17 夢現に

 


 ◇◆◇◆◇

 


 ――あ……ま。あね……。

 ――……さま。もう……になった……。


 鈴のように高い声音が頭の内側を揺さぶった。

 しばらく鳴り響くその音は、誰かの声になっていく。脳が少しづつ音を拾い始めた。その声は、とても微かなものだった。


 ――眠るのは、……。へんじを……。


 意識がゆっくりと暗闇の奥底から引き上げられ、また落ちる。

 水の中で浮き沈みを繰り返すように、アズサの意識は眠気の間を漂っていた。


 小さな声は誰かに語り掛けている。その声音には、親が子どもに子守唄を歌うような慈愛に満ち溢れていた。何故かアズサはその声を聞いて、胸野中にむず痒さを感じた。一体、誰の声だろうか。確かめたいというのに、アズサの意識は更に深い底に引っ張られてしまう。


 ――もう生きるの、いやになった?


 その一言が聞こえた時、浮き沈みを繰り返していたアズサの頭がさっと晴れ渡った。

 そのまま顔を上げることは出来なかった。自分の近くにいる気配を感じ取れて、目を閉じたまま耳を澄ます。


 晴れてゆく頭の中と共に、アズサは状況を理解していた。いつの間にか寝てしまっていたようで、身体がガチガチに固まってしまっている。握った指先がじんわりと温かく、伸ばした腕と床に座り込んだ足が痺れていた。


 ――あねさま。


 アズサは、ほんの、ほんの少しだけ、その瞼を持ち上げた。


 部屋は白みがかっている。空の山際だけが明るく、薄い色の青空が広がっていた。太陽が顔を覗かせる前の時刻だ。家の中の空気はひやりと澄み、物音一つ聞こえてこなかった。一番早起きのマルサも起きていない。誰もが寝ている時間。


 聞こえてくる音は人の声ではない。それでも、その言葉はアズサの理解できる言語だ。


 直接頭の中で響いているような、不思議な響きを含んでいた。まるで水の中から声を聴いているかのように、どこかくぐもって聞こえた。

 部屋にはアズサと、寝ている少女だけだ。そしてあとは――あの獣。アズサは早鐘のように鳴る心臓を落ち着かせて視線を動かした。


 ――ねぇ、起きてよ、あねさま。


 少女の頭の隣に、小さくなった銀の塊が座っている。

 獣は身を屈め、鼻先を顔をすり寄せていた。短いけれども鋭い牙が生えた口は開いていないが、まるで語り掛けているような眼差しで少女を見つめている。


 あねさま、あねさま。名前を呼ぶ声と共に、硬い鱗に覆われた尾が揺れる。アズサはこの声の主が獣であると、そう思わずにはいられなかった。



 

 ◇◆◇◆◇


 

 目を開くと、そこには暗闇があった。

 墨汁のように黒い闇に侵されて、全身には絶えず不快な何かが纒わり付いていた。


 形のない影のようなが、絶えず周囲を蠢いている。


 女の身体はその影に押さえつけていた。影が左右にゆらゆらと揺れ続けて、女を取り囲み、見下ろしている。何人もの視線を感じて、女は恐怖に身体を強ばらせた。

 彼らの身体から滴り落ちた何かが、液体のように腕や顔を濡らしていく。液体は肌へと触れた途端に固まり、身体に纏わり付いて身動きが取れなくなった。


 声が聞こえる。


 女は、影を振り払おうとして、全身に力を入れた。だが腕も、足も、ぴくりとも動かない。


 声が聞こえる。


 聞いた事のある懐かしい声音だった。声は次第に耳元へと近づき、そして大きくなった。

 闇が動き、目の前で、人の形を成してゆく。影が大きく唸った。大きな影から小さな影まで、ぐるりと女を囲んだ。影には顔がなかった。色さえなかった。凹凸もなかった。ただのっぺりとした黒い顔で、女を見下ろしていた。


 ――だ……だれ?


 女はおもむろに問いかけた。口だけは自由に動かせた。


 影は女を見下ろしたまま、平坦な声で延々と何かを呟いていた。言葉は聞き取れなかった。

幾重にも重なった糸のようにか細い声が女の耳元で羽虫のような音を立てている。女は耳を塞ごうとした。手が影に縫い止められ、それは叶わなかった。


 ――うるさい……音が……いや、やめっ……!


 耳は塞げず、強い力で押さえつけられる。女は影から逃れようと身悶える。止むことなく鳴り続ける奇妙な音に歯を食いしばり、頭を振った。耳の中で羽音が暴れているようだ。


 苦しさに絶え絶えの息を接ぐと、蠢く影の中に、しっかりとした形のある影が立っていることに女は気がついた。


 小さな人影は背を丸め、薄闇の中にうずくまっていた。


 女は何故か、ひどい焦燥感に駆られた。このままでは駄目だ。このままでは手遅れになる。ここにいたら駄目なのに。あの子は駄目。ここにいたら――そう、そう、そうだ。助けないと。女は力の限り声を張り上げようとした。


 ――やめて!


