第四節 家族

31 帰郷



 天暦542年 円舞月えんぶつき 十二の日


 森の中を鋭い風が切り裂く。乾いた音が空気を裂き、風をまとった矢が赤く色づいた木々の間を駆け抜けていった。


 矢筒から素早く次の矢を取り出し、弓に宛がう。きつく弦を引き絞り、息をひそめて的を定め――もう一度、空を裂くような矢音が響いた。

 遠くの方から、短い悲鳴が上がる。


「当たったの?」


「ああ。痺れ薬が効いていればいいが」


 額をにじませた汗を拭い、岩陰に屈んでいたディグレが弓を下ろして振り返った。

 木々の上から降り注ぐ光を手で遮りながら、黒い頭巾を被ったユキが彼を見上げる。


「すごい……何を狙ったの? ナガミノシ?」


 斜面の下を見下ろしながらユキが言うと、ディグレは怪訝そうに眉をひそめた。


「なんだって、ナガ……? もしかして長耳猪ながみみいのししのことか」


「うん。名前が長くて難しいからって、アズサが言ってたの」


 数度まばたきをしたディグレは、やがて苦笑を浮かべた。


「まあ、そうだな。今回は、ナガミノシだ」


 二人は舞い落ちる木の葉の下をくぐりながら、斜面を下っていく。

 やがて、山間を縫うように流れる小川のほとりに出た。


 その川辺に、一頭の猪が大きな体を震わせて横たわっていた。

 その横腹にはディグレの放った矢が深く突き刺さっており、茶色い毛皮には赤黒い血がじわりとにじんでいる。


「わっ……!」


 ユキは思わず一歩退いた。

 気を失っているようには見えるが、突如跳ね起きてきそうな気配を感じたのだ。


「しっかり効いたから、もう動けないさ」


 ディグレがユキの肩に手を置き、安心させるように言ってから猪へと近づいていく。


 ユキも彼の背を追って、少しずつ歩み寄った。猪は微動だにしない。


「……死んじゃったの?」


「いや。気絶してるだけだ。痺れ薬の中に眠り薬も混ぜてある。この成分は俺たちには影響が出ない。そういう薬草を使っているんだ」


「ディグレさんは、どうしてそんなこと知ってるの?」


「俺の親父に教わった。お前さんにもいつか教えよう。……おお、いい猪だ」


 満足そうに笑ったディグレは、猪の足を手際よく縛ると、自分の弓をユキに預け、腰を落とした。

 そして、その巨大な体を背負い上げる。熊のようなディグレの背にさえ、その体は大きく重たく見えた。


「帰ろうか」


「アズサとウルは?」


「二人一緒にいるだろう。……位置を知らせられるか?」


「うん」


 ユキは頷き、預かった矢筒を背にかけた。そして右手を空に向かって掲げる。

 指先から放たれた赤い光が木々の間を駆け上がり、林冠の上で小さく弾けた。


「助かる」


 燦々と降り注ぐ秋の陽光を仰ぎながら、ディグレが細めた目でその光を見上げた。


「できれば、落ちてる矢も拾ってくれるか。見つかる範囲で構わない」


「うん」


 ユキは地面を見渡しながら矢を拾い集め、矢筒に戻していく。

 そこへ、川の上流からアズサとウルがやって来た。


「ナガミノシ!」


 アズサは担がれた猪を見つけるなり、その名前を叫んだ。


長耳猪ながみみいのししだ。なんでも略すな」


 ディグレが呆れ顔で言う。


「だってその方が言いやすいでしょ? ねえ、今日は猪鍋にしようよ」


「……そうだな」


「アズサは何を見つけてきたの?」


「茸に山菜、それから薬草。秋は山の季節だからね」


 色とりどりの植物を詰め込んだ籠を掲げ、アズサは得意げに笑う。

 足元ではウルが胸を張って座っていて、アズサはその頭を撫でた。


「ウルもすごかったんだよ。鼻がいいから、すぐに目当てのものを見つけてくれるんだ」


 ウルは気持ちよさそうに、くーんと喉を鳴らした。


 季節外れの異常気象に長く苛まれていた水の国は、気がつけば夏を飛び越え、ゆっくりと肌寒い季節へと移り変わっていた。


 あれほど語られていた「エレネイアの呪い」の話も、今ではもう誰の口にも上らない。


 元より、山の中で暮らしているアズサにとって、そんな言葉に意味はなかった。

 そして、首都から遠く離れたミエラル村にも、いつも通りの長閑のどかな時間が戻っていた。


 美しい晩春から初夏を通り過ぎ、今はもう、赤や橙の色にすっかり染まっている。

 その景色を見ようと、山の麓には旅人の姿もちらほら見えるようになっていた。


 秋は実りの季節。

 冬に備えるため、山はあらゆる恵みをもたらす。

 その帰り道、籠いっぱいに詰めた収穫物を抱えて、アズサは満ち足りた顔をしていた。


 アズサが嬉しそうにしていると、ユキもなんだか嬉しくなった。


「何を採ってきたの?」


「これはアキバレ草。秋の晴れた日にしか咲かないんだけど、傷薬の材料になるんだ」


「へえ、薬になるんだね」


「うん。こっちはカタカタ草とムケムリタケ。それから白い花がついてるのが清蕊せいずい。この辺りだと、ここでしか採れないんだ。きれいな水辺にしか咲かない花でね」


 アズサは、白く小さな花をユキに手渡す。

 その花は、風に揺れるたびに甘く涼やかな香りを運んできた。

 ユキは鼻先を近づけて、深く香りを吸い込む。


「気に入った?」


「うん」


 ユキが素直に頷くと、アズサは満足げに笑った。


「じゃあ、あげるよ。それから、これが風待ち草。もっと秋の終わりに出てくるはずなんだけど、今年は早いみたい」


「春の天気が悪かったせいもあるんだろう」


 静かに、ディグレが口を開いた。


「なんで春の天気が関係あるの?」


 アズサが前を歩くディグレを見上げる。


「生き物ってのは、咲いてる時だけがすべてじゃないからな。土の状態だって影響する」


「雪解けが遅くて、水分が多かったから……それで早く出てきたのかな」


「俺は学者じゃない。だが、そうかもしれん」


「ふうん……」


 アズサは実をつけた植物を持ち上げ、風に揺らした。カラカラと、乾いた音が小さく鳴る。


 その風待ち草をユキに預け、アズサは別の植物を取り出した。それは、道端にでも生えていそうな、細くて深い緑の葉をした草だった。


「ただの草みたい」


 ユキがつぶやいた。足元に生えている草とあまりにも似ていたからだ。


「これはね、緑陽炎みどりかげろう。ただの草なんて、この世にはないんだよ。みんな、ちゃんと名前があるの」


「どうして、そんなに知ってるの?」


「興味があるからかな。知らなかったことを知るって、楽しいんだ」


 花のある植物から、まるで雑草のようなものまで。アズサは一つひとつの名前と効能を丁寧に教えた。

 よく覚えているなあ、とユキは感心しながら耳を傾ける。


 前を歩くディグレは、始終黙っていた。聞いているようで、聞き流しているのだろう。


 やがて三人は分かれ、ディグレは別の道へ。

 アズサとユキ、そしてウルの三人は、書庫へと戻っていった。


 巨木の結界をくぐり、玄関が見えてくるというところで、アズサが突然歩みを止めた。


「人影? ユキにも見える?」


 小高い丘の上、黒い人影が一つ。知っている誰よりも背が高く、その全身を長い外套が覆っている。


 どこかで見たようなシルエット――少しだけ、アルティナが着ていたものに似ていた。


「うん、見えるよ。誰か来てるみたい」


「だよね……いったい誰だろう」


 そう言いかけて、アズサの顔がぱっと明るくなる。


「あーっ! ゼンさん!」


 大声を上げるなり、アズサは弾かれたように飛び出していった。突然のことにユキは驚き、肩から矢筒がずり落ちそうになる。


「ゼン、さん……? あ、アズサ、待って!」


 ユキも急いで後を追った。


 名を呼ばれたその男は、声を探すように振り返り、その力強い低めの声でアズサの名前を呼んだ。


 その男――ゼンは、真っ直ぐ駆け込んだ勢いを両腕で受け止めて、アズサの小さな身体を固く抱きしめた。

 

「お、おかえり! いつ帰ってきたの?」


アズサは息を整えながら、少し上ずった声音で興奮気味に口を開いた。


「帰って来るって知らなかった! 帰ってくるなら早く言ってくれれば良かったのに!」


「すまん、仕事が忙しくてなあ。今さっき来たんだ。知らせていなくて、悪かったよ。アズサ、良い子にしていたか?」


「うん、もちろんだよ」

 

 男は体格がよく、間近で見るとさらに背が高かった。


 どこか赤味のある黒髪には癖が残り、あちらこちらへ跳ねているが、それも気にならないほどに端正な顔つきをしている。


 だが、まず一番に目を惹くのは左の瞼の上から頬骨にかけて真っ直ぐに入った裂傷の痕だった。

 

 ゼンはアズサの頭を撫でて優しそうに目を細めて、そしてふと、アズサに追い着いたユキの存在に顔を上げた。


 ユキは、目の前の男が、アズサの話に何回も出てくる「ゼン」という人物だとすぐに合点がついた。


 その色づいた黄の葉のような目と視線が合って、ユキは立ち止まった。







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