32 育ての親
「あ……ああ」
ユキの姿を目にしたゼンは、どこか戸惑うように声を溢した。まるで死んだと思っていたものが目の前にいるように大きくその目を見開いて。
「ユキだよ。春からここにいる」
一瞬の些細な変化は、アズサの紹介とともに、すぐにその表情の奥へと消え去った。どこか出会ったことがあるのだろうか。胸の中がざわめいて、けれどもユキはその変化について何も言わないことにした。
「ユキ、か」ゼンは合点がいったように頷いた。アズサから届いた手紙に書かかれていたことを思い出す。「ユキ、俺は……ゼン。ゼン・バーリオだ。よろしく頼む。俺のことは色々とアズサに聞いているとは思うが」
ゼンは男らしい無骨な手を差し出す。ユキもそれに応じて手を握った。潰れた豆が固くなったような、剣を持つ者の手のひらだった。
「あ……、ええと、バーリオさん。お世話になっています」
「ゼンでいい。まあそれにしても、お前も隅に置けないなあ、アズサ」
「そういうのは言わなくていいから。それよりも、なんで帰ってきたの? 仕事は?」
アズサが早口で捲し立てる。いつもユキに対して喋る様子と違って、随分と端的な物言いだった。
「帰ってきたら駄目だったか?」ゼンはにやりと笑った。頬にぐっと
「じゃあ三日いるんだ」
「いいや、明日にはまた出るつもりだ」
「ふうん。そっか」
アズサの素っ気ない態度にゼンは何も言わない。ユキはどこか落ち着かない気持ちで二人のやり取りを眺めた。
アズサの話に聞くよりも、ゼンという男はだいぶ歳を取っているように見えた。その容姿が、というわけではなく、どこか貫禄のある雰囲気が醸し出ていた。
「これ置いてくるね。ゼンさんも、これからあっちの家に行くよね?」
「ああ、行く」
ゼンが頷くと、ユキの方に顔を向けたアズサは「待っててね」と言い残し、書庫の裏手へと走って行った。
その場にユキとウル、ゼンの二人と一匹が取り残され、当然静かな空気が流れた。何か喋るべきなのかと迷い、ユキが視線を移ろわせていると、その気まずさを感じ取ったゼンがまず躊躇いがちに口を開いた。
「その生き物は、ウルと言ったか」
ゼンはその場に屈むと、ウルの背の高さに視線を合わせた。ウルは大人しい。その金色の瞳がじっと観察するようにゼンを見つめている。ウルとゼンの瞳の色は似ていたが、光の加減が変われば色は全く異なるものになった。ウルの瞳は黄金の宝石のような色合いをしていて、ゼンの瞳はそれよりも濃い小麦畑のような色をしていた。
「ウル、です。私と一緒に、お世話になっていて」
「ああ。アズサから聞いてる。大きさが変わるんだってな。今は子犬みたいだが、いつもそれなのか」
「そう……です」
「魔獣か?」
「は、はい」
言葉が切れて、またその場の空気は静まり返る。ウルはその気の置けない空気を感じ取ったのか、少し離れた場へと駆けて行ってしまった。まったく勝手だ。ユキは心の中で呟いた。
再び沈黙が訪れ、しばらく経つと、ゼンは頬を掻きながら言葉を発した。その表情は固いもので、自然とユキも表情を引き締めた。何を言われるのか、心臓が妙な音を立てている。
「ユキ、君は魔法が使えるんだってな。俺は魔法師なんだ」
「えっ――あ、はい! アズサから、聞きました」
「杖は持っているか」ゼンは半身をユキの方へと向けた。ゼンが身体を動かす度に、その黒い外套の下から、ちゃり、ちゃり、と金属の音が鳴る。
「も、持って、ます」
「見せてくれないか。無理なら良いが」
ユキは戸惑いつつゆっくりと頷き、そのまま、アルティナに見せた時と同じように腕を前に出して、手のひらでくうを掴んだ。五本の指が硬い感触を得て、その手に銀の杖を握る。
ゼンは僅かに目を見開いた。その驚いた表情は、アルティナが見せたものに似ていた。
「良い杖だな。だが、どこで杖を?」
それでも、ゼンは落ち着いた声音で言った。
「わ、分からないです。その、よく……覚えていなくて」