 衝動のままに抗ったが、全く身動きは取れなかった。泥に沈む。引きずり込まれる。羽音がいっそう勢いまくし立つ。纒わり付く影を引き摺って、女は這った。あの子のもとへ行くために。


 あと少し、あと少しなのに。


 早くその小さな薄い背を抱きしめてやりたかった。力いっぱい抱きしめて、頭を撫でて、安心させてやりたかった。もう大丈夫、怖いものは無い。ただ、そう言いたかった。


 増え続ける影を背負い、口も塞がれ、女は片目で小さな影を探した。すぐ近くにあるはずの、その小さな体に必死で手を伸ばして――。

 

 どぷん。


 女の心臓は一瞬で凍り付いた。小さな人の影が闇の中に崩れ落ちる。女は残された視界でそれを見た。


 こんなはずではなかった。なぜ、どうして。


 体が影の中に引き摺り込まれていく。それを、女はどこか他人事に感じた。羽虫のようにうるさい声は無数の不協和音となっていつまでも喚き続けていた。終わらない絶望が心の中を支配していた。女の身体は、暗闇の奥底の、そのさらに下へ下へと引っ張られていく。


 声が。


「どうして」


 女の目の前から震えた声が聞こえ、一本の細い影がその場に形を成した。


「どうして助けてくれなかったの」


 ――ち、ちがうの、……!


 女は咄嗟に何かを叫んでいた。その影の名前を呼んでいたのかもしれなかった。


 目の前に現われた影は、腕に何かを抱いていた。影は腕の中に抱くそれを、女の前に掲げ、そして地面に落とした。びちゃんと音が鳴った。小さな丸い物体も闇の中に沈んだ。


 怖い。嫌なものだ。見てはいけないもの。女は身体の底から溢れ出す恐ろしさに喉を震わせた。


「どうして、私の子を助けてくれなかったの?」


 女の背後に別の影が現れる。


「こんな事になるなら、お前を生かすべきではなかった。 お前はあの時、死ぬべきだった」


 ――わた、わたしは。


 女は咄嗟に目を逸らした。


「あなたが殺した。あなたが見捨てた。あなたが裏切った」


 また別の影が言った。冷たい声が次々と頭の中に響く。


「死にたくなかった」

「まだ、私たち、生きたかった」

「どうして死んだの?」

「誰のせいよ」


 ――やめて、いや、やめて!


 女は固く目を閉じて首を振った。耳たぶに生ぬるい暖かさを感じる。いつの間にか自由になった手を目の前に映せば、赤黒い色に塗れていた。


 ――あっ、ああ、そんな……。


 女は嗚咽を漏らし、どろどろの手で顔を覆った。

 濃い鉄の香りが鼻に纏わり付き、暗然とした心に雲のような絶望が被さった。ずっと、目の前で、影が罵っていた。顔を上げる事ができないまま、女は背を丸めて縮こまることしかできなかった。


 声が聞こえる。


「――」


 聞き慣れた少年の声で名前を呼ばれる。


 女を抑えつけていた一切の影が静まり返った。其処にはただ平坦な闇だけが広がった。のろのろと顔を上げた女の目の前に、一人の少年が立っていた。


「約束は決して破ってはならないもの。そうでしょう?」


 髪も瞳も女とは正反対の色を持つ少年。その少年の姿だけは確りとした形があった。

 まだ幼さの抜けきらない丸みを帯びた顔にすっと通った鼻筋。濡羽色の髪と、黒曜石の瞳。左の耳元で揺れる翠の耳飾りがやけに目立って揺れていた。そうだ、と女は思い出した。あの耳飾りは、あの日、女が渡した――。


 ――あ、あ、だ、だれ?


「ああ、そっか」


 少年は優しく答えた。仕方ない、分かってます。そう言いたげに微笑みながら。


「忘れてしまったのですね」


 女は震える手で頭を抱えた。


 頭が焼ける。胸が締め付けられるように痛く、喉には針が刺さっているように苦しい。絶対に忘れてはならなかった。忘れることなどできない記憶だったはずなのに、何かがその顔の認識を頑なに拒んでいた。喉の奥から唸り声が上がった。目の前の存在の、名前すら思い出せない。


「俺たち、ずっと……、ずっと一緒だって言ったのに」


 嗚咽を漏らすだけで言葉を返さない女に、少年は痺れを切らしたのだろう。黒い癖のある髪がふわりと揺れ、光の消えた黒曜石の瞳が瞬き、こてりと首が傾いた。


 声が、聞こえる。


「どうしてあの時、一緒に死んでくれなかったのですか」


 彼の言葉を最後に、女の身体もまた闇の中へと沈んだ。





 ◇◆◇◆◇




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