00*2 あの空に
「――あっ、うぅ、ぐ」
歌声に誘われ目を閉じたその時。
雷に打たれたような痛みが全身に走った。ミレアはそこで、声に身を預けて朦朧としていた意識を取り戻した。
焼けた針に貫かれたような、重たい石で殴られたような、杭に穿たれたような痛み。
それが腹の辺りから頭まで拡がって、あっという間に体と心を支配した。ミレアは自分の腹部をきつく押さえた。どこかで食い違っていた脳と体が繋がり、痛みがようやく認識される。
腹を貫かれたのは先刻のこと。魔法で直したはずが、その箇所が、また鈍い痛みを帯び始めていた。
――いたい、いたい、いたい――っ!
体の中の全てを滅茶苦茶にされる。悪寒に苛まれ、自分が自分で無くなっていく感覚に息を飲む。恐れを振り払おうとしてミレアは身を捩った。
その時。
あ――、と。足下が崩れ落ちる。
一瞬の隙も無く、何かの力に引きずられるまま、体は反転した。
真っ逆さまに宙に浮く。目には灰の空が広がっていた。落ちていくのは一瞬だ。目の下にはあの大蛇のような濁流が渦巻いている。
――……私は一体、どこで間違えたの? 何を間違えたの?
――それはお主の身を滅ぼすだけだ。ミレア、我が友よ、深い暗闇へと転げ落ちる前に……。
――前に、前に。その後は、なんて言っていたのだっけ。なんで思い出せないの。なんで。
寂しい親友の声が、またも耳の奥で蘇る。何故、あの時手を振り払ってしまったのだろう。
ミレアは固く瞼を合わせた。そしてその瞼の裏に、かつて絶望のまま肩を押されて墜ちた、峡谷の不気味な赤黒い曇り空が思い浮かんだ。
峡谷はこの世で最も醜い悪意に包まれた場所であって、誰もが最も忌避する地。一度足を踏み入れたら、二度と日の当たる場所に戻る事ができない、怨念を振りまく亡者の住み着いた場所。かつてミレアは、最も憎む己の敵に、その峡谷の谷底へと真っ逆さまに突き落とされたことがある。
しかしミレアは、その峡谷から舞い戻った。呪われようと這いつくばって、家族を守るために戻って来た。その結果はどうだろう。また、また堕ちてしまう。
――まだ、力が、足りなかった。私には、守れる力が、なかった!
それでいいのか。そう、ミレアは自問する。
いいはずがないと、誰かが言った。
ならば、どうする。声が耳元で囁く。ひどく甘美な声――。
――もっと、力が、力がほしい……でももう何も、この手には……。
一度でも転がり出したら、後はそのまま転がっていくだけしかできない。あの時と何も変わらない無力さと情けなさが、ミレアの心の一番奥底に深い染みをじわりと滲ませた。
みじめだなと、何処かで甘い声が嘲笑う。
ミレアの脳裏に、失った家族の顔が一人一人浮かんでくる。
――ヘキ、ヘキ。わたしの大事なひと。みんな。ああ、ごめんなさい。約束も守れなかった私を許して。みんな、私を許して……。
眩い光が瞼を透き通った。はるか彼方で雲が切れ目を作り、澄んだ青空が広がっている。
光が、眩しい。
美しい光の粒に自分の姿も綺麗になって、浚われて、やがて消えて無くなってしまうのかもしれない。それにとにかく今は、喉が渇いているような感覚に苛まれていた。
体中の痛みが全て、渇きに取って代わった。あの海のような青空を飲み込めば、喉の乾きはなくなるのだろうか。――欲しい。欲しい。欲しい! あの美しい空が!
次から次へと言葉が心の中を覆い尽くし、渇望のままにミレアは手を伸ばす。
――遥か彼方、あの美しい碧落が、この手に欲しい。
青い光を掴もうとしても決してその距離が縮まることはなく、一つとして、その手に触れるものも無い。
ミレアは落ちていく瞬間、美しい青い景色を心に焼き付けようとした。忘れるものかと、その手で握りしめるように。
――私は裏切ってない。アシャロウ、私は。
――〈
――シゼリアさま、女神さま。どうか、どうか助けてください。
――私はまだ死ねない――まだ、死ねないの!
もしも、この世界を創り上げたという女神が天にいるならば。どうか、どうか。たった一つでもいいから、どうか。
ミレアは初めて天に願った。今更になってその存在に縋る姿が情けなく、酷く惨めだと思いながらも、心から願わずにはいられなかった。
その瞬間、上空では、煮え滾る血よりも赤い光が弾け飛び、山を覆った。
森を焼かんと燃え上がった炎ではないことは明らかであって、魔法の才に恵まれたミレアの頭は直ぐにその結論を導き出した。
「あ、ぁ」
これは、全て終わらせようとしている光。裏切者への無慈悲な制裁だ。
赤い光は円を模り、文字を描き、線を繋げ、巨大な式を生み出して山を覆ってゆく。全てを終わらせる光。自身がこの一生をかけて求めてやまなかった魔法の美しい光。そう、ミレアが気がついた時には、細い金の文字が幾重もの線となり、空の上で折り重なった。
ミレアは最後に諦めて、目を閉じた。
――そう、そうよね。シゼリア様。あなたはいつだって助けてなんかくれなかった。それに、最後の最後であなたに
そしてその体は、飛沫を上げた濁流の中に叩きつけられた。
◇
天暦530年。
その年一番の厳しい寒さに見舞われた、
それは、今からおよそ十二年前の出来事であった。
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