28 言葉の力


 突然席を立ったアルティナにも、曖昧に口を閉ざしたバルクスにも、それ以上を聞く事もできないまま、ユキが目を覚ましてから二日が過ぎた。しばらく寝台の住人だったユキも、二人の治療の甲斐あってか立って歩き回れるほどに回復した。

 

 外套に付着した血の跡。それが一体誰のものであるのかは終ぞ判然としないままではあるが、もともとユキには身体的な怪我はなかった。


 だが、寝たきりだったことから体力が落ちてしまったようで、ユキは部屋から玄関までの距離を歩くだけで、最初はよろけてしまっていた。体力は徐々につけていけばいい、とアルティナは言ったが、部屋の中を何度も歩き回るうちにユキの足もその役割を思い出したようで、ユキは徐々に息切れもせずに家の中を歩けるようになっていった。

 

 ここまで回復したのも全てアルティナのおかげでもあったが、アルティナ自身も、ユキの回復力には驚くばかりだった。

 

 三日目の火交ひかわしの刻頃、夜のとばりが下りた外から戻って来たディグレの手には、魔具の伝達鳥が止まっていた。それはアルティナへと宛てられたものであった。

 

 手紙には細やかな模様の施された紋章の封蝋がキッチリと押されていた。二本の木の枝と左に大きな羽を持つ鳥、右に二本の角のある馬。知恵を象徴する青い紋章。


 魔法に関する本に大凡と言ってもいいほど記されているその紋章を、アズサも見たことがある。手紙の送り主はアルティナの所属する『エルヴァ魔法学校』だ。


 ただ、アルティナ宛の手紙がこの場に届いたことが、アズサは不思議でならなかった。

 

 手紙を開いたアルティナは、真剣な目つきで手紙を睨んだ。読み進めるたび、その眉根にはみるみるうちに皺が寄っていった。そして全てを読み終え、手紙を封筒に戻したアルティナは、「仕事に戻る」と言って、慌ただしく支度を始めた。

 

「少し用事ができた。もう少しここにいる予定だったが……」

「急用ですか? 今から? 外はもう真っ暗ですよ!」

 

 椅子に座っていたマルサが、慌ただしく立ち上がった。支度といえど、アルティナは数少ない荷物を魔法で仕舞い、すぐさま身軽な様子で玄関口に立った。

 

「緊急の呼び出しがあったんです。だから、今からもう行かないと。マルサさん、ディグレさん、色々とありがとうございました」

「いえ、いえ! それはこちらの言葉ですよ、先生。でも、こんな急に出ていかれるなんて」

「そう言うな、仕事なら仕方ないだろう。先生も忙しいんだ」

「でも……」

「私ももう少しここに居たかったですよ。ここは本当に居心地がよくて。でも、まだ心配なこともありますから、いずれまた様子を見に来ます」

 

 名残惜しげに眉尻を落としたアルティナは、小さく微笑むとユキに顔を向けた。

 

「ユキ、渡した首飾りは絶対に持っているんだよ」

 

 ユキは首にかけていたお守りを握りしめて、しっかりと頷いた。

 

「ありがとうございます、バーランド先生」

「いいんだ。身体に異常はないかい? やっぱり顔色が少し悪いな……。カイレンに薬を出してもらおう」

「身体は大丈夫です。動くと少し息苦しいだけで。……本当に、ありがとうございました」


 ユキはアルティナを見上げて、頭を下げた。アルティナは恥ずかしそうに頬をかく。

 

「お礼を言うならね、アズサにも言ってくれ。君が今ここにいるのはアズサのおかげでもあるんだ。アズサ、ほら、なんだっけ。君がユキに言った熱烈な言葉だよ。えっと――そう、『君が生きている理由は……』」

「ばっ、な、バーランド先生!」

 

 紅葉よりもぱっと顔を赤くしたアズサが、大声を上げてアルティナの言葉を遮る。一気に恥ずかしくなって、アズサは慌てた。忘れようとしていたことを掘り返されて、今思い出しても、身体がかぁっと熱くなる。

 

「なんて言ったの、アズサ」ユキがこてんと首を倒した。

「なっ、何でもないよ」

「聞きたいな、私」

「うっ……いや。あれは、その場の雰囲気で言ったもの! なんて言ったか、もう僕は覚えてないよ」

「私は覚えているぞ」にやにやと人の悪い笑みを浮かべてアルティナが言う。

「僕も覚えているよ」と、便乗するようにバルクスも言った。

「私たちも覚えているよ、ねえ、あんた」マルサとディグレはどこか優しげな表情だ。「アズサがあんなにまっすぐ言葉を言えるなんて、一体誰に似たのかしら」

「も、もうそれ以上何も言わないで!」

 

