19 深々と


 ユキは悔悟かいごと怒りを滲ませた叫びを繰り返した。


 壁を見ては誰かに声を掛け、居もしない虫の大群を恐れ戦き、煩いと腕を振り払って泣き、縮こまって耳を塞ぐ。あやうく錯乱したまま耳を引き裂こうとした時になってようやく、アズサはその危うさを思い知った。


 彼女の琴線きんせんにいっとう触れたものは、蝋燭の炎と暗闇。相反する二つのものだった。


 彼女は暗い場所の中を酷く恐れた。けれども蝋燭に火を灯せば、火を見て泣き叫んでしまう。アズサたちはなるべく危険なものを傍に置かないことと、窓を開けて部屋に風を通す程度のことしかできず、夜は灯光石の光を一晩中灯し続けた。


 錯乱せず、ただぼうっとしている彼女は、身を起こしたままあらぬ方向を見つめた。

 

 そして一言、死にたい、と呟く。

 

 死にたい。その言葉はアズサの胸に深く刺さった。その願いを抱く理由をどうしても知りたかった。


 けれども当然その答えはない。死にたいと言われても、その願いを叶える事など、アズサ達にはできなかった。誰もその身に何が起きて、何故そう願うのか、理由も分からない。


 アズサは心の何処かに沸き上がる罪悪感にさいなまれた。あの【魔力原石テウラン】からユキを連れ出したのは、アズサなのだから。


 その呟きを聞くたびに、後ろめたい小さな波が心の中で荒立ち、言い様も無い気分になる。だが、ユキは、死にたいと言っても、死のうとはしない。


 幾らでもその機会はあった。一度だけ彼女はその手に食事用のナイフを手に取り、首を掻き切ろうとしたことさえあった。スッと手を引けば一瞬で終わったものを、運が良かったのか、悪かったのか、偶然その場に居合わせたディグレによって止められ失敗に終わった。


 その騒動の中、ユキは震える手で顔を覆い、泣きながら言った。


 ――死にたくない。


 アズサは、それまでも、それからも、ユキの慟哭どうこくを到底理解できなかった。


 けれどもあの小さな声を聞いた瞬間――アズサの胸の中で何かが弾けた。例えれば目の前に掛かる遣る背のない霧がすうっと晴れていくように、その感情だけはアズサにも理解できた。


 ――まだ、死ねない。


 絶叫と錯乱、そして朦朧もうろうとした意識を彷徨う中、その言葉を呟いたユキの表情はまるで人間味のあるような、ひどく憎悪に満ちたもので。


 あの時が最初で最後、彼女の本当の意思が、確かにそこにあったのだ。




 ◇◆◇◆◇




 遠くの山際を縁取る橙色の光が、山向こうの暗がりに呑み込まれてゆく。


 薄暗さと橙色が一つに混ざり合わさる時間、書庫へと続く山道を足取りに迷いなく進む二つの影が動いていた。先導する一人はバルクスであり、もう一人は深い紺色の外套を目元まで深くかぶり、顔を隠した人物だった。


「なるほど、このような場所に住んでいたのか。王都から近いな」


 外套を羽織るその人がしみじみと声を上げた。いささか高めで張りのある強い声には、少しばかり疲労が滲んでいる。


 辺りは濃い木々に囲まれ、天井には空も見えないほど青々とした木の葉が生い茂っていた。密に犇めく木立の間、差し込む薄光が細く地面に伸びており、この先に人が住むなど到底誰も思わないような場所だった。


「確かに、ここは気付かれないだろう。隠すためには丁度良いというわけか」


 前を歩くバルクスが振り返らずに答える。


「まあ、此処に決めたのはあの方ですから」

「森の奥なんて不便だろうに――おっ、と!」

「気をつけてください、アルティナさん」


 伸びた木の根に足をとられ、アルティナと呼ばれた女はよろけた。その弾みで頭を覆っていた外套の一部が後ろへと流れ、焦茶色の豊かな髪を無造作に後ろで括った、ほっそりとした女の顔が現れる。


