18 混濁

 ◇◆◇◆◇



 家の中に、激しい叫び声が響き渡る。微睡まどろみの中にいたアズサは、身を引き裂くような声に叩き起こされた。


 絶叫は途切れる事なく続いた。

 少女は銀の髪を振り乱して寝台の上で暴れた。アズサは訳もわからないまま、その狂気に呆然と後ろへ下がった。絶叫に目覚めた大人たちも駆けつけると、アズサと同じように驚愕を浮かべ、扉の前で立ち止まった。


 少女は狂ったように頭を抱えて叫び続けた。

 布団は赤く染まり、強い力でかきむしった腕や身体にはみみず腫れのような赤い線がいくつも引かれている。長い銀の髪が顔を覆っていたが、その僅かな隙間から見えた瞳は大きく見開かれた。そしてその顔を覗き込むと、深い闇を切り取った色の瞳と目が合って、アズサは金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。


 誰もが言葉を失い、凍ったように立ちすくむ中、あの銀の獣だけが少女に近づいた。しかし、獣を見た少女は、その身体を強ばらせた。


「ひ、ひぃっ……!」


 暗い瞳に獣の姿が映った。少女は自身の頭をかき抱いて、寝台の端へと逃げるように身を寄せた。


「こ、こ、あぅっ、こ、こないで、いやあぁっ!」


 飾り板に身体を打ち付けた少女が身体を守るように縮こまった。まるで、恐ろしさに逃げ場を求める動物のように。


 そして震えた指先で布団を裂き、机の上の本や水差しを叩き落とした。

 酷く錯乱した状態だった。床には割れた陶器の破片が飛び散って、暴れたまま体勢を崩した少女は寝台から転がり落ちると、破片の上に身体の片側を打ち付けた。


「ああ、破片が!」

 と、いの一番に、マルサが悲鳴を上げて駆け寄った。

「あんた、手を貸して!」

「ここから退かそう」ディグレが答えた。「持ち上げるぞ。よし、いいか」

「僕は鞄を取ってきます、頼みましたよ!」


 ディグレとマルサは少女の身体に腕を回して、その破片から身体を持ち上げた。バルクスは弾けるように部屋を飛び出した。


「う、ううぅっ!」

「暴れないでおくれ、大丈夫だからね。ほら、大丈夫だから……」

「いや、ああぁぁぁ――!」


 少女の腕や足には鋭い破片が突き刺さった。その痛みも感じていないのか、なおも手足を振り払い、暴れ続けた。

 ディグレが素早く硝子の破片を退かした。散らばった物を端の方へと追いやらなければ、さらに酷いことになっていただろう。


「ええ、ええ。怖いものがあるのね。心配しないで、何もしない。大丈夫さね……」


 マルサは何度も耳元で声を掛け、その大きな身体で、少女を固く抱きしめた。

 その時、肩口からアズサの方を見た少女の視線とアズサの視線が再び合わさり――まるで幽霊でも見たかのように、白い顔に驚愕の色が差した。少女は小さく悲鳴を上げ、叫ぶことを止めた。そして今度は何かの言葉を呪文のように繰り返し始めた。


「――、―――――、―――」


 震えたままの視線は、ずっと、アズサの顔を凝視していた。


 平淡な声が、絶え間なくその口から零れる。ただ、不気味な空気だけが漂った。見開かれた目の暗闇に飲み込まれてしまいそうで、アズサは恐ろしくなり、半身を引く。それでも少女はアズサから視線を外さなかった。


 その時、慌ただしく戻ってきたバルクスが、鞄から薬瓶を一つ取り出した。彼は床に膝をつくと慣れた手つきでその蓋を開け、緑の瓶の口を少女の顔に近づけた。


「あ、う……ぁ」


 白い煙が瓶の口からゆらりと上へ昇る。煙を吸い込んだ少女は、糸の切れた人形のように力を失った。


「寝たのかい?」マルサが少女の顔を覗き込む。

「ターランの樹液の香です。原液には強烈な睡眠作用があります」


 バルクスはほっと息を吐き出して、肩を落とした。

 

「――いったい、一体何が起きた?」


 ディグレが顔を青白くさせたまま唇を震わせる。誰もがその問いに対する答えを求めていた。


「今、この子は、目を覚ましたのか?」

「……そうみたいですね」と、バルクスは目を伏せがちに言った。「錯乱状態のようだったので、あのまま暴れていたらもっと怪我をしていたかもしれません。恐らくまた目を覚ますでしょうから、今のうちに危ないものは片付けておきましょう」

「ああ……そうしよう……」


 ディグレは肩を落とし、そして散らばった物を片付け始めた。

 果たして、また目を覚ました時、どうなっているだろう。アズサは自分の背筋がひやりと凍るような感覚を覚えた。耳の奥にはあの悲痛な声が残っている。もう一度、あの命を裂く絶叫を聞かなければならないのだろうか。


「この子に、何があったのかね」


 マルサは身体の傷に触れないよう、少女の身体を優しく寝かし、そして目尻を拭う。布団には濡れた跡が残っている。紛れもなく、それは少女の目からこぼれ落ちた涙の跡だった。


 ふと、アズサは銀色の姿を探した。

 獣はただじっと壁側に身を寄せて、その一部始終を大人しく見つめている。


(あれは、拒絶だった……)


 アズサには分かった。獣にとって、少女が錯乱して目を覚ますなど思っても見ない事だったのだろう。垂れた尾と耳、悲しみを背負った横顔。――そして「あねさま」と、掠れた声がどこからともなく聞こえてくようだった。


