16 名前
アズサは自分の手のひらと眠っている少女の顔を交互に見る。手を握るか悩んだすえに、アズサは獣を床に下ろした。
足元にぴったり付いて回る獣を避けながら寝台に近づき、月明かりに照らされた少女の寝顔を覗き込むと、白い敷布に染み込むような銀の髪を枕にして、少女はこんこんと眠り続けていた。その頬や額は美しい陶器のように真白で、少しばかり開いた唇だけがほんのりと赤く色づいている。
アズサは近くにあった椅子を引いて腰掛けた。
獣は柔らかく肢体をしならせて寝台に飛び上がると、少女の頭のすぐ隣に丸くなる。少女の髪の色と獣の毛の色はよく似ており、獣が人間に姿を変えたら、同じような髪の色をしているのだろうとアズサは思った。
バルクスの言ったとおり、アズサは布団からはみ出ていた少女の指先をそっと手に取った。手はまるで氷のように冷たい。
「あっ」
アズサは小さく息を零した。
「ここだけ傷……。気づかなかった」
細い手には似合わない深い切り傷が、親指の付け根から小指の付け根まで真っ直ぐ跡を残している。
バルクスは気づいていただろうか。傷跡はかなり前のもので、その部分だけが周辺の肌よりも薄赤く、皺が寄って引き攣っていた。
アズサは傷に触れないように両手で手を包み込んだ。
手を寄せたことで、少女の服の袖がするりと肩の方へ落ちていく。袖を引き戻そうとしたアズサだったが、広がった袖を掴んだところで手を止めた。
袖の下の白い肌に、くっきりとした黒い模様が描かれている。
その模様は、おおよそアズサの人差し指の長さの幅で描かれていた。花と蔓の様な植物と、あの狼に羽を生やしたような動物の姿。そしてその動物の首元には、小さな図形のような線が存在感を放っている。
「この模様……」
見たことがある模様だと気づいたアズサは、布団の上に少女の手を戻して立ち上がった。記憶が正しければ、とある本に描かれていた模様――否、文字の形によく似ている。
暖炉のある部屋に戻ると、バルクスとマルサが椅子に座って話し込んでいた。ディグレは長椅子の上で足を放り投げ、盛大ないびきを響かせている。部屋に戻ってきたアズサの姿に、マルサが顔を上げた。
「何かあったのかい?」
「ううん、大丈夫」アズサは首を振って答える。
「そうかい。私らは今日ここに泊まらせて貰うよ。もう遅いから、今から戻るのも大変だしね」
「うん、分かったよ。ああ、布団は分かる?」
「ああ、大丈夫さ。私たちは何とかなる。それよりお前さんはどうする?」
「大丈夫、僕は何処でだって寝られるから。それより、ちょっと気になることがあるんだ。だから本を探そうと思って」
「気になること?」マルサは片眉を吊り上げた。「また本を読むのかい? もう遅いから早く寝なさいな」
「うん、でもこれだけ」
そう言いながら本棚に目を向けるアズサに、マルサはため息をつく。
「まったく……本も程々にしときなさい」
マルサは早々に諦めるようになったのか、今回も仕方がないとでも言いたげに肩をストンと落とし、それ以上は何も言わなかった。
アズサは本棚を見上げて、端から順番にその背表紙を追いかけた。隣の本棚へ視線を移そうとしたところで、ようやく目当ての本が視界に入った。引き出した本はずっしりと重たくて、アズサの胸くらいの大きさがある。本を広げれば、片腕の長さくらいあった。
「何の本だい?」と、マルサが聞いた。
「【
「テル……何だって?」
「【
アズサの頭の中は、あの腕の模様で一杯だ。重たい本を抱えて、アズサは本の山を飛び越えると、少女のいる部屋に駆け戻った。
そして寝台の隣の椅子に座り、膝の上で本を開く。表紙を捲り現われるのは白紙だったが、少し時間を置いて、じわりと青みがかった黒い墨が紙面に滲む。固い文字と絵が白紙だった場所に現われた。
――『R・R・R編著 魔法師による魔法師のための【
【
魔法の法式を理解する上で、【
もちろん、魔法を使う素質を持っているのに、魔法を使えない人間が学んでも、さして意味の無い事柄であるのかもしれない。
でもそれがいい、とアズサは想っている。
頁をめくる度に躍る文字。美しいインク墨の線。白と黒で描かれた様々な絵。古い本から漂う紙の匂い。そして、そこに現われた思考の海。
たとえ本の中を旅し続けて、それが実際に役に立たなくとも、好きなことを好きなだけできることに、アズサには意味があった。
「ううん、全然見当たらない……なんだか少し形も違う……」
入門書からは、微かな甘い香が漂っていた。その香で肺を膨らませながら、アズサは分厚い本の頁を一つ一つめくり、少女の腕の模様と見比べていく。
「あっ、これかな?」
アズサは本から顔を上げた。しかし、よく見比べると、続きの文字の形が違っている。
膨大な文字の数々を眺めると、目が回ってきて、唸り声をあげたり、独り言を呟きながら、アズサは本の頁をめくった。
しばらくしてついに、アズサは「あった!」と声を上げた。寝台で目を閉じて丸くなっていた獣も驚いて顔を跳ね上げた。
「この模様と同じなのは……、これだ。意味は……『美しい心』? 美しい心ってなんだろう? 心が綺麗ってこと? これが名前なわけないから――」
アズサは首を傾げて頭を捻った。
「う、じゃない、発音が違うかな。えっと、ゆー、ゆ、なんだっけ……ゆぅき、ゆぬき、いや、ゆき? ゆ
頭の中の霧が晴れ渡るようにすっきりとして、アズサは胸がいっぱいになった。
少女の腕に書かれた模様の一部が分かっただけ。けれども、身体の底から熱いものが込み上げてくる高揚感で、胸がドキドキとしていた。まるで森の奥のまだ誰も知らない未知の植物を見つけた時のような、ずっと分からなかった本の一節がようやく紐解けたような、魔法の法式を覚えた時のような、そんな感覚だ。
「もしかして、君の名前は『ユキ』?」
アズサは本を閉じながら、細い手をもう一度握った。
「美しい心。読み方は、『ユキ』。雪の降る日に見つけたから『ユキ』。はは、すごい偶然だなぁ」
目が覚めるまで、少女の名前は『ユキ』。アズサは勝手に心の中で決めて、そう呼ぶことにした。呼名が無ければ不便だろう。
「ユキ……早く目を覚ますといいね」
少女の顔の横で丸くなっていた獣がもぞもぞと首を起こした。相変らず背の羽は消えたままだが、その翼が一体どこへ行ってしまったかは分からない。
観察するようにアズサの顔を見上げる姿に笑いかけると、獣はただ、その金色の瞳を瞬いた。
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