 振り返ったバルクスが、女の身体を支えようと手を差し出した。けれども女はその手を見て茶色の切長な瞳を細める。


「カイレン」アルティナは前髪を掻き上げつつ、端正なその顔を歪めた。「その名で呼ぶな」

「はい、はい、はい。すみませんでした、バーランド先生」

「結構」


 何度も言わせるな、と付け足したアルティナは、すらりとした手足を悠々に動かして、道なき道の土草を踏み均していく。バルクスは差し出した己の手を残念そうに引っ込めた。


「私が来ることは言ったのか?」

「どちらに?」

「どちらにも」


 バルクスは少し考える素振りで首を捻った。


「きちんと報告しましたとも。アズサには知り合いの【魔法医ラファネイ】を連れてくるとだけ伝えています」

「ふうん。ゼンさんは帰ってきてるのか?」


 バルクスは首を振った。


「いいえ、まったく」

「そうか」アルティナは分かっていたと言いたげに肩をすくめた。「まぁ……そうだろうな。あの人も忙しいだろうし……」


 三本杉が並ぶ分かれ道までくると、二人は一度立ち止まった。山道に慣れていないアルティナが、息を整えるように小さく肩を落す。


「君も大変だなぁ。こんな役回りを任せられて」

「そんなことはありません。大陸中飛び回ってる貴女に比べたら楽なもんです」


 バルクスは生い茂った木の枝を、手持無沙汰に折りながら聞き返した。


「今はどちらへ?」

「ああ、影の国だ」


 バルクスは目を丸くしてアルティナを見る。

 

「ええっ、あの国ですか。治安が悪いと聞きましたけど、大丈夫なんです?」

「以前よりは。周辺国からの介入も多いからな……まあ、私は医療支援にね」


 バルクスは横に並んだ女の少し高めにある顔を仰いだ。平均的な男性の背の高さであるバルクスが見上げるほど、アルティナは杉の木のようにひょろりとしていた。


「戦争の爪痕に最後まで苦しむのは、いつだって、当事者の下にいる無辜むこの民さ。それに今回はどちらが勝った負けた、って話じゃないからな。もう大変だよ」

 

 普段なら外に漏らさないような不満を含みながら、アルティナは息を吐き出す。その姿が珍しくて、相当苦労をしているのだな、とバルクスは感じ取った。

 

「その件、評議会は……」

「大掃除が終わって手一杯だ」


 アルティナが呆れたように肩を竦めると、しばらく逡巡してから、バルクスも苦笑いを浮かべた。


「ああ――ああ、なるほど、なるほど、大掃除。大掃除とは言い得て妙ですね。あれから十二年か……」

「あの時の先生にしてはかなり強引なやり方だった。だが、腐ったヤツらを上から全部排除したんだ。掃除だよ」

「大先生はお元気何ですか?」

「すこぶるね! とはいえ最近は顔を合わせてないよ。人伝に話を聞く限りだと、かなり好き勝手やっているらしい」


 それは良かった、とバルクスが返事をする前に、アルティナが「おぉ」と感嘆の声を大きく上げて立ち止まった。そびえ立つ巨石――クマ石が二人を出迎えた。


「大きな石だな!」と、クマ石を見上げて叫ぶ。「珍しい! もしやこれは守石か!?」

「あー、ええと……」バルクスは眉尻を下げた。「守石?」

「ええっ? 守石を知ら――」アルティナは怪訝そうに振り返り、困ったように笑うバルクスを見て、ぱっと言葉を切る。「ないか。あー、いや、すまないな。これは、魔法が付与されている石だ」

「魔法? つまり、法式が組み込まれていると?」

「ああ、と言っても、これは人間が紡いだ物ではなく、自然に出来た産物だ」


 アルティナはその指先を伸ばし、そっとクマ石に触れた。


「長い年月をかけて存在し続けるものは、自然界に溢れる【大いなるものテーレ】の影響を受け、ごく稀だが不思議な力を持つことがある。大して強力な力はない。法式と言うよりも、せいぜい気休めのまじないのようなものだがな」

