30 回生




 柵で囲われたゆるやかな小道を下り巨木の根元まで来ると、ユキはおもむろに空を見上げた。大きな木の枝が覆い被さるように空を覆い、新緑の葉が波打っていた。

 

「結界の話は聞いた?」

「少しだけ」

「そっか。家の中に『署名』の紙があるんだけど、そこに名前を書いた人なら入れるんだ。書けるのはゼンさんか僕だけ、かな。あ、ゼンさんっていうのはね、僕の育ての親さ」

「育ての親? 本当の親ではないの?」

「僕を引き取って育ててくれた人だよ。今はめったに帰ってこないし、どこで何をしているのかも知らないけどね」

 

 あっけらかんと言いながら、アズサは何かを飛び越えるような仕草で先に進んでいった。ほら、と促され、ユキもまたその先へと足を進める。

 

 そして巨木の下を潜った瞬間、目の前の景色が歪み、浪波と生い茂る樹木が現われた。結界を抜ける不思議な感覚に、ユキは「わっ」と大きな声を上げた。

 

「名前はもう書いてあるから、ユキも自由に入れるよ。あとは……ああ、名前が書いてある人と一緒に来れば入れるんだ。でも、全くアテもなくて、名前も書かれていないって人は、あそこにある紐を引けばいい」

 

 アズサは巨木の枝に結ばれて垂れ下がっている茶色の紐を指さした。

 

「そうすると、鐘が三回鳴る。呼び鈴みたいな感じかな」

「中にいると聞こえるの?」

「うん。でも、今まで一度もこの鐘が鳴ったことないよ。僕が、こう、鳴らすことはあるけどね!」

 

 アズサはいたずらっ子のように笑って、紐を強く引っ張った。紐が括られていた枝が下へとしなって、真上へと跳ね返る。りーん、りーん、りーん――……。遠くの方で木霊のような音が響いた。涼やかな音だった。

 

「すごい」ユキが不思議そうに言った。「ここは魔法で溢れてるわ」

「いろいろ教えてあげる。結界のことだけじゃなくて、僕の書庫のことも、この山のことも」

 

 アズサは紐を離し、森の方へと身体を向けた。

 

「でもその前に、見せたいものがあるんだ」

 

 そう言ってアズサは歩き出した。アズサの案内で、巨木の左手の道を歩いていき、しばらく緩やかな坂道を上ると、目の前の景色が開けた。

 

 透き通るような青みを帯びた空の下で、光を梳かしたように水面を揺らす湖。色とりどりの野花が風にそよぐ、なだらかな黄緑の草原。穏やかでしみじみとした静かな湖畔の景色を前に、ユキは胸の中でつかえていた空気をゆっくり吐き出した。

 

 草花の間を舞う小さな蝶を見た途端、ウルが一目散に飛び跳ねていった。ウルは湖の淵にある木の根元に向かって走っていく。

 その木は、奇妙なほどぐにゃりと折れ曲がっている。まるで何千年とその場所に居座っているような、不思議な雰囲気を持って、幾重もの枝と深い緑色の葉を大空に向かって伸ばしていた。

 

 はしゃいだように駆け回るウルの姿に笑いながら、貫禄のある太い幹のもとまでアズサは迷い無く進んでゆく。

 

 ユキも背中を追いかけ、巨木の根元へ辿り着くと、足の膝下辺りでふわふわと揺れる草花がそこだけぽかりと空き、茶色の土を見せている。そこには灰色の四角い石が埋まっていた。覗き込めば、その表面に、無機質な黒い文字が彫られていた。

 

 彫り込まれた文章は、『天暦532年 沙流衣月さるいづき 二十六の日』という言葉から始まっていた。


 『ユト・リアンタ セノア・リアンタ 大樹のもとに眠る。

 彼らは水の国のために生き、そして多くの悲しみの中に沈んだ。

 彼らは互いの為に生き、そして人々に数えきれぬほどの勇気を与えた。

 たとえ大地が裂け、たとえこの空より天が落ちたとしても、

 人も神も何者も、二人を分かつことはできず。

 彼らの愛が、永久にあらんことを

 彼らの旅路に、水神の御加護があらんことを』


 記憶のないユキでも、その綺麗な灰色の石がどのようなものであるのかはすぐに分かった。四角い石は、死者を弔うための墓石なのだ。

 

「僕の母さんと父さんのお墓」


 しゃがみ込んだアズサが、ツルツルとした墓石の表面にすっと指を沿わせる。

 

「お墓……」ユキもその隣に腰を折った。なんと言葉を返せばいいのか、しばらく悩んでから口を開く。「この下には、アズサのお父さんとお母さんがいるんだね」

「……ううん。ここにはいないんだ」

 

 アズサは静かに首を振っただけだった。静かな水面のような横顔に、ユキは、どこにいるの、とは聞かなかった。

 

「いないのに、どうしてお墓を作るの?」

「うーん……。どうしてって、難しいことを聞くんだね。作ったのはゼンさんだけど、多分、忘れないようにするためだよ」

「忘れないように? お母さんとお父さんを?」

「そう」

「アズサはお父さんとお母さんを知ってるの?」

「よく知らない。顔も知らないんだ。僕が生れてすぐ、どっちも死んじゃった。だけど、僕にも母さんと父さんがいたってこと、この石を見ると分かるんだ」

 

 ざわざわと、真上の木々が葉を揺らした。

 ユキは黙ってアズサの横顔を見る。そこに映った感情を言葉にすることは難しかった。寂しくて、悲しくて、けれども両親が確かにいたということへの安堵のような。

 その不思議な感情がユキには分かった。分かるけれども、知らなかった。

 ユキは魔法で作り出した白く小さな花を、青いリボンでまとめた。こういう時は花を添えるべきだという気がして、花束をそっと墓石の上に置く。

 その様子をじっと見つめていたアズサは、一言だけ「ありがとう」と口にして、立ち上がった。

 

「ここは、気持ちのいい場所だね」


 ユキは風に煽られた髪を手で抑えた。立ち上がったアズサを追い掛けて、湖のほとりまで歩いて行く。

 

「うん。僕の一番好きな場所の一つさ。この景色を見せたかったんだ。風が気持ちいいし、湖も空も綺麗だし……ここに来ると、悩みが全部どっか行って、生まれ変わったような気分になる。そう思わない?」

 

 二人は並んで、白黄色の草花の中に腰を下ろした。飛び跳ねることに飽きたのか、ウルもユキの隣に丸くなる。

 歩けばすぐ一回り出来てしまいそうなほどの小さな湖の上を、光が、まるで魚の鱗のように輝いていた。心地良い朝の風が草を撫で、新しい風が身体の中を巡り、頭の中がすっきりとしていく。まるで、胸のつかえを透いていくように。

 

「アズサ、その……」

「どうしたの?」

 

 ユキが思い切って口を開くと、きょとんとした表情でアズサは顔を向けた。声を出してみたものの、ユキは次の言葉を探すのに手間取っていた。

 

「わたし、何も持ってないの」

 

 口の中はからからで、どういうわけか身体の真ん中がずっしりと重たい。ユキは意を決して身体ごとアズサに向けたが、思わず心細くなって、すぐに顔を下に向けた。

 

「何も覚えて無いし、帰る家も、分からなくて……。本当に何もないけど、私、何でもする。ウルも、ぜったい良い子にしてる。アズサの手伝いとか――掃除でも、洗濯でも、料理でも、マルサさんやディグレさんのお手伝いもする。お金が必要なら、いっぱい働く。何でも一生懸命するから、どうかここに……いさせて、くれませんか」

 

 つかのま、アズサは目の前に下げられた白いつむじを見つめた。どうしてそんなことを言うのかと数秒ばかり考えていた。

 

 とっくにアズサはそうなるものだと思っていたからだ。

 そもそも出て行ったとして、これらから先、ユキが向かう場所もないのだろう。何処に行く宛てもないのなら、このまま書庫に居ればいい。そして出て行きたいのであれば、アズサに止める権利はない。そう思っていた。

 

 アズサは、わずか数日間一緒にいただけで――その日々のことをユキは覚えていないが――少なからずユキに対して情を抱いてしまっていた。今のユキを一番知っているのは、アズサだった。見捨てることはできなかった。

 

