碧落に君は消えゆく

藤橋峰妙

序章 凍雲の日のひとり

00*1 不香の花


 ――ひとたび転げ落ちてしまえば、後戻りはできないぞ。


 冷めた風の囁きと共に、記憶の奥底から忠告の声が蘇る。


 それは不快な気分を伴って、深く鼓膜に刻まれていた。まるで寒冷な高山に実る赤いトルワの若い実を、歯で思い切りかみ砕いた時、口の中でキシキシと痺れ続ける苦く渋い感覚のように、どうにも後味の良くないものであった。


 声は諭すような落ち着きを含み、そしてどこか悲しみに沈む。心から憂いているのだとでも言いたげな口調と、その悲痛で切迫した声音が、残響が、未だ薄らと心の底に絡み付いていた。


 ――ひとたび、転げ落ちてしまえば……。


 ミレアには、かつて互いを親友と呼び合った者に、そう言葉を掛けられた記憶がある。


 けれどもかの人は、その言葉にどのような感情を込めていたのだろう。


 ミレアは昔も今も、あの言葉の意味を理解できずにいる。何故そう言われたのか、いつ言われたのか、どのような状況で言われたのかさえ、もはや記憶は朧気だ。


 ミレアの記憶は虫が食った後の葉のように穴だらけになり、以前の記憶は曖昧で、所々が抜け落ちてしまっていた。


 もしかすれば憂いや心優しい忠告などではなくて、きつく非難するものであったのかもしれない。警告やら勧告やら、厳しい言葉であった可能性もある。

 今はもうそれを確かめるすべさえ無く、頭の内でひとりでに語られる声は、ミレア自身が作り出した自分勝手な想像に過ぎない。


 今日も、あの言葉と声が、心に絡み付くよう浮かび上がる。


 ただ一つ言えることは、声が蘇る度に、ミレアは何とも言えない不快な気持ちになった。ドロリと粘る泥のような気持ちが一気に溶け、混ぜ合わさり、喉の奥底から何か良くないものが込み上げてくるのだ。


 ――もしその手を取ってたら、あなたは私を助けてくれたの?


 耳の奥に絡みつく声が鬱陶しく、ミレアは全てを振り落としたくて、首を横に振った。その拍子に、背中の上で編まれていた銀糸の髪がゆるりと解けて、ミレアの視界の端で、いくつもの線が舞う。


 解けた髪もそのままに、木々の先を見上げると、ミレアは灰色の空に右手を掲げた。白い光がじわりと手元で滲み、それをぐっと掴む。光の礫と共に現れた、ミレアの世界で唯一無二の相棒。その銀の杖は黒墨の色に変わってしまっていた。


 杖を握る度に、現実が突き付けられる。何度見ても、何度やり直しても、色はもとには戻らない。

 それは、ミレアが、この世で最も醜いと憎しみを抱く、罪を犯した者の色。


 【禁止魔法ハイン・ティーシェ】を紡いだ、その罪業の証だった。




 ◆◇◆◇◆




 苔生す巨木が鬱蒼とひしめく森の中、緑を覆った白雪は時間を経て解け始めている。


 ミレアは暗い森の中を彷徨い続け、とうに時間の感覚を失っていた。雪の降る前に山を降る決意をしたというのに、それから二度、雪が止んだという事しか覚えていなかった。


 ただひたすらに進み続け、木々の間を駆けて、既にミレアの全身からは悲鳴が上がっている。


 木の根に挫いた足首も、枝に打たれた肌のみみず腫れも、転んで作った擦り傷も、全てが痛かった。そのせいか、身体のどの部分で何がどの程度痛んでいるのか、もはや脳が認識を拒んでいる。


