10 抱擁



 ◇◆◇◆◇


 

 ぎしり、ぎしり。ゆっくりとした調子で木が沈む。その音が一度止み、また今度はガサガサ何かに触れる音がどこからともなく聞こえてきた。ぎしぎし、がさがさ。二つの音が繰り返し聞こえてきたところでアズサの意識は微睡みの底から引っ張られた。


 眠たい視線で部屋を見渡すと、大きく逞しい背中が本棚の前に散らばる本を拾い上げている。そしてアズサは、うっすらと開けた目の前に、柔らかな白い毛玉が丸まっていてることに気がつき、勢いよく長椅子を蹴って飛び起きた。


 アズサの全身から、さーっと血の気が引いた。いつの間にか寝てしまっていたのだ。窓の外には夕焼けが広がり、暖かな橙色の光が差込んでいる。


「夕焼け? もう夜――、あっ!」


 寝てしまってから、どれくらい時間が経ったのだろう。アズサは飛び上がると自分の部屋に走り、寝台に駆け寄って、寝ている少女の口元に手をかざした。


「よ、よかった。ちゃんと……息してる」


 胸を撫で下ろすと、背後でぎしりと床が音を鳴った。


「ああ、ああ! やっと起きたのかい。良かった、良かった!」


 張りのある太い声と、書庫の古い木目の板が軋むほどの足音にアズサは振り返った。深緑の洋服に亜麻色の前掛けをして、幅のたっぷりとした体。その腕に何冊もの本を抱えた女性が部屋の前に立っている。


「マルサおばさん!」アズサは肩の力を抜いて、顔に喜色を浮かべた。「来てくれてありがとう、こんなに早く来てくれると思ってなかった――わっ!」


 マルサは近くの机の上に本を降ろすと、アズサを力強く抱きしめた。


「お、おばさん?」


 急な抱擁にアズサは目を回した。ふわりと木の皮の独特な匂いに安心する心地がした。けれども体格のいいマルサの抱擁は骨が砕けそうで、アズサの体は太い腕の中で半分潰れている。


「おばさん……く、くるしい……」

「あっ、ああ! ごめんよアズサ」

「ど、どうしたの? おばさん――イタッ!」


 何とか太い腕の中からもがき出ると、マルサは腕の力を緩めた。そして体を離したと思いきや、べし、と指でアズサの額を弾いた。アズサは突然の痛みに悶えた。

 

「心配したんだよ、アズサ!」

 

 マルサは広い肩をもっと開いて腰に手を当てた。それはマルサが叱るときにする仕草の一つで、目には憂わし気な色が差している。アズサはばつが悪くなって視線を逸らした。

 

「様子でも見に行こうと思っていたら、どこからともなく言伝鳥ことづてどりがやってくるし、どうしたもこうしたってそりゃもう!」

 

 マルサは腰から手を離して腕を組んだ。これまでに言伝鳥を使った時は、たいていアズサが熱を出して起き上がれない時や、何日もご飯を食べず本に夢中になって倒れてしまったりなど、並々ならぬ時にしか使ったことがなかった。マルサは、ただ事ではないと焦ったのだろう。


「それに、ここに来た時は本当に驚いた! そもそも女の子の服が欲しいっていうところから可笑しかったが、見たこともない獣はいるわ、本当に女の子がいるだなんてね!」


「……た、助けたっていうか」アズサは赤くなったおでこを擦った。


「あの吹雪に出歩いてたのかい?」


「え、あ……う」


 咎めるようにに、アズサは言葉を詰まらせる。


「まったく無茶をして! 命知らずはゼンの坊や一人で十分さね!」


 肯定とも見て取れる態度に、マルサはぴしゃりと言い放つ。


「あの子には似てないと思ったけど、外に出たなんて――どうして何にも言わなかったんだい? 手が凍傷になりかけていたじゃないか! この森をよく知るおじさんだってそんなことはしないよ!」


 煮えたつ湯の泡のように息まくマルサの言葉を、アズサはすかさず遮った。


「おじさんは? 僕、おじさんに聞きたいことがあるんだ」

「……森の様子を見に行ったよ。もうすぐ帰ると思うけど、聞きたいことって何だい? 手紙は私しかいないときに届いたからね、まだ知らない――……」

「おばさん?」


 マルサは唐突に言葉を切って、口を開けて閉じ、アズサと少女の顔に視線を行ったり来たりさせてから、ようやく声を絞り出した。


「――助けた?」マルサは小声で言った。「助けたって、その子を?」

「うん」アズサ少女の顔をちらりと見る。「あそこにいる獣も」


 暖炉の方を指し示すと、丸くなって寝ていたはずの獣が顔を動かして、大きな口を開けて欠伸をした。その目はとろりと溶けたように眠たそうで、うつら状態だ。マルサの大きな声に起こされたのだろう。


