届かないその手の平
ウェルスと別れたリュナは、フィオーレの街をあてもなく歩いていた。
フルールが元気にしていることがわかった。それだけで充分だ。もうこの街にいる必要はない。明日になったらこの街を出る。それまでにこの美しい街の景色を目に焼きつけておこうと思った。
「お前がそれでいいなら、オレは何も言わない」
頭の上のエルピスがぼそっと呟いた。エルピスのこのおせっかいすぎないところが、リュナは気に入っている。意見するわけではなく、ただ見守ってくれる。だから他人の存在がすぐ傍にあっても受け入れることができた。リュナにとっては特別な存在だ。ご飯代もかからないし。
ウェルスは、別れ際リュナに何か言いたそうな顔をしていた。ウェルスが考えていることは、リュナも想像できる。それでも何も言わなかったのは、ウェルスの気遣いだろう。
これでいい。これでいいんだ。
リュナはそう自分に言い聞かせる。だけどどんなに思い込もうとしたところで、このもやもやした気持ちは消えてくれない。他人に依存しないリュナをこんな気持ちにさせるのは、彼女だけだ。
彼女の声を聞いてみたかった。きっとそれは、陽だまりのように優しい響きだろう。
彼女の笑った顔を見てみたかった。きっとそれは、咲き誇る花のような美しさだろう。
彼女がかつて失ったものを取り戻せば、彼女の声と笑顔が蘇るかもしれない。でもそれができるのは、自分ではない。この手は、汚れている。彼女に触れたら、彼女も汚れる。そんなことは許されない。彼女は美しいままでいてほしい。
リュナはショップが立ち並ぶ通りを歩いた。
この日の授業を終えたフルールは、学校を出た。家の方向の違う友人とは門の外で別れた。
昼下がりの気候は温かく、少しばかり眠気を誘う。昨日読んでいた本を最後まで読み切ってしまったので、帰りに本屋に立ち寄ることにした。フルールは読書が大好きだ。いくら読んでいても苦にならない。ただあまり夜更かしすると、翌日リシェスに小言を言われることになる。ほどほどにしておかないと。
海沿いの遊歩道を通って、ショップが軒を連ねる道に入った。
ドクン、とフルールの鼓動が突然跳ね上がった。
彼女は立ち止まり、鼓動が乱れた原因を探す。
前方の遠い場所に、黒い服を着た人間が立っている。頭にはなかなかに目立つ黒い帽子。人は他にも周りにたくさんいるのに、フルールの視線はその人物に引き寄せられた。
黒い服の人間も、こちらを見ていた。
ドクン。
まだあどけなさを残したものの、彼女の容姿は立派な女性のそれになっていた。
ドクン。
だけど、長い亜麻色の髪は、あのころのまま。
ドクン。
彼女もこちらに気づいた。近くて遠い空間を挟んで、二人は見つめ合った。
ドクン。
一歩、足が前に進みかけた。
ドクン。
しかしそこで思い直し、彼女とは反対の方向を向いた。
ドクン。
路地に入り、走った。
ドクン。
逃げるように。この気持ちを否定するように。
ドクン。
ただ自分の足音だけがこだました。
待って!
フルールはこの時ほど自分が声を出せないことを呪ったことはない。
スクールバッグを放り出して、彼女は走った。
彼が消えた路地に曲がる。
息が切れても、体が悲鳴を上げても、お構いなしに彼女は走った。
道路の溝に躓いても、好奇の視線を浴びても、彼女は走った。
けれどどんなに走っても、彼の姿は見えなかった。
胸の辺りから悲しさが溢れてくる。
どうして逃げるの? 私はこんなに会いたいのに!
フルールはついに力尽き、蹲るように地面に両膝をついた。大きく呼吸を繰り返す。建物と建物の隙間から三毛猫がこっそり顔を出し、彼女を眺めていた。
彼女は心の中で、何度も彼の名前を呼んだ。
自分の心を照らしてくれた、月の名を。
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