風に舞う可憐な花びら
昼下がりの穏やかな陽光が降り注いでいる。風が芳しい花の香りを運んでくる。
街は日常を営んでいた。ありきたりで平凡な、心落ち着く平和な日常を。人々は動き、仕事をし、遊び、鳥は飛んでいる。
リュナは日差しを眩しく感じた。帽子を深く被ろうとして鍔を探したが、そこに帽子はなかった。
なぜ自分は帽子を被っていると勘違いしたのだろう? リュナはそのことを不思議に思った。フードは被っても、鍔のついた山型の帽子を被ったりはしないはずだ。
……山型? どうして自分は帽子の形を具体的に想像した?
不思議な感覚と、どこか空虚な気持ちがリュナの心を占める。どうしてこんなに寂しい気持ちになるのか、自分でもわからない。
街の至るところに花の植えられた、花の都。自然と人工物が調和した心地良い景色。
リュナは自分が今何をしようとしていたのか、よく思い出せない。とりあえず彼は目の前の道を歩くことにした。
外装がカラフルに彩られたお洒落なショップが立ち並ぶ通り。ひょっこり顔を出していた三毛猫が身を翻して路地の中に消えていく。
懐かしい匂いが薫る。リュナは前方を見た。
亜麻色の髪の少女がこちらを見て立ち尽くしている。手にしていたスクールバッグを地面に落とした。
リュナの脳裏に、赤い二つの目のイメージがよぎった。自分は選択を迫られている。今度は間違えるわけにはいかない。
リュナは一歩前に足を踏み出した。さらに一歩、二歩と踏み出していく。
少女がこちらに向かって駆け出した。
物言わぬ少女はそのままの勢いでリュナに飛び込んでくる。リュナはそんな彼女を真っ直ぐに受け止めた。
花のように甘い香り。ずいぶん大きくなったけど、頼りない華奢な感じはそのままだ。
少女はリュナの胸に抱かれたまま、顔を上げる。儚げな潤んだ瞳。
リュナは少女の亜麻色の髪を優しく撫でた。そして髪を結っているリボンに触れる。
少女がリュナの右手を両手で握った。強く、強く、握り締めた。もうその手は離さないと誓ったように。
「久しぶり」
リュナが微笑みながらそう言うと、少女は今にも泣き出しそうな顔になった。
マッドは昨日リュナがこの街を訪れていることを偶然知った。レストランから出てきたリュナを目撃して、あとをつけた。
これは千載一遇のチャンスだ。たまたま訪れた街に奴も来ていた。まさかこんな場所で遭遇するとは夢にも思っていないだろう。お互いわかっているはずだ。自分たちのような汚れ者にこの街は似つかわしくないと。
正面切って飛び込んでもどうせあいつはまた逃げ出すはずだ。逃げ足だけは速い臆病者。それならあの女を利用すればいい。お前の唯一の弱点だ。
マッドが路地の角からリュナたちの様子を観察していると、突然体に何か細長いものが巻きついてきた。
「こらこらあんた、あの子たちの青春に水を差すつもり? そんなのお姉さんが許さないわ」
植物の蔦のようなものが巻きついてくるのを感じながら、マッドは後ろを振り返った。
赤目の女がそこに立ち、妖艶な笑みを浮かべていた。
マッドは成す術もなく体の自由を奪われた。この後自分がどんな仕打ちを受けるのか、この時のマッドはまだ知らない。
リュナとフルールは、色とりどりの花が咲き誇る庭園にいた。手を繋ぎながら、ゆったりと花畑の合間を練り歩く。
話したいことがたくさんあった。たくさんありすぎて、何から話したらいいのかわからない。無言のまま、時が過ぎていく。けれどこの沈黙は苦痛ではなかった。
「手紙くれたんだね。ありがとう」
リュナはようやくそう言った。隣を歩くフルールがリュナに顔を向け、小さく頷いた。
「読んだよ。きみの気持ちがたくさん書いてあった」
フルールが顔を赤らめてはにかんだ。ばつが悪そうに俯いて足元を向いてしまった。
「嬉しかった」
フルールがまた顔を上げてリュナを見た。どこか満足げな表情に見える。
「本当は、もうきみとは会わないつもりだったんだ。俺にはきみの手を握る資格はないと思った。だけど……」
フルールはリュナの言葉に静かに聞き入っている。
「俺もきみに会いたかった。本当は離れたくなかったんだ。おかしな奴だろう?」
フルールが首を左右に振った。リュナの気持ちを肯定してくれた。
二人はまたしばらく庭園を歩いていく。
花は健気に、それでいて力強く、色鮮やかに命の輝きを咲かせている。か弱い小さな命なのに、自身を誇示するように咲き誇る。その命は目に尊く映る。
少し強い風が吹いた。
リュナは咄嗟に自分の頭に手をあてた。それから、今の自分は帽子を被っていないことに気づいた。なぜかそういう動作が染みついている。まるでそこに自分の大切な存在がいたかのように。
リュナはこの空虚な気持ちを埋めるように、フルールに言葉を向けた。
「俺はきみと出会えたことに、心から感謝してる。きみがいなかったら、きっと俺は生きてこれなかった。希望だったんだよ。俺にとって、きみは。この世界で初めて見つけた、希望だった。だから、傷つけたくなかった。俺が傍にいたら傷つけてしまうと思った」
フルールは、握ったリュナの手を胸の辺りまで持ち上げながら、首を横に振った。
「俺は、自信がなかったんだ。きみのことを守れない。そう思った。だから俺は逃げたんだ。大切なものを手放して、自分の身可愛さに逃げ出した。怖かったんだよ。きみを失うことが」
リュナの手を