルサは上を向いて大口を開けて笑った。そして、ふっと表情を変えた。優しげに、懐かしむように。
「まあ私より、そうだねぇ、お前のお母さんがだね」
「……僕の、母さん?」
「そうさ」マルサはアズサの困った顔にふっと息をついた。「今でもゼンの坊は、そういう話はしてくれないみたいだね」
「う、うん」
アズサは前のめりになっていた体をすっと元に戻した。アズサは、母親の話をあまり聞いたことがなかった。
「母さん……」
慎重にその言葉を繰り返しても、言い慣れない言葉は口の中で転がって、少しだけ心の中に違和感を残していく。そんなアズサの心の内を透かし見るような目をして、マルサは静かに語り始めた。
「お前さんを身篭ったお母さんとお父さんがこの村にやってきて……。あれはすぐの出来事だったか。お母さんが魔獣に襲われた事があってね」
「ま、魔獣に?」
「その時助けてくれた人が【
マルサは台所の戸棚を開け、皿を仕舞い始めた。
「それに怪我の手当もしてくれて、色々な面倒も見てくれてねぇ! その時はお前さんがお腹の中にいたし本当に肝が冷えて……だから、お前さんが今ここにいるのは、あの人たちのおかげでもあるんさ」
白い皿を大事そうに両手で包むと、マルサはじっとその皿を眺めた。まるでその皿に、誰かの顔を映しているようだった。
「向こうは名乗らなかったが、一人、銀木の魔杖を持っていた。あれは本当に美しい杖だった。その人が《白銀》じゃないかってね、お前のお母さんはもうそりゃ興奮してたさ。その人が進んで助けてくれたってね」
「……そうだったんだ」
初めて聞く母の話に、嬉しさが込み上げてきて、アズサは自分の口が上手く回らなかった。
母の話も父の話も、進んで教えてくれようとする人はいない。バーリオ夫妻も、ゼンでさえも、村の人も、何かを言おうとすると一度その口をぱたりと閉ざしてしまう。まるで喉に杭が引っ掛かっているように、分かりそうで分からない微妙な程度で、気づかれないようにその顔を歪めるのだ。
アズサはよく人の顔を見ていた。これは、幼い時から見につけてきた、一つの才能だ。だからこそ彼らの小さな機敏を感じ取ってしまってから、居心地の悪さにアズサはその雰囲気を突き破ってまで、父と母の事を進んで聞こうとは思えなかった。
けれど、今なら。アズサはこくりと小さく喉をならした。
「僕、母さんと父さんの話をまた聞きたいな。母さんは、父さんはどんな人だった?」
戸棚の取っ手に手を添えたまま、胸の辺りにあるその顔を見下ろして、マルサはぱちりと目を瞬く。
アズサの表情には固唾を呑むような真剣さが現われていて、マルサはいつものように、口端を一度結んだ。戸棚から手を離すと頬にその手を慈しむように添え、太い親指で目元を優しく擦った。
アズサは突然伸ばされた腕に、思わず身を縮めてしまった。マルサの茶の瞳の奥には、今までにないくらい深い感情が揺れ動いている。触れた手はまだ湿っていた。冷たさはなく、温もりが伝わってきていた。
「お前さんのお母さんのセノアはね、とても綺麗だった。見た目も美人だったが、一番はやっぱり心がね。自然と人を愛していて、何よりも思いやりのある人だった。お前の顔は――」
「母さんにそっくり?」
「そうさ。その目の色もセノアの色だ。優しい所もね」
アズサは照れたように顔を斜め下に背けて、はにかんだ。顔と性格は母親に似て、その目の形と髪の色は――。
「でも目の形と、その髪の色は」
「――父さん?」と、アズサは得意げに言った。
ゼンがそれだけは何度も口にしていたことをアズサは覚えている。お前の父と母は、ちゃんと存在していたんだ、と。その言葉と共に。
「あぁ。そう、そうさね。お父さんによく似てる。お前さんのお父さん……ユトはね、とても強い魔法師だったとゼンの坊が言ってたよ。生きていれば今頃は、王城で働くような立派な魔法師になっていただろうさ」
「そんなに強い魔法師だったんだ」
父が魔法師だったということは、アズサも知っている。ゼンと、それからアズサの父であるユト・リアンタは、魔法師を育てる学校で共に学んだ唯一無二の親友だったらしい。
けれども、その親友と親友の妻の話をしたくないという雰囲気をこの上なく作りだしていたのは紛れもなくゼンだった。そのことを、マルサも理解していた。
「相変わらず、ゼンの坊はお前には話をしてくれないんだね」
アズサは小さく頷いて下を向いた。そして吐き出すように言った。
「……おばさんたちも、母さんと父さんのことはあんまり話したくないのかと思ってた。でも、なんで話をしたくないのかも分からなくて」
「それは」マルサは固い声を出した。
「こ、困らせたいわけじゃないよ。分かってる。でも」
マルサは今まで見た中で一番困った顔をしていた。言葉に詰まった肩が震えたことを見落とさなかったアズサはさっと視線を下に逸らした。胸の奥に小さな針のような何かが刺さっていた。
「でも、おばさんの話、聞けてよかったよ」
「アズサ」マルサは頬から手を離すと、その体を優しく抱きしめた。「アズサ……ごめんよ。私から全て話してやることは、できないんだ。こればかりは……」
「それは前にも聞いたよ」と、アズサは分厚い服の中に顔と声を埋めた。
「……ゼンの坊なら……ゼンの坊も、きっとまだ心の整理ができていないんだ。だが、あの子だって……きっといつか、話をしてくれる」
「大丈夫だよ。ゼンさんのことも、ちゃんと、分かってるよ」
回された手が、ゆっくりとアズサの背中を叩く。ごめんよ、という声だけが、耳に奥底でしこりのように残っている。分かっていると言ったその声は震えていた。
(ゼンさんにとって僕はいったいどういう存在だろう? どうしてゼンさんも、おばさんも、そんなに哀しそうな顔をするんだろう)
母と父の話を聞くことは、ゼンの心にある深い傷をさらに傷つけてしまうのではないかとアズサは思う。ゼンはアズサを見て、いつも哀しそうな目をするのだ。だからアズサはどうしてもその傷には触れたくなかった。
触れたら最後、ゼンに見捨てられてしまうような予感を、アズサは心の底に抱えていた。
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