 アズサはいよいよ耐えられずに叫んだ。その場から逃げ出してしまいたかったが、走って逃げた後に誰かがユキに言いでもしたら後々合わせる顔がない。言った時は恥ずかしく無かったのだ。けれども後々からむず痒い気持ちが湧き上がって、思い出しただけで、アズサは身体が熱くなったように感じていた。

 

 アズサが顔を上げた。ただ一人、何も覚えていないユキと目が合う。

 アズサは余計に恥ずかしくなって顔を伏せた。その様子を見たアルティナは、耳まで顔を赤くしたアズサの肩に手を置くと、表情を和らげて軽快な笑い声を上げた。

 

「はははっ。アズサ、安心しろ。あれは君の言葉なんだから、私たちからは言わないよ。でも、あの時の言葉があったから、力になったんだ」

「ちから?」

 

 赤身の抜けきらない顔を、アズサはアルティナに向ける。アルティナは、今までに見たこともないほど優しい目でアズサを見ていた。

 

「覚えておくといい。魔法は、言葉。言葉は魔法だ。私たち魔法師は、誰よりも言葉の力を重んじなくてはならない。言葉は魔法によって彩られ、魔法は言葉によって力を発揮する。言葉は全の源にあるものだ」

 

 アズサの肩から、アルティナの手の温もりが離れていく。その目を見ていると、柔らかく暖かな感情にアズサは包まれた心地がした。

 

「あの時の君の言葉は、君だけの魔法だった」

 

 すっと胸の奥に入ってきたその言葉に、アズサは照れくさそうにはにかんだ。

 アルティナはアズサにとって、ゼン以外では初めて出会う魔法師だ。アズサはアルティナと出会えて良かったと心から感じた。アルティナの手はいつでも暖かかった。マルサやディグレ、バルクスのように。

 

「じゃあ、私はこれで――」

「あの、先生。先生は、この前」

 

 ずっと胸の内で燻ぶっていたことを、アズサは思い切って口に出した。

 君だけの魔法だ、と言われたその時。少しばかり、期待していたのかもしれない。アズサの脳裏に、あの時のアルティナの様子が思い浮かんだ。

 

「どうして僕は『違う』って、言ったんですか?」

 

 濁りのない翡翠色の眼差しが夜空の星のようにきらめいた。

 夫妻は顔を見合わせ、バルクスはちらりとアルティナを見やる。アルティナは純粋な眼差しにたじろぎぐ。普段からはっきりものを言うアルティナは、その一瞬、珍しく言葉を詰まらせた。

 

「それは……、そう感じたんだ。君は、他の人と何か違う雰囲気があると思ってね」

 

 アルティナが困ったように笑う。まるで、育ての親であるゼンに、実の父と母のことを聞いた時と同じ匂いがしてくるようで、アズサは頭の中にあった言葉を静かに飲み込んだ。

 

「途中まで送っていきますよ、バーランド先生」バルクスがそっと玄関の扉を開け、灯光石のランタンを掲げた。

「……ああ。よろしく頼む、カイレン」

 

 それでも何かを言わんとして、アルティナは口を僅かに開いたが、そのまま玄関の外へ数歩出ると、一つに縛った髪を靡かせて振り返った。

 

「慌ただしくして、すまなかった。それではまた、お元気で。【テーレの御加護があらんことをテーレ・ディ・アミュリ】」

 

 アルティナは魔法師の挨拶を述べると、杖を持たない右手を胸あたりに当て、軽く頭を下げた。そしてバルクスと共に暗い細道へと足を向け歩き出す。

 

「【テーレの導きと共にテーレ・ウォーモス・アラ】」

 

 ユキが、二人の背中にむかって、ぽとりと雫を落とすように呟いた。

 耳に馴染まない流暢な台詞を、アズサは聞き取ることができなかった。それがアルティナの口上に対する魔法師としての反射的な返答だったと知るのは、もう少し後の話だ。


 雪解けから春の始まりを告げる風が柔らかく吹く。アズサとユキは、バルクスが手にした灯光石の明かりが見えなくなるまで、その場所に立っていた。



 

 

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