「助けた……」

「森でね」アズサは言った。「あの子は怪我をしてて、ここにある薬品だけじゃあたりなそうだったから、村まで行ってきたんだ。女の子は……森の中の洞窟で見つけた」

「森の中の洞窟? 一体、何の話だい」

「あの子が、あの獣がこの前突然現われて、それで、怪我をしててさ」


 何があったのかを話そうと思っていたアズサは、一旦、その視線を獣に向けた。そしてまたマルサに戻したところで、はっと言葉に詰まった。マルサの瞳には心配の色が映っている。


「その……し、心配かけて、ごめんなさい」


 アズサが肩を落として言うと、マルサはゆっくりと大きく息を吐き出した。


「心配をかけたと思うのなら、無理はしないことだ。おまえさんは、何でもひとりでできる子だ。それは確かだけどね」

「……うん」


 アズサは、そっと視線を床に落とした。マルサは小さく笑うと、大きな手でアズサの頭を撫でた。


「おまえさんは優しい子だ。でも子供一人ができることなんて限られる。狩人は自分の力に見合った獲物しか狩らないし、おじさんだって、斧が入ると分からなければ斧は振らないもんだよ。今回は運が良かった」

 

 見上げたマルサの顔には優しげに皺が寄っていた。水の国の人に多いその茶色の瞳にも、怒りの色はもう無かった。


 アズサは、自分がかなり無謀なことをしていた事に気づかされて、どこか恥ずかしさを感じた。

 結果としては何もなかっただけだったが、もしも雪に滑って谷に落ちていたら、もしこの吹雪に飢えていた獣と遭遇していたら、どうなっていたかは分からない。きっとアズサは今頃、山の何処かで人知れず死んでいたかもしれない。


「う……うん。その……、ごめんなさい」

「もう謝らなくていい。助けたいと思ったんだろう」マルサはまたアズサの頭を数回撫でて、寝ている少女を見遣る。

「うん。そうしなきゃって思って」

「昔からおまえさんは何かと獣を助けて連れてきたが、まさか、人を連れてくるとは。まあ、いつかは誰かを連れてくるかと思っていたけどねえ」


 仕方なく笑うマルサにつられて、アズサも顔に苦笑いを浮かべた。確かにこれまでにも、アズサは森で怪我をした動物たちを助けたこともある。だが、マルサにそう思われていたとは思ってもみないことだった。


 マルサはアズサの肩を軽く叩くと、少女の上に掛かっていた布団をそっと直した。布団の下の服は、色はだいぶ褪せてはいるものの、綺麗な服に取り替えられている。アズサはマルサの顔を見上げた。


「服! 変えてくれたんだね」

「ああ。とりあえず何か事情があると思ってね。おまえさんが寝ている間にその子の体を拭って、服を取り換えてあげたよ」

「ありがとう、おばさん」

「いい、いい。だがまあ、女ものの服はあるが、生憎と私の大昔の服しかなかったからね。そりゃあ大きすぎるから、ゼンの子供服を着せといたよ。だが、この子は一体どうしたんだい? なんだかワケありみたいだ。あの狼みたいない奴もさ」

「そうなんだ。話すと長くなるんだけど……」

 

 そう言いかけた時、アズサの腹のあたりから情けない音が鳴った。何も食べていなかったことを思い出して、アズサははっと腹に手を当てた。音は予想以上に大きくて、熱が顔に集まってくる。


「お腹がすいただろう! やっぱり、思ったとおりだね」


 あっはっは、と豪胆な笑い声が部屋に響いた。ふくよかな体に合わせて、ゆったりとした服の裾が揺れる。


「きっとそうだと思って、おまえさんが寝てる間に食事を作っておいたんだ。寝ている間も腹が鳴っていたからね」


 マルサは明るさを振りまくように笑う。笑い声は大きく張りがあって、まるで男の人のようだったが、それが彼女の豪胆な人柄をよく表していた。


「さあ、暖かいスープを食べて、話を聞かせておくれ」

 

 アズサはその笑顔に、ほっと肩の力を抜いた。

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