「そういえばここに来る前の記憶が無いんだったか。すまないな。何か暮らしていく中で不自由はないか?」
「えっ」ユキは慌てて手を胸の前でパタパタと振った。「なっ、無いです! 本当に良くしてもらっていて……本当に……」
「そうか。それなら良かった」
ゼンが頷く。また二人の間には沈黙が居座った。
ただ、ユキは、杖を見た時のアルティナとゼンの表情があまりにも似ていて、そのことがどうにも不思議に思えてならなかった。
「あの、その……。私の杖、お、おかしいというか、銀色は珍しいのですか?」
首を傾げると、ゼンは返答に困ったように頬を掻いた。
「いいや。だが……マァ……ウン、かなり珍しいだろう。綺麗な杖だ」
「あ、ありがとうございます」
「珍しかったから、驚いてね」
それだけ言って、ゼンは遠くを見つめた。その視線の先に何を見ているのか、ユキには殊更想像がつかない。
しばらくすると、彼は徐ろに自分の懐の辺りを探りだした。そして茶色のパイプを取り出すと、吸口を薄い唇の間に咥える。ユキはじっとその様子を見ていた。
その器具を見たことがあるのかは分からないが、頭の中で別の声が言葉を発した。――タバコ。火皿の中に『
火皿に手を伸ばし、流れるように火をつけようとしたゼンは、「あ」と吸口を離した。そしてユキの顔を見て、目を逸らすと、気まずそうに頬をかく。
「すまん、子供の前でやるもんじゃないな」
「……それは、タバコ?」
「ああ。そうか、それは知っているのか? 水の国にはあまり出回っていない貴重品だが、西方では流通が盛んなんだ。これは砂の国の行商から特別に貰ったのさ。魔法のタバコだよ」
ゼンは苦笑いを浮かべながらパイプを懐に仕舞うと、ユキだけに囁くよう口元に手を持ってくる。
「アズサには黙っておいてくれないか。辞めたことになってるんだ。ま、身体に良いもんじゃないからなぁ」
「う、うん」ユキはこくこくと頷いた。アズサに聞かれたら、答えてしまうかもしれないけれども。
「ありがとう。マ、一つ約束してくれ」
ゼンは片目だけ閉じてクスリと笑った。ちょうどその時裏手からアズサが戻ってきて、言葉を交わしていた二人に向かってきょとりと首を傾げた。
「何か話をしてたの?」
「うん。ウルのことと、それから、私の杖を見せていたの」
「あの銀色の杖だよね。ゼンさん、ユキの杖、綺麗だったでしょ」
「ああ。今さっきそう言ったところだ」ゼンの固い表情が、ほんの少し和らぐ。「あっちの家に行くんだろう。何か持って行くものはないか」
「ううん、無いよ! あっ、それよりゼンさん、お土産は? お土産買ってきてくれるって話だったよね!」
「もちろんある。後でのお楽しみだ!」
ゼンは快闊と笑い、アズサの頭を乱雑にかき回した。
◇◆◇◆◇
「うわぁ! 今日は豪華!」
「おいしそう……」
バーリオ家の小さな食卓いっぱいに並べられた料理の数々を眺めて、ユキとアズサは感嘆の声を上げた。
一番のご馳走である猪鍋を中央に、普段であれば考えられないほど豪華な食事が並ぶ。小さな机の上には乗り切らないくらいの品々が次から次へと運ばれた。
「まったく連絡もしないで突然帰ってくるなんてねぇ! 帰って来るならもっと良いものを作ったのに!」
マルサが育てている野菜を盛り合わせた皿を並べながら、この数々の料理を手がけたマルサが言った。怒るような口調だが、マルサはいつにもなく張り切っていた。
「母さん、ごめんよ。実はもっと早く連絡するつもりだったんだが、間に合わなくて」
「言い訳は結構!」マルサはキッとゼンの方を睨んでから、立っていたユキに優しく笑いかけた。「ユキ、少し手伝ってくれるかい? お皿を運びたいんさ」
「あ、はい。マルサさん」
「僕も手伝う」と、アズサも席を立つ。
「机にはもう乗らんだろう」ディグレの目は、「作りすぎだ」と訴えていた。
ディグレの目は、「作りすぎだ」と訴えている。机いっぱいに敷き詰められた料理の皿に、これ以上の品を乗せる隙間もない。ただでさえ狭い居間に椅子を並べて座っているというのに机の上までぎっちりと品数が揃えられている。
「そうねえ、もう乗らないわね……じゃあ、後のものは取っておこうかね。アズサ、ユキ、ありがとうね。先に座っていて」
マルサはお皿を持ったまま、厨房の奥の方へと入っていった。
「おばさん、ゼンさんが帰ってきて嬉しかったんだ」
こっそりアズサはユキに耳打ちをした。そう言ったアズサも、どこか浮ついた表情をしているようにユキには思えた。
「お待たせ。これはウルにね」
戻ってきたマルサは、ウルに用意した食事を持ってきた。
ウルは床の上で嬉しそうにくるくる回って、直ぐさま皿に顔を突っ込む。勢いのある食べ方に、ユキは呆れた顔つきでウルの背を撫でた。ウルはもうマルサの料理に心を掴まれていた。
「さあ! 腕をふるって作ったのよ。たくさんお食べ!」
アズサとユキはまず猪鍋を椀によそって、今日の獲物である猪肉を口に運んだ。肉を噛むと、コリコリと口の中で音がする。少し固いが、何度も噛めば染みこんだ汁が口の中に広がった。ディグレの行なった下処理が良く出来ていたのか、嫌な臭みはない。
「……ん!」
なんともいえない幸せな気分に浸りながら、アズサは声も出さずに呻いた。汁をぐっと飲むと、喉の奥まで温かくなるのだ。
アズサとユキはぱっと顔を輝かせ、嬉しそうにまた二口目に手を伸ばした。その様子に顔を見合わせて微笑んだマルサとディグレも、料理に手をつけた。
バーリオ家の食卓は、食事の最中はとても静かだった。家主の口数が少ないこともあるが、次から次へと手が伸びてしまう美味しい食事を前に喋る暇はない。それは気まずい空気などではなく、幸せを味わっている空気だった。そうしてしばらく、手に取る皿の音だけが響いていた時。
「おいしい」
そう、温かい溜息と共に、言葉が響いた。聞いていた全員がその声の主に意識を向ける。おいしいかい、とマルサが柔らかな表情で聞き返した。
「ああ。こんなに美味しい食事は久しぶりだった。母さん、突然帰ってきたのにありがとう。父さんも、猪なんて凄いな」
「どうした、突然」ディグレは少し訝しげに伺っていた。
「いや、思ったことを言っただけだ。こんなに良くしてもらってんのに、俺は本当に、親不孝者だと思って……」
「それなら、もっと帰ってきていいのよ」
マルサは茶化すようにそう言い、ゼンの背中を小突いた。ゼンは苦笑し、「ああ、そうする」と頷いた。
「明日にはまた出て行くんだって? どうしてまた、そんなに早く行くんだい。今の仕事、そんなに忙しいのかい」
ゼンは一度皿を置いた。
「ちょっと忙しくなってな。だけど、今の仕事が片付いたら辞めようと思うんだ」
「仕事、辞めるの?」アズサが困惑気味に言った。「魔導書を売る仕事?」
「ああ。だが、今の仕事が片付くまでに時間がかかりそうなんだ。だからもう少し家を空けることになる」
「魔導書販売って、そんなに忙しいんだ」
「どんな仕事だって忙しいんだぞ。でも、片付けたらすぐ書庫に戻ってくるさ」
「……そっか」
アズサはほんのり頬を緩めて、皿の上に盛った葉野菜を口に運ぶ。
口角を優しく上げたゼンは、一度皿を持ち上げて、また置いた。そして意を決した表情で、ディグレに顔を向けた。
「父さん、そういうことだからな」
ディグレはグッと押し黙って腕を組んだ。しばらくの間、誰も喋らなかった。アズサはどこか重苦しい空気を感じながら、横目で二人の様子を見て、スープを飲みこんだ。長く感じるような沈黙だった。
「……お前が決めたことなら、構わん。そうだろう」
「そうね。決めたのなら」マルサもまた穏やかな口調で頷く。
「ありがとう。それから、後で二人に話があるんだが、いいかな」
「ここでは話せないのか」
無言で頷くゼンに、ディグレは低い声で「分かった」と頷いた。
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