第一節 エルヴァ魔法学校
50 一歩
第二章 水明
1
大量の墓石が等間隔に並ぶ中、その一番端の柳の木の下に、二人の名が刻まれた黒い石がぽつんと建つ。マルサとディグレの遺骨は、魔法学校内にある共同墓地へと埋葬された。
あの出来事から既に七日ほどが経った。
アズサは、ユキ、それからアシャロウと共に、あらためて夫妻とゼンを弔い、墓石の前に花を供えた。
土の下に眠る夫妻の姿を思い浮かべると、アズサは何とも言えない不思議な気分になった。あの日から何もかもが現実味なく思えて、まるで夢の中にいるような、宙に投げ出されたような心地が続いていた。
そしてもう一つ、アズサは隣の墓石に目を向ける。そこに、アズサをどうしようもない気持ちにさせるものがあった。
「そんなにも、僕には言えないことだった?」
墓石の上で、黒い包装紙に包まれた白の花束が、そよ風に吹かれて花弁を揺らしている。ただそれだけで、当然黒い石は何も返さない。
その下には、茶色の固い土が敷き詰められているだけで、この墓の主はいないのだ。
アズサは未だゼンの死を信じきることが出来ずにいた。アシャロウから手渡された訃音の存在が、一番、実感の湧かないことだった。
家族だった。
たとえ血がつながっていなくとも、僕たちは――そう言いかけた言葉が、喉につかえた。時間が経つと、次第にアズサの心は、名付けようもない複雑に絡まった感情で覆い尽くされた。
話してくれなかったのはなぜ。
何かが違えばこんな事にはならなかったのか。
何か少しでも、アズサはゼンのことを知ろうとしたことがあったのか。
悲しみと不安、怒り、憤り。後悔。疑念。
これまでに感じたどの感情とも繋がらない何かが、アズサの内側を嵐のように掻き乱す。それは途轍もなく得体の知れない大きな力でアズサに襲い掛かる。
何かに脅かされている感覚が心を締め付け、その苦しさに苛まれるたび、アズサは山奥で過ごした日々を思い出さずにはいられなかった。――説教も、優しげな声も。無口な横顔も、少し皺のよった手も。言葉を選ぼうとする視線も、軽快な笑い声も。そしてあの温かいスープの味も。
全ては取り戻せない日々となった。幸福な記憶を思い出したとしても、悲しみはいつまでも心のどこかに在り続けた。その悲しみが消え去ることは永遠に無いと思えるほど、しこりのように固まって、重石の様にのしかかる。
そして、いつも最後に、あの日の光景が目に浮かぶ。
剣を手にしたディグレ、炎の中に立つマルサ。あの不気味な黒い男が記憶を侵し、男の姿が思い出されるたびに、アズサの目の前は真っ暗に染まった。
赦せない。どうして二人を。
ぐつぐつと得体の知らない感情がアズサの胸の奥で沸き立った。熱く黒いその感情に身を委ねれば、楽になれるのだろうか。膨れ上がった泡を破裂させて仕舞えば、気が晴れるのだろうか。ここ数日、アズサの思考はそればかりに占領されていた。
けれども熱く激しいものが全身を廻ろうとした時、いつも脳裏に声が聞こえるのだ。アズサ、と。そう呼ぶ声が。それはゼンの声でも、夫妻の声でも、ユキの声でも、誰か別人の声であるようにも思えた。
そして呼ばれた声に意識を向けると、アズサの内側で煮え滾っていた感情が急速に冷えていく。消え去ったわけではない。穏やかに、どこまでも凪いでいく。冷静になれ。見失うな。まるでそう言われているように、心を、どこまでも均していく。
アズサは固く閉じていた瞼を開いて、視線を自分の手のひらに向けた。
自身のこと。養父のこと。狐と呼ばれた男のこと。――真実をこの手で知りたい。その決意が、アズサの進むべき道を示す唯一の灯火となった。
けれども今なお大きな壁がアズサの行き先を阻んでいる。
アズサには力が無い。あの男には何一つ太刀打ちできなかった。
これから、どう足を踏み出せばいいのかも分からなかった。ゼンの本当の姿も、自身のことすらも、何一つ知り得なかったのだ。