 それが少女の悲鳴と共に、いやにアズサの頭に残っていた。



 ◇◆◇◆◇ 



 数分後、少女は再び目を覚ました。


 マルサが最初に気が付いたが、あっと息を呑まなければ、目を覚ましたことすら誰も気づかなかっただろう。


 少女は不自然なほど大人しかった。

 叫び続けていた先刻とは一転して、寝台に仰向けのまま身動きもせず、青く濁った瞳を見開き、古ぼけて染みの入った天井をじっと見上げ続けていた。


「どうしたの?」


 その様子は見るからにおかしかった。アズサがそっと声を掛けてみても、少女は何の反応も返さない。


 恐る恐るその顔を覗き込んで、アズサは言葉を失った。

 白皙はくせきの顔に、感情の欠片一つさえ見当たらなかった。


 そこにいるのは、ただ真上を向いて肢体を投げ出す、寝かされただけの人形だ。硝子玉のような瞳はぼやけたように、何も映してはいなかった。アズサの顔がその中に見えても、視線はまるで合わない。その瞳はアズサの方を見ているようで、全く見ていないようでもあった。


 生気のないその目を見ていると、アズサは言葉にできない不安を覚えた。焦点を失った空虚の眼差しは少しも動かなかった。


 バルクスが目の前で手のひらを振っても、一点を見つめた状態で、少女はただ上を向いている。白く薄い皮の下には何も無く、人格やら心やら人が人であるための全てが抜け落ち、まるで外側の殻だけが残ってしまったかのよう。寝ていた時の方が、叫んでいた時の方が人間味のある姿だったと、アズサは心の中でそう思った。

 

「どうしたの、ね」


 アズサはもう一度呼びかけた。


「……ぁ、あ……あ、あ」


 唇が僅かに震え、隙間から息が漏れる。少女の唇の間から、しばらくの間、ただ言葉ではない何かが溢れ出ていた。




 ◇◆◇◆◇

 



 山に積もった雪は溶け、全てが元通りになるように春の暖かな風が戻り始めた。それでも書庫の中には悲嘆な空気が満ちたまま、アズサが少女を、――『ユキ』を連れて来てから一週間が経とうとしていた。


 ユキはあるとき目を覚まして、また昏昏と眠り続けることを、日に何度も繰り返した。それが最初の三日ほどだった。


 その間、声を掛ければ反応を返すこともあったが、ほとんどが意味の無い言葉を繰り返すばかりで、意思の疎通を図ることは困難を極めた。身体は生命の働きを維持しているのに心が死んでしまっている。何故だか、誰もがそう思わずにはいられなかった。

 

 一番途方に暮れていたのはバルクスだった。村での回診を終えた後、彼は毎日書庫へ足を運んだ。


 精神的な病への治療は専門ではない彼にとって、毎日訪れる理由は、もっぱらその様子を見ることと、その日毎に増えていく傷の手当をすることだった。


 ユキは自分で何かをすることもままない状態であった。朝、目が覚めても起き上がろうともせず、食事も飲み込めない。爪で皮膚を傷つけ、ようやく口に入れた食事の熱で舌に火傷を負った。

  そして、痛いということを主張しないせいか、診て気が付かなければ、恐らくずっとそのままだったろう。バルクスは精神に作用している魔法の存在も疑っていた。


 あの出来事から、小さな獣は部屋の隅で、ただじっと様子を伺っている。


 昼も夜も、その場から離れることなく、それでいて寝台の周りに近づこうともしない。遠くから見ているだけの姿を見ていると、アズサは息が詰まるような思いだった。


 ただ一つ、救われたことに、あれからユキは獣を見ても泣き叫ぶようなことはしなかったし、アズサが獣の声を聞くことも無かった。あれは夢現ゆめうつつのアズサが聞いた、幻であったのかもしれない。


 四日目になるころにはユキの意識も明瞭になり始めたようで、眠りに落ちる時間は徐々に短くなっていった。


 しかし、起きている間は呆然と天井の木目を見て、しばらく経ってから忘れていたかのように涙を流す、その繰り返しだ。一体その目で何を見ているのかは誰も分からないまま、ただ、時間だけが過ぎていった。

 

 五日目、村の仕事もあるバルクスに変わり、看病をしていたマルサに促されて、アズサは初めて自分の名前を教えた。

 

 初めまして、と言った。君の名前は、とも尋ねた。

 思いつく全ての言葉をアズサは声に出した。しかし結局のところユキは何も言わず、アズサの顔さえまともに見ようともしない。ただ何か別のものから逃げるように、寝台の端で身体を丸めていた。

 

 だが、この日ようやく変化があった。

 ユキは、部屋の隅に座っていた獣の姿を、確りとその瞳に映した。そしてただ一言掠れた声で、アズサにも分かる言葉を呟いた。


「ウル」と。


 何かを指し示す記号を呼びかけるように。

 声を聞いた獣は、くう、と喉を鳴らした。銀の毛並みを震わせて立ち上がり、静かにユキに近づくと、伸ばされた細い指先に鼻をすり寄せたのだ。


『ウル』。それは【テーレの言葉テルダッシュ】において、『光』を表す音。


 名前。そうだとアズサは直感した。アズサも「ウル」と呼べば、獣はその金の瞳を真っ直ぐアズサに向けたのだ。その日から獣の名は、「ウル」となった。


 ――それから迎えた六日目の夜、また悪夢のような絶叫が響いた。

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