追想 記憶の中で
或る男の後悔
「ゼン」
「なんだ、アズサ」
子供の腕では持ち上がらないほど大きい書籍を床に置き、ページをめくっていた紅葉のような手が不意に止まる。掛けられた声に、ゼンは走らせていたペンを休めて顔を上げた。
真剣に書物を読み耽っていた幼子は、たった今思いついたとばかりの表情でゼンを見て、その頬は夕暮れに差込んだ橙色の光に染まっていた。
「なんでゼンは、ぼくの父さんじゃないの?」
それは、アズサが物事の道理を理解し始めた頃のことだった。一般的な子供よりも頭脳の発達が顕著だったアズサは、書庫に敷き詰められた多くの本に手を出して、その小さな頭の中へふんだんに知識を詰め込んでいた。
父と母の話にアズサが自ら触れたのは、恐らくその日が一番最初であっただろう。
それまであまり口に出されたことのない二つの言葉に、ゼンは、思わず身体が硬直する心地を感じた。対してアズサは、白くて丸い頬をほんのりと赤く染めて、どこか緊張した面持ちで瞳を瞬かせている。
「どうしてぼくには、父さんと母さんがいないの?」
いずれ問われる内容であることは分かりきっていた。だからそのために、この日のために、答えを用意したこともある。
けれども用意していた答えは、頭の中から一目散に逃げていってしまった。
「なぜそれを聞くんだ」
「……ううん」
なんでもない、と首を振って、アズサはまた本の世界に入っていく。ゼンは閉口した。ゼンから見たアズサは、物静かで、そして他人に対する諦めが早々についてしまうような子供だった。
幼い頃には野山を駆け巡り、大人にこっぴどく叱られていた自身とはまるで正反対の子供。だからか、目の前の子供にどう接すればいいのかゼンは計りかねていた。ただ、自分がこの子供に対して言葉を間違えたことは確かだった。
「それはな、アズサの父さんと母さんは、お前を産んだときに亡くなったんだ。あぁ、亡くなったっていうのはつまり……えっと、その……お星様になったんだ。それで戻ってこれなくなってしまうから、俺に預けたってわけだ」
「なくなっても、お星さまにはならないよ。知ってる。しんだってことだよね」
ゼンはまた閉口した。そんなゼンのことを真っ直ぐ見たまま、アズサは言葉を続ける。
「なんでゼンに、僕はあずけられたの?」
「なんでって、だから、その」
ゼンは言葉に詰まった。アズサに隠し事をしている手前、何を言えば良いのかを迷った。
「――俺は、お前の父さんの親友だからだ」
「しんゆー?」
「友達、とも違うかな。兄弟、みたいな感じだ。小さい頃から一緒にいたんだ」
「ともだち? それってなに?」
「友だちっていうのは、自分の嬉しい時や楽しいときに、一緒になって喜んだりしてくれる人だよ。一緒になって遊んだり、馬鹿やったり、喧嘩したり、学んだりして……そんでもってお互いを認めあえる人だ」
ゼンは友の顔を思い浮かべた。そして、よく似た目を持つ子供を見る。
子供はポカンと呆けていた。難しい話だという自覚はある。それに、同年代の子供との交流がない目の前の子供にとって、これはいささか実感のない話であっただろう。
ゼンだって、子供に友だちの一人や二人、作らせて上げたいと望んでいる。けれどもそれは叶わなかった。――叶わなくしたのは、他でもない大人たちの事情だった。
ゼンの複雑な思いを知らずにいるのか、アズサは反対に首を倒した。無垢な翡翠の瞳がゼンを見据えている。
「きょうだいは?」
「兄弟って言うのは、そうだなぁ。ほんとうなら、血が繋がった人のことを言うんだ。同じ父さんと母さんから生れた人のことだ。もしアズサの父さんと母さんからもう一人子供が生れていたら、それはお前の兄弟っていうことになる。……でも、本当に血が繋がっていなくたって、兄弟にはなれるんだ」
「父さんとゼンは兄弟だったの?」
「ああ。そうだ。だから、俺達は家族だ」