彼方に目標となる灯火が見えているのに、眼下には轟々と唸る濁流が渦を巻く。その上を渡る場所もなく、その先への行き方もアズサはまだ解らずにいる。ただ今の場所に立ち尽くして、拳を強く握ることしかできない。
それでもアズサは墓石に背を向け、後ろで静かに立ち並ぶアシャロウを仰ぎ見る。
「僕は……、僕は何をすれば、何をすればゼンさんのことを知ることができますか。どうすれば僕たちを襲った奴に、復讐ができますか」
アシャロウは柔和な目つきをしていた。まるでそれはマルサやディグレと同じような柔らかな視線で、アズサは少しだけ唇の内側に歯を立てた。
「アズサ。君は『何をすれば』『どうすれば』と聞いたが、では、何があれば、その目的を成し遂げることができると思うのじゃ」
「何が、あれば?」
深く頷くアシャロウに対して、アズサは悩んだ。
何があれば。それすなわち、今の自分には何がないのかということ。
「ちから」
口からするりと出てきた言葉を拾い上げる。ちから。そう、足りないのは、力。〈虚の狐〉と呼ばれた男には、圧倒的な魔法の力を見せつけられた。隣に立つユキにも魔法の才能がある。そしてゼンは魔法師であり、かつ騎士でもあった。
「力がほしい。僕は、もう、守れないのは、守られるばかりなのは嫌だ。……アシャロウ、先生。先生は、僕には魔力があると、魔法を使う力があると言いました。それなら僕は、まずは僕自身の力で、魔法をきちんと使えるようになりたい」
アズサは知りたかった。本当の答えを。その答えを自分の手で知るために――それにはまず、どうしても目指したいものがある。
「僕はゼンさんと同じ魔法師に、魔法師になります」
「ふむ」アシャロウはその決意を、肯定も、否定もせず、ただ尋ねた。「それが君の選択かね」
「選択……、はい」
「君の魔力は封じられている。一度その枷は弱まったが、それは変わらない。魔法が使えないという訳ではないが、かなり困難な道になる。それでも、魔法の道に進みたいかのう?」
はい、とアズサはもう一度、力強く頷いた。その真っ直ぐな翡翠の瞳が、アシャロウを貫く。アズサの決意を予想していたのか、それとも思いがけないものであったのか、アシャロウはただ一つ頷き、その視線をユキに移した。
「君はどうだね、ユキ」
そう言葉を投げられて、ユキは一瞬身を強ばらせた。ただ問われただけなのに、重要な決断をしなければならないような心地がするのだ。
「私は……、私は、自分のことが、分からない。だけどこんな私を、アズサは一緒に居ていいと言ってくれたの。どこの誰とも分からない私が今生きているのは、アズサと、あの人達のおかげだった」
ユキは自分の右の手のひらを広げて見る。ユキにとって、あの山奥の小屋で過ごした日々は短くとも暖かな日々だった。あのような穏やかな時間を、これまでに過ごしたことがあったのだろうか。それは今となっては分からない。記憶をどこかに落としてしまっていても、あの日々がかけがえのないものだったと、心からそう思えた。
「……私は約束をした。だから私も、アズサと一緒に魔法を学びたい、です」
「そうか、そうか。二人とも、魔法を学びたいか」
アシャロウは眩しいものを見るかのように目を細め、自身の長い髭を手で撫でつけた。
「そうであるならば、この爺から、魔法を学びたい二人に提案があるんじゃ。聞いてくれるかのぅ」
「提案?」アズサが声を上げる。
「ああ、そうじゃ。わしの提案を受けるかどうかは君たち次第じゃが、そう悪くはないと思っておる」
アズサとユキが揃って首を傾げると、アシャロウは朗らかな笑みを浮かべ、「では二人とも、付いてきなされ」と背を向けて歩き出す。アズサとユキはお互いの顔を見合って、その背中を追うように一歩踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます