56 のぞみ
魔法は法式によって生み出される。法式とは、魔法師自身の体内を巡る【
緻密な計算と研鑽を重ねた言葉の組み合わせは【
アズサはセノルから渡された本を、入門書から一つずつ捲った。
かすかに漂うインクの独特な匂いと厚い紙の手触り。久しぶりの、書庫の感覚。見覚えのある本もあった。アズサは魔法の理論を読み、その法式陣をひたすら別の紙に書き写した。
法式陣の模様には決められた概念がある。
基本の形として、一番外側の枠組みとなる円を【
そして、法式陣の一番重要なものは、中心を埋める小さな点だ。この黒い点、【
これらの線を大枠として、線と線の間を埋めるように書き連ねられた模様や【テーレの
アズサは、【
次にやるべきことは、その法式陣をアズサの魔力量に合せて最適化すること。
光を灯すための意味を持つ模様は残して、まず、アズサは【
この線は【魔力】を法式陣に行き渡らせ、法式に必要な量を定める役割も果たしている。その線を消したし書き加えたりした法式陣を、何度も、何種類も加工紙に書いては、硝子玉の下に敷いて術式を唱えた。
けれども、壁にぶつかることは当然だった。
「うーん……なんでだろう? 今度はうまくいくと思ったのに」
法式陣を書いた紙を持ち上げて、アズサは暖かい光を放っている卓上灯に透かして見た。
何がいけないのだろうか。不発に終わった紙を、同じように不発した方式陣の上に重ねる。
「いったい何が駄目なんだ?」
窓の外に目を向ければ、気づかないうちに暗闇が広がっていた。
それでも諦めきれなかったアズサは、もう一枚だけでも描こうと、加工紙に手を伸ばした。しかし、伸ばした指先は、かつんと机に当たった。見れば加工紙がない。全て使い切ってしまったのだ。
――そういえば。
その時、ふと、アズサはある本の存在を思い出した。
アズサはクローゼットを開け、一つの鞄を引っ張り出した。この場所へ来る時に唯一持っていたもの。バーリオ家に着いてすぐに小屋の床下から取り出して、そのままここまで一緒に来た鞄。それはまだ薄汚れた状態で、クローゼットに仕舞っていた。
アズサには、心のどこかで、鞄を開きたくない気持ちがあった。それでもいつかは開かなければならない気がして、重たい気持ちのまま、アズサは鞄のかぶせを開いた。
そしてすぐに重厚感のある本の背表紙が目に入った。ゼンから貰った魔導書だ。
「魔法仕掛けの魔法の本……。何か助けてくれないかな。何がダメなのか、分かればいいのに」
表紙の文字を指先でなぞる。中身はやはり白いままだった。
「イタッ!」
白いページの左端に指をかけた時、チリ、と指先に痛みが走った。
右の親指を見ると、その腹にぷっくりと薄い赤い線が延びていた。
本の厚紙でざっくりと皮膚を裂いたのか、切りどころが悪かったのか、線の間から赤い雫が垂れてきてしまう。慌てたアズサは指先を口に含んで止血をして、もう片方の手でページを捲ろうとした。
「あっ、どうしよう……!」
やってしまった。紙の左下に、赤い線の後が付いてしまっていている。アズサはその線を指で擦って消そうとした。
するとどうだろうか。
赤い線が、まるで紙の中に吸い込まれていくように、跡形もなく消えていったのだ。
「うぇっ!? 消え、た?」
驚いて声を上げると、本は、パタリとひとりでにその表紙を閉ざす。題名の文字が仄かに光を放ち、【アラ・ルルブ・アラ・ロテア】が、金色に輝きながら表紙から持ち上がった。文字は次の何かを待つように、空中に漂っている。
アズサは急いで隣の部屋の扉を叩いた。
「ユキ! ユキ、まだ起きてる? ねえ、見て欲しいものがあるんだ!」
ユキは眠たそうに目を擦って出てきた。ウルは彼自身ののベッドの上で大の字に寝ている。
「どうしたの……?」
「あ、ご、ごめんね」アズサは自分が興奮していたことに気づいて声を潜めた。「もう寝るところだった?」
「ううん」とユキは首を横に振った。「何かあった?」
「ユキに見てほしいものがあって」
アズサは欠伸を噛みしめたユキを引っ張って、自分の部屋に通した。まだ金の文字を浮かべる本の前に連れて行くと、ユキは金色に浮かんだ文字を見て、眠気を吹っ飛ばした。
「あ……これはゼンさんからの?」
「そう! いきなり文字が浮かび上がったんだ。この文字に何かすれば良いのかと思って」
そう言われて、ユキは恐る恐る【ア】の文字を指でつついた。押し出されるように、【ア】が軽く弾んだ。