 そしてたとえユキが覚えていなくても、アズサだけでも、あの時に交わした約束を覚えている。『しあわせになって』――と、その意味を探す約束を。

 

 ――俺たち魔法師にとって、言葉を慈しみ、約束を守ることが、何よりも大切なことなんだ。

 

 アズサは魔法師ではない。けれどもそれは一人の人間として、無下にしてはならないものだ。

 

「好きなだけ居て良いさ。もちろん、ウルもね」

 

 震える肩を見て初めて、アズサはユキの不安を感じた。

 ユキはぱっと顔を上げた。その青い目は驚きに見開かれ、目の前の湖面に照る光のように輝いている。

 

「君が嫌じゃなければだけど、僕は気にしないよ。君を助けたのは僕だ。じゃあこれでさようなら……って放り出したりしたら、きっと僕は自分のことがイヤになると思う。それに僕は君と約束したんだ。君の『しあわせ』を探す約束をね」

「『しあわせ』?」

 

 ユキはまるで初めてその単語を口に出したかのように首を傾げた。

 

「そうだよ。だから、ユキの好きなようにすれば良いんだ。ここに居てもいいし……ユキは、どこかへ行きたい?」

 

 ユキは首を振って、力強い声で言った。

 

「ううん、わたし、ここにいたいの。私を助けてくれたアズサに――、あなたに恩返しがしたい。だから何でもする」

「お、恩返しなんて」アズサは目を丸めた。「僕がそうするべきだと思ったからしただけで、そんなこと……、もしユキが出て行きたくなったらそうすれば良い。それまでは、ここにいていいんだ」

 

 ああ、でも。

 アズサは心の中で言葉を続けた。ユキは大きな借りがあると感じているのだ。だから好きなようにしてと言うだけでは、ユキの気持ちは楽にならないだろう。

 

「じゃあ、こうしよう。三つ条件がある」

「うん」ユキは真剣な顔で頷いた。

「まず一つ目は、いっぱい寝ていっぱい食べて、いっぱい遊んで、楽しいことを見つけること」

「た、楽しいこと?」

 

 アズサが口角を上げると、ユキはその表情をすぐに怪訝なものへと崩した。

 

「僕は本を読んで、本にあることを確かめるのが好きなんだ。ユキ、本は好き?」

「ほ、本は……分からない」

「じゃあ家にある本いっぱい読んで。僕のおすすめも教えてあげるよ。それで、ええと、二つ目の条件は……掃除と料理を……その、できれば一緒に……」

「苦手なの?」

 

 実はちょっぴり。アズサが小声で付け足すと、ユキはほんの少し、緊張が解けたように柔らかく笑った。

 

「三つ目の条件は、僕の頼みをやって欲しいこと」

「うん」今度こそ、ユキは強く頷いた。

「やることいっぱいあるんだよ?」

「うん。うん」

「本当に? 山菜を採りに行ったり、魚釣りに行く事だってあるからね。それに冬場はおばさんの手伝いをして籠を編んで、おじさんが売ってる薪も割らなきゃだ。他にも沢山やることがあるから、一緒に手伝ってくれると嬉しい。ユキとウルがいてくれたら、きっと百人力だよ」

「だ、大丈夫。だけど、アズサの育ての親の……」

「ああ、ゼンさん! 大丈夫、大丈夫! 全然帰ってこない人のことなんて気にしないでいいんだ」

 

 アズサはからからと笑った。

 

「この前帰ってきた時も、またすぐにどこかへ行っちゃったんだよ! だから本当に気にしなくていいの。ユキが居てもきっと怒ったりしないし、ちゃんと手紙で言っておくからさ。ここにいる間、ユキはやりたいことをすればいいんだよ」

 

 これでどうかな、と言いながら、アズサは片手を差し出す。その手と顔を交互に見て、ユキはかすかにその目元を綻ばせた。

 

「……アズサは、優しいんだね」

 

 春の日差しが溶けだしたような柔らかな声と共に、ユキはそっと、差し出された手を取った。アズサも強くその手を握り返した。お互いに初めて感じるような、ほんの小さな温もりだった。

 

 誰も眠っていない石の上で、ひとかたまりの風が小さな白い花弁を巻き上げる。穏やかな水色の空に、ゆっくりと雲が流れていた。






 

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