第33話 保育者失格

「ティアーナ。目が覚めたかい?」


落ち着いた声が耳を撫でる。

リュシアスの顔が目の前にあって、一瞬何が起こっているのか分からなかった。

ばっと身を起こし、まばたきを繰り返しながら辺りを見回す。

まだ子どもたちは楽しそうな声を上げながら、遊具を走り回っている様子だった。


「わ、わたし……寝ていたのですか?」


いつのまに寝てしまっていたのだろうか。

子守をしなければいけないのに、うたた寝してしまうとは保育者失格だ。

保育を放棄して寝てしまった状況に気づいたとたん、気が気ではなかった。

子どもたちに何かあっていては目も当てられないと、血の気が引く思いだった。


「あぁ。準備に力を入れすぎて、疲れていたのだろう?

私が来てから、そんなに時間も経っていないよ。

子どもたちは問題なく楽しそうに遊んでいるね。」


リュシアスが心配そうな顔をしながら、こちらを覗き込む。

子どもたちには問題なかったことを知り、少し胸をなでおろした。

だが泣きたいくらい後悔の念が強く、震える手を握り締めながらリュシアスに頭を下げる。


「リュシアス様、本当に申し訳ありませんでした。

お子様方を預かっている身でありながら、その役目を全うせずに一人寝てしまうなど……。

一カ月の試用期間についても話をしないままでしたし、今後の雇用について再考していただかなければならないほど大変な失態です。本当に申し訳ありません。」


子どもたちのことをずっと見守っていきたいが、雇用されている身であり、その役割には責任を持たなければならない。

役割を全うすることができないなんて、職業人としては失格だ。

自分のことばかりに目が行ってしまって、気がそぞろになっていた。

私は子供たちの母親ではない。

ただ遊んで楽しく暮らしていく生活に甘んじていい身分ではない。


あぁ。なんだか、リュシアス様に迫られたり、子どもたちとの仲が親密になっていくにつれて、私の本分を忘れてしまっていた。

私はただの男爵令嬢で、ハーツ伯爵家に雇用されているだけの、ただの侍女にすぎない。

失敗をしでかして、やっと目が覚めたかもしれない。

私は身の程を考えて引くべきなのだ。

リュシアスの恋人という立場も、子どもたちの侍女という立場も、どちらも私には不相応なのだろう。

中途半端に決断をしないままいるから、このような失態を犯すことになる。

取り返しがつかないことが起こる前に、きっともう終わりにするべきなんだ。



「ティアーナ。」


リュシアスの優しい声が名前を呼ぶ。

胸を締め付けられる思いだ。

終わりを決断しようと思っていたのに、声を聴くだけですぐにそれをためらってしまう。

私を呼ぶ優しい声。必要としてくれている人。

また涙が込み上げてきて、零れないように耐えるのに必死で返事ができない。


リュシアスがティアーナの手をそっと握って、優しくその目をみつめる。


「ティアーナ。大丈夫だよ。

君が精一杯頑張ってくれているのを知っているよ。子どもたちのために。私のために。

そんなに自分を責めることはないんだ。

誰しもたまに失敗してしまうものさ。同じことを繰り返さないことが大切だろう?

今回だって、いつも子どもたちを四六時中監視してるなて無理なんだ。

他にも使用人はたくさんいるんだし、一人でやらなければと抱える必要はない。

私も側にいるからね。もっと肩の力を抜いて、楽しんでいいんだよ。」


慰めてくれる声が凍りそうな心を溶かしてくれるよう。

こらえきれない涙が、一筋また一筋とこぼれていく。

楽しんでいた日々も、何かに追われるように過ごしていたのかもしれない。

一人転生したことへの罪悪感、孤独感にさいなまれてせめられるような感覚を覚え。

自分の過去ともいえる前世のことばかりに気を取られ、目の前のことをないがしろにしていては、今の私の人生が台無しだ。

リュシアスの言葉に、少し目が覚めた気分だった。

そして救われた気がした。


涙がとめどなく流れていく。

リュシアスの指が優しくそれを拭ってくれる。


「君はいつも頑張りすぎているんだよ。もっと気を抜いて大丈夫。

いつでも私がついているから。」


優しくささやき、頬を撫でる。

この手があるなら、私は私でいられるかもしれない。

いろんなしがらみをまとめて包み込んでくれるような、この大きな手。

面倒な私もすべて包んで、温めてくれる。


はなせない。

はなしたくない……。


温かな手の感触を感じながら、溢れる涙が頬を伝っていった。


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