「この文字、動かせるのかも」
「動かせる?」アズサも同じように文字を触った。文字を押したまま引いて隣に動かすと、【ア】の文字は【ラ】と入れ替わった。「もしかして、文字を組み替えるのが鍵になってたり」
「でも、どんな言葉にすればいいのかな。――あれ、動かせない」
「えっ!?」
ユキもその文字に触れていたが、触れることはできても、動かして入れ替えることはできなかった。
「アズサにしか動かせないみたい」ユキは残念そうに言った。
「じゃあ、題名は何だと思う? 〈白銀〉に関係することとかかな」
〈白銀〉は謎だらけの人物。アズサが知ることは、本から得た知識だけで、その称号と、数々の偉業、そして所業だけしかない。アズサだけではないだろう。世界中の誰もが、〈白銀〉がどのような人物で、どのような人生を歩んだのか、誰も知らない。
「うーん」ユキは引き結んだ薄桃色の唇の奥で悩ましい声を上げた。「魔法仕掛けっていうことは、きっと魔法を掛けたらいいと思うの」
「魔法……」
二人はしばらく浮かんだ文字と表紙を眺めたが、何も思いつかなかった。これ以上考えていても何も出てこないと感じたアズサは、無造作に置いてあった失敗作の法式陣を一つ手に取った。
「はあ。法式陣もうまくいかないし」
ため息をついて、ひらひらと手持ち無沙汰に紙を動かす。気持ちだけが急いでいく。
すると、「あっ」と何かに気づいたようにユキが声を上げた。その視線は二人の間にある本の表紙と、アズサの持つ薄い紙を往復した。
「ねえ、これ、表紙に法式陣が書いてあるみたい」
ユキは表紙を飾る金色の線を指でなぞった。陣は見慣れた円の形をしておらず、本の表紙に沿った四角い形をしている。アズサは半信半疑にユキの発見に耳を傾けた。
「法式陣?」
「ここは【
「まさか! ほんとうに?」
ユキの指さした箇所に目を凝らせば、線の内側に規則正しい方法で描かれた模様が一列に刻まれている。さらによく見ると、線であると思っていたものは、爪の先よりも、小さな虫よりも細かい、四角く縁取られた模様だった。
「ただの模様なのかと……。たしかに【
期待が弾けそうだった。糸口が見つかった嬉しいさに口角が緩む。ユキはすごい。アズサは心からそう思って、「やっぱりすごいよ、ユキ! なんで分かったの?」と、隣に立つユキを見るために顔をあげた。
模様にも見える細かな文字をアズサに指し示したまま、ユキは動かなかった。じっと模様を見つめる瞳は、これから崩れそうな空よりもどよりと濁っている。
唇が僅かに震えて、呟きにも満たないような声で、ユキは何かを囁いていた。息を途切ることなく続くそれは、アズサの知る言葉ではなかった。
「ユキ?」
名前を呼び掛けても反応がない。意識がないのではなく、何処か遠くへ行ってしまっている。
アズサの背筋を冷気が撫でたような気がした。既視感のある瞳に、どうしようもない不安を憶える。アズサはユキの肩を掴んで、もう一度声を張り上げた。
「ユキ!!」
「——……ラテア、——はぁっ、う、なに、どうしたの……?」
ユキはゆっくりと瞬きをして、大きく息を吸った。戻ってきた。アズサは強張った肩を下げた。
「い、いや。急に固まって、変な事を言うから」
「変なこと? わたし、何かおかしな事してたの?」
「知らない言葉を喋ってたんだよ。覚えてないの?」
「しらない……お、覚えてないよ。……私、ねぼけてたのかな」
「そうかも」
寝ぼけていた様には思えなかったが、顔を青くしたユキに、アズサは頷き返すことしかできなかった。
「ラテア、っていう詞を言っていたよ」
「ラテア……——ラテア、【
「もしかして【
「うん」ユキは文字を指差した。「これをこっちに動かしてみて」と。言われた通り、アズサは最後から数えて三つ目にある【ロ】の文字と、その前の【ラ】の位置を入れ変えた。
「わっ、また光った!?」
後ろの三文字が強く光ると、浮遊力を失ったようにするりと落ちて、文字は表紙の中へと刻み込まれた。他の文字はまだ浮いたままだ。
二人で顔を見合わせる。正しい組み合わせを見つければ、答えがわかる。そうと決まれば、二人は残った七文字を手当たり次第に組み替えた。
そしてようやく、最後の文字が表紙に刻まれた。
お久しぶりです。半年以上ぶりの更新になりました……。
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