願い咲かす大樹

 リュナは巨大なあぎとにガブリと頭から噛みつかれた。まさかの事態だったが、鋭い牙が肌に突き刺さっても、不思議と痛みは感じなかった。

 リュナの内側から、何かが光のほうへ伝っていく。橋を越えて向こう岸へ渡っていくように。

「なるほど。それがお前の願いか」

 光から声が発せられる。なんて乱暴な願いの受け取り方だろう。

 噛みついた牙が抜かれ、巨大な顎は光の中に戻っていった。

「さてと」

 溜めていた息を吐き出すように、エルピスが言った。

「それじゃあ、そろそろお別れだな。わかってると思うが、オレが願いを叶えるのは一度だけだ。二度目はない。せいぜい後悔しないように生きるんだな」

「ちょっと待て。きみはどこに行くんだ?」

「言っただろ? オレはお前の願いを叶えるために現れたんだ。願いが叶った時、そこにもうオレはいない」

「ちょっと突然すぎるな。心の準備ができていない」

「はあ? なんだてめえ、オレ様とお別れするのが辛いってか? 野郎に言われてもちっとも嬉しかねえぜ」

「またどこかで会えるんだろ?」

「甘ったれるな。あとは自分でなんとかしろ。オレがおしめを変えてやったんだからな」

「ずいぶんと薄情だな。俺はずっときみを運んできたんだぞ」

「お前の乗り心地、悪くなかったぜ」

「褒め言葉なんて欲しくないね」

「駄々をこねるな。やっぱりお前はまだガキだな」

「薄汚れた帽子なんかに言われたくない」

「なんだと!」

 やれやれ、このままでは埒が明かない。素直でないのはどちらも同じだ。

 リュナは目の前に浮かぶ光を見つめながら、これまで辿ってきた道のりを思い返した。

 エルピスのことを初めは変な喋る帽子だと思っていた。そして今も、変な喋る帽子だと思っている。とにかく変な奴なんだ。帽子が喋るというだけで許容するのが難しいのに、人並み以上に態度がでかい。自分だけでは動くこともできないのに、どうしてそんなに態度がでかいのか? その自信は一体どこから湧いてくる?

 リュナは一人で行動することを好むが、要所要所でエルピスの存在を大きく感じた。それは確かだ。そしてその存在は、不快ではなかった。他人を寄せつけない自分が、傍にいても許せる存在。むしろ、そこにいてほしいとさえ思った。その考えに自分でも驚いてしまう。今だって本当は、彼と別れるのが辛いのだ。

「なあ、エルピス」

「なんだ?」

「楽しかったよ。きみとの旅は」

「……」

 リュナは最後くらい、自分の気持ちを素直に伝えることにした。

「きみがさり気なく、でもしっかりと、支えてくれているのがわかった。心強かったよ」

「フン!」

「きみは照れ屋だけど、もう言う機会がないみたいだから言っておく。ありがとう」

「べつにお前のためじゃないさ」

「感謝してる」

「……そうか」

 闇の中に浮かぶ光が少しずつ離れていく。別れの時だ。

「エルピス。さようなら」

「ああ。じゃあな」

 光がまるで手を振るように、小さく瞬いた。

「お前と一緒に見た世界。そんなに悪くなかったぜ」


 光の中から器が現われた。黒い帽子を逆さまにしたような形。

 器の空洞になっている部分に光が凝縮されていく。とても眩しいはずなのに目を逸らす必要のない優しい光だ。

 空洞に光が溜まるにつれ、器がぶるぶると今にも破裂せんばかりに震え出した。

 器に一瞬だけ浮かび上がった赤い目が、ちらっとリュナを一瞥した。

 そして器から光が解き放たれた。


 花の都を燃え盛る黒炎が覆い尽くしている。メラメラと揺らめきながら、燃えている。塵すら残さずに触れていくものを無へと帰した。

 まだ火の及ばない遠くへ逃げ出した人々は、ただ茫然と街を襲った災厄の光景を眺めていた。

 燃え広がる闇の炎は、まるで嘆いているようだ。悲しみを。絶望を。それは悶え苦しんでいるようにも見える。苦しみから逃れようと、もがいている。人のありとあらゆる暗い感情を背負っているような。

 いずれ世界はあれに吞まれていく。

 世界は絶望に染まっていく。

 そう思えた。

 その時、街の中心辺りから白銀の光の柱が立ち昇った。光の柱は空に向かって一直線に伸びていく。

 その光はやがて枝分かれし、無数の紐のようになって周囲に広がっていった。破裂した花火のように。

 放たれた光は流れ星のように地上へ落ちていった。光に触れた黒炎が浄化され霧散していく。自らの出番が終わったことを悟ったように。

 光の大樹が放つ光は人々のもとにも届いた。安らぎを与えてくれる優しい光。

 世界は光に包まれた。

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