「自然に法式が生まれる? 呪い?」


 なんら意味も成さない困惑した声で繰り返すバルクスに、アルティナは軽快な笑い声を響かせた。


「あははっ! ま、これは一つこの世界の大きな謎なんだ。滅多にあるものじゃないし、一生のうちに見られる事も少ない。――どうやら保護魔法の類いが入っているな。悪意や害意を持つ物を踏み込ませないような魔法だ。誰が置いたんだ?」

「さあ。ずっと前からありましたし、それか……」

「ゼンさんかな」


 先を取ったアルティナの言葉に、バルクスも直ぐ頷いた。


「元々この石があった場所を選んだのかは分からんが、あっはっは、なるほど、過保護だね」

「過保護だったら、もっと此処へ帰ってきてもいいと思いますけど」

「辛辣だ」

「仕事だなんだと言って、アズサと顔を合わせ辛いのかどうかは知りませんが」


 バルクスはゼンの事情を僅かばかり把握しているが、ゼンの行動には思うところがある。行きましょうと言い、バルクスは先を急いだ。これ以上、ゼンの話題に触れれば、言わなくても良いことですら、言ってしまいそうだった。


 山際に沈む光の残光で、空はまだ明るく見える。それでも森の中には影が落ち始めていた。


 森の奥深くへ入れば、そこには光は当たらなくなる。暗く陰る時は一瞬だ。今は一人ではなく、共に居るのは魔法師であるが、バルクスは早く森を抜けてしまいたかった。

 ようやく森の出口が見え始めたところで、アルティナはバルクスの顔を伺うと、珍しく声を潜めるように尋ねた。


「その、どういう子なんだ? アズサは」

「ああ」バルクスは斜め上を見つめた後、言葉を選ぶように答えた。「優しい子ですよ。それにとても頭が良い。もう少し違う環境にいれば、もっと才能を伸ばせると僕は思います」

「ほう……そうか。以前は天才最年少宮廷医師と持てはやされていた君が言うのなら、それは楽しみだなあ」

「それはいつの話ですか。もうかなり過去の事ですよ」


 揶揄やゆする口調のアルティナをムッと睨みつけて、バルクスは嫌な事を思い出したように曖昧に口角を上げた。


「『天音の心』さえ持たない奴が魔法師に弟子入りしたい、なんて言って先生の所に押しかけてさ。あんな事は、後にも先にも聞いたことなかったぞ」

「……あの時は思い切りがよかったのです。欲もあったし、若かった」

「若かった、か。ああ、確かに若かった。いや、私は今でも若いけどな」

「バーランド先生、何言ってるんです。僕より歳上じゃないですか」


 アルティナと話をしてると、かつての懐かしさが滲むように込み上げてきて、バルクスは目を細めた。

 以前の調子ならば顔の皺が増えいるぞ――なんてことを隣の女に指摘していたかもしれないが、バルクスはそっと胸の中に留める事にした。


 水の国の王宮で職に就いていたのは、もう十数年も昔のことで、バルクスがアルティナと初めて出会ったのもその時だ。

 バルクスにとってあの時代は、忘れたくても忘れられないものである。当時の出来事を今でもよく覚えていた。自身のことも、仲間のことも、王国のことも、王宮のことも、全て――。


「魔法は?」


 と、聞かれて、バルクスは浸っていた懐かしさから抜け出し、ゆっくりと首を振った。誰のことを指して聞いているのかは、直ぐにわかった。


「『天音の心』はあるけれど、使えない。まぁ俗に言う、【語れぬ者カエナン】ということに」

「【語れぬ者カエナン】か……そうか……」


 言葉を続けそうな余韻を残し、それからしばらくアルティナは口を閉ざした。バルクスは続く言葉を待ったが、隣からの声はなかった。


 物思いにふける横顔を見ながら、バルクスは口から出てこなかった言葉を想像する。


 ――ああ、あの二人の子供なのに。そう言いたげな表情。引き結ばれた口端からそっと目を逸らして、バルクスは前を見据えた。

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