「そっかぁ……ともだちで、きょうだい……それで、かぞく」
言葉を繰り返していたアズサは、嬉しそうな顔で頬を緩ませていた。これほどまでに表情の明るいアズサを見たことはなかった。
ゼンは妙な達成感を感じた。それは、やがて来ると身構えていた質問が乗り切れたことに対してではなく、アズサの嬉しそうな顔を見ることができたからなのかもしれない。
その日から、アズサはゼンにたくさんの質問をした。今まで物静かだったことが嘘の様に、アズサは分からないことを全て問いただした。
あの質問で、アズサは、ゼンが自分の疑問に答えをくれる人間なのだということを測っていたのかもしれない。後々にゼンはそう気がついた。
質問を受けることは、決して悪い事ではなかった。けれども、ゼンには答えられないことが多すぎた。秘密で固められた人生に、明かせることは少ない。それはゼンも、ましてやアズサでさえも、抱えている秘密が多すぎた。
本当の家族になりたかったからこそ、秘密は守らなければならない。
守らなければならないからこそ、秘密が足枷となる。
アズサはいつしか、抱えている秘密に触れようしていた。聡明な子供だった。他の誰とも違う、自分の置かれた状況に気がつき始めていた。
無垢な瞳が射貫き、秘密も知らない、澄み切った綺麗な心が水滴のように広がる。
あの日――アズサが生れたあの日、唯一無二の友と慕った王女を守れなかったのは、他でもない自分。真っさらな友の視線で、守ると誓ったひとの顔で、混じりけの無い純粋な気持ちで、ゼンの心の奥にアズサは踏み込んでくる。ゼンの心にやりきれない負い目が重くのし掛かった。
「聞かないでくれ。答えられることはもうない」
いつしかゼンは、幼いアズサの疑問に答えなくなった。答えられなくなった。
どうして自分はここにいるのか。どうして父さんと母さんは死んだのか。友だち、ぼくにもできるかな。外に出て遊びたい。魔法、ぼくも使いたい。どうして、なにも、教えてくれないの。
「誰だって、踏み込まれたくないところがあるんだ。だから、もう、やめてくれ……」
気が弱っていたのかもしれない。
幼い子供に言う言葉ではなかったが、口から出た言葉は元には戻らなかった。
そう告げれば、アズサは分かりきったように、何も言わなくなった。ほんの一瞬、消え失せた表情が全てを物語っていて、ゼンはまた過ちを繰り返したことを思い知った。
それからは普通だった。普通に過ごして、ただ変わらない毎日が来る。以来、アズサはゼンに両親のことや自分のことを聞かなくなった。やがてゼンは所属する騎士団の任務に追われていった。自ら仕事に逃げていたことも、事実だった。
――だから、諸々のツケが回ったんだな。
失われていく温度を感じながら、ゼンは独り言ちた。
断続的な呼吸が続いて、口から零れる細い息は途切れ掛けていた。腹部からは大量の血液が流れ出している。まるで、自分の生命も一緒に流れていくような感覚だった。
ゼンの腹に穴を開けた相手は、既にこの場から消えている。ようやく尻尾を掴んだと思いきや、掴んだ尻尾は早々に切られてしまった。
最後に煙草を吸おう。震える手で服の中を探ろうとして、ふと、アズサの顔が脳裏に浮かぶ。ゼンはその手を地面に落とした。そう。禁煙をしなければならなかった。そうだった。
――すまない、ユト。すみません、セノア様。俺は、俺は……。
死ぬのか、俺は。
そう心が理解した時、溢れ出すのは後悔のみ。
――すまない、アズサ。俺は、お前の家族に、不甲斐ない父にすら、なれなかった。
ただ、まだ死ぬべき時ではないと、身体中が叫んでいた。
ゼン・バーリオにとって、アズサ・リアンタの存在は特別なものだ。
たとえ天地がひっくり返っても、王国が滅びたとしても、この身は
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