 残されていたのは、ただ前へと進むことだけだ。ミレアは疲労と鈍い痛みに止まりかけた身体を叱咤するように、自分の頬を両手でぱしりと挟む。そして大きく息を吸い込んだ。


 濃い樹皮、苔、土の匂い、そして雪の香りを引き連れた冷気が肺を満す。急激に縮こまった胸へ鋭い痛みが刺し、ミレアは耐えるように天を仰いだ。


 頭上の煙たく焦げた雲が、ゆっくりと天井を動いている。空は、まるで今から地に落ちてくるような重たさを持つように、どんよりと曇っていた。


 毎日のようにこの地を覆っていた清々しいまでの青空はどこにも見えない。山の向こうの遥か彼方まで、分厚い灰色の雲が重なっていた。


 その時、瞼の上に触れる異物を感じ、ミレアはその意識を向けた。


「あぁ。また、雪……」


 どんよりとした空から、小さな灰白かいはく色の花が降り注ぐ。ゆっくり落ちる儚く美しい雪の花が、赤黒い手のひらに触れた。その異物が、延々えんえんと降り続いていた雪の結晶であるとミレアは思い至る。


 しかし、冷たさを失った灰色の塊は、いつまでたっても、手のひらの上から消えなかった。

 

 どうして、融けて、消えないのだろう。どうして、冷たくないのだろう。ミレアはじっとその塊を見つめ、考えた。考えて考えて考えて、そしてその時初めて、薄い膜越しに見ているような朦朧もうろうとしていた頭が、一気に明朗に開ける。


「あ……」


 絶え絶えの呼吸は大きく乱れ、やがて引きる音へと変わった。


 これは違う。これは、灰だ。雪はもう既に止んでいるじゃないか。これは、燃え尽きた全てだ。これは、そうだ、自ら火をつけた彼らの――。


「あ、あぁ、あ……ああ!」


 身体の奥底が一気に凍り付いてゆく心地に襲われて、ミレアは声にもならない嗚咽を漏らし、その場で膝を折った。

 

 風に舞い上がった火葬の灰――。


 膝をついていた時間は短かった。ミレアは再び立ち上がり、歩き出した。


 されど、進めば進むほど、その耳には幻聴さえも聞こえ始めていた。待てよ。待ってよ。待ってくれよ。そう引き留める声、引き留める手が、ミレアの腕を引っ張っていた。


 足が動かないのは積もりに積もった雪のせいだけではない。その幻のせいでもあって、幻聴だと分かりきっているのに、それでも声の主が背に置いてきた家族のものだと、ミレアは思うしかなかった。


 木々の合間から聞こえてくる声は不気味に木霊していた。


 声は長い間その耳元で、永遠にミレアを責め続けている。ミレアは後ろを振り返ることができなかった。一度固く目を閉じても、不気味な声は大きく、そしてその数も増える一方だった。


「――いたぞ!」


 しかし無情にも、それは家族の声などではなかった。


「〈白銀〉、今すぐその場に止まれ!」


「――生け捕りにしろ!」


「逃がすな!」


「この悪魔がっ! 裏切り者め!」


 いくつもの鋭い声が空を裂いて頭上で交差した。


「ひっ……」


 ミレアのすぐ隣にあった木が二つに裂け、枝の上に乗った雪が目の前に落ちた。ミレアは短く息を呑んだ。酷烈な言葉と法式の詠唱が、何度も後ろから飛び抜けて聞こえる。声は幾つも聞こえてきたが、その全てに聞き覚えはなかった。


 ――皆の声じゃない。良かった……、良かった?


 家族の声ではなかった。


 ミレアは少なからず安堵を覚え、そう考えた自分が信じられなかった。家族がもうこの世にいないという事実を認めてしまったのだと――ひゅっと、心臓を掴まれる心地がして、ミレアは息を呑む。


 ――私、良かったって、思った?


