第56話 奇跡の瞬刻

落ちる。

いつまで続くのかというほどの時間。

だがしかしきっと一瞬の出来事。


終わらない。

まだなのか、といっそ苛立ちすら覚える。

底なしの恐怖が全身を支配して、私を突き落とす。


もうお願いよ。

絶望が希望を打ち消していく。



何も考えられずにただ絶望に堕ちていくなか、ふと指が熱くなった。

思わず固く閉じていた目を開くと、まばゆい光が飛び込んでくる。

リュシアスから贈られた不思議な色の指輪。

右手の中指に収まるそれは、宝石と同じ淡い紫と淡い黄色の光を放っている。

あまりに美しい光景だが、眩しさに耐えられず目をすがめる。


するとふいに、甘い薔薇の香りが鼻孔をくすぐった。


「ティアーナ!!」


あぁ、リュシアス様。


きつく抱き締められ、顔を見ることはできない。

しかし、間違いなくリュシアスだ。

最期を予期したときに、強く強く思ったその人。


うれしい。また会えた。


思わず、リュシアスの衣服をきつく握りしめる。

もう、何があっても平気だと思えた。

たとえこのまま終えても、後悔などない。

こうして愛した人と最期に会えた。

それだけで、この人世も幸せだったと言い切れる。

口元に自然と笑みが浮かぶ。



「諦めるな!! ティアーナ! 自分のことも、私のことも!」


リュシアスが叫ぶ。

こんなに切迫した様子のリュシアスを初めて見た。

励ましのような、祈りのような言葉。

私の思いを読み取り、救い上げていく。


リュシアスが叫んだ直後、魔法の詠唱をする声が続く。

不思議な発音が張り詰めた夜空に響いた。


すると下から風が巻き起こる。

結い上げていた髪がほどけて、なびいていく。

薔薇の香りが辺りを満たし、温かな風が体を包み込む。

落下していく速度が緩み、徐々に嫌な浮遊感が消える。

まるで花びらがゆっくりと舞うように、ふわりふわりと漂いながら降りていく。

そして、やがて地面に足がついた。


――――終わった。

いまだにどくどくと脈打つ心臓。

あまりにも突然に、思いがけない恐怖を味わい、震えが止まらない。

終わりを覚悟した。

だがいつまでも終わらないかと絶望した。

永遠のような、だが瞬く間の出来事だった。


力が抜けて、その場にへたりこむ。

だがリュシアスの服をきつく握りしめた指先が固まっていて、離すことができない。

そのままリュシアスもともに膝をつく。


「こわかったね。」


リュシアスはいつものように優しく声を掛けながら、きつく抱き締めている腕に一層力をこめ、ティアーナを抱きすくめる。

そのあたたかさに、堪えきれない涙が伝う。


「どこにも怪我はないか?」


「……ええ。大丈夫です。」


掠れながらも、かろうじて言葉が出てくる。

その返事を聞いて、リュシアスも安堵のため息をもらす。

そして優しい手つきで、ゆっくり頭を撫でてくれる。


「顔を見せてもらってもいい?」


擦り付けるようにリュシアスの胸に顔を埋める私に、そうささやく。

リュシアスの落ち着いた声を聞くと、またほっとして涙が溢れる。


「いや、です。離れたくない。」


駄々っ子のようにつぶやく。

おそらくきっと情けない顔になっているはず。

そんな姿、見られたくない。


「お願いだ、ティアーナ。どんな君でもいい。今は顔を見せて欲しいんだ。」


服を固く握りしめ、冷たくなった手をリュシアスがゆっくりと剥がして握りしめる。

あったかい手。

凍りついた心を溶かしていくよう。



ゆっくりと顔をあげる。

美貌の人がそこにいた。

ただいつもとは違い、少し乱れた髪。

余裕のない表情。

揺れる榛色の瞳。



あぁ。私は生きてる。

この人に、まだ思いを告げられる。



「愛しています。」



たまらず、こぼれ落ちるような告白の言葉。

あまりにも突然で、驚くように目を見開くリュシアス。


また一筋涙が頬を伝う。

思いを告げられることの嬉しさで胸がいっぱいになる。



「リュシアス様のことを、愛しています。」



リュシアスはそれを聞いて、今度はくしゃっと顔を歪めた。



「君は、いつも、ずるい。」



耐えるように、掠れた声。

だがその衝動のまま、リュシアスはティアーナを掻き抱き、唇を塞ぐように口づけた。


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