 赤い閃光がミレアの白い頬を掠め、木々の間に散った。


 ついに見つかった。そう悟ったミレアは、最後の力を振り絞って、じくじくと吸い取った疲労に膨れつつある体を懸命に動かした。


 閃光は止むことなく背後に襲いくる。光が肩口を掠めた途端、近くの細枝が吹き飛ばされた。

 ミレアは足元に落ちていた小枝を拾い上げ、そして力強く、後方に振りかぶった。魔法を唱えようと口を開いて、しかし咄嗟に喉元へと手を当てる。炎を吸った痛みで、喉が焼け付くように痛い。


「は、ぁ、うぅ……!」


 抗うために声を上げようとしたものの、焼けた喉から吐き出された声はひどく掠れていた。


 このような有様で、確かな魔法を紡げるのか。走らなければならない。逃げなければならない。当たって。当たらなかったら。もし、追いつかれてしまったら――。


 頬が歪み、汗が地面に落ちた。焦燥に蝕まれた心の中で、幾つもの言葉が浮んでは、崩れるように消えていく。


「――っ!」


 運のいいことに力はまだ残っていた。


 声が出せずとも、目映く白い閃光が森の一角に爆ぜ、後方から断末魔の悲鳴が上がった。さして良い感情も浮かばなかったミレアは、白い息と共に悪態を心の内で吐き出す。


 恐ろしい火の手と追手が、ミレアの背後に迫っていた。攻撃は止まず苛烈さを増していった。

 背後から光の線が幾つも飛び交った。何度も小枝を振りながら走る。走っていたというよりも、酷く不格好に地面を転げ落ち、ミレアの体はもう泥と草と痛みに塗れていた。


 ――魔法が止まった。気配もない。……これから、これからどうしよう。


 頭の中には常に靄が掛かっていた。


 何をしたらいいのかも、どこへ行こうとしてるのかも分からない。


 自分自身の全てを失いかけていていた。このまま、死ぬのだろうか。何も果たせず、今までの全てをふいにして、家族までも失い、自分は終わりなのか。ミレアは自分自身の心にそう問いかけ――。


 どさりと音が鳴った。


 ミレアは、弾かれるように顔を上げる。川辺の木から落ちた垂雪しずりゆきの音だと張り詰めていた息を大きく吐き出した。けれどもその深い瑠璃色の瞳は、唇から流れた細く白い息を追いかけて、そして溢れんばかりに見開かれた。


「は……」


 眼前に広がる光景をその目に映して、小さく息を呑む。


 空から光が差し、純白の空間を木々の合間から降り注ぐ暁闇の光が照らしている。美しい景色だ。青白い頬を照らす光が眩しく目を細めた先で、明滅を繰り返していた宝石がちらちらと舞う。


 一面を雪で覆われた銀世界は、まるで幻を見ているかのよう。自分には、酷く似合わない美しい景色だ。


 けれども、もしかしたら。


 ミレアの内側に留めなく思いが溢れていく。そのまま銀色の世界に消えてしまうのも良いだろうか。この美しい景色に溶けて消えたら、自分もまた、綺麗になれるだろうか。


 ――約束なんてしなきゃよかった。


 後悔がぽかりと浮かぶ。ミレアは傍にある木の幹に背中を預けて、ついに足を止めた。


 足元には川がごうごうと大蛇のように渦を巻いていた。目の縁から流れ落ちた涙が崖下に吸い込まれ、激しい音が岩壁にぶつかり、はね返ってくる。


 風と木の震える音。低く唸る川の濁流。うねり狂う波飛沫に合わせ、ミレアの見ている世界もぐるぐると回る、回る……回る……。


 ただ、その轟音の響きの中で、耳の内側の遥か遠くに、静かな女の柔らかな歌声が微かに漂ってくるのだ。それは確かに幻聴だったが、ミレアは声に耳を傾けた。美しくて、心が安らかになるような声だった。それは弾かれる竪琴の弦の音と共に、聞こえてきた――。



 大地に初めの光が灯り 知り得た者は星を待つ


 小さな箱の中に入れ 青い石を探してる


 熟れた光が天に座し 語らぬ者は雨を待つ


 二つの鈴の音とともに 小さな花を求めてる


 静かに光が消えるとき 彼らは夢を灯してく


 銀のランプの中に入れ 女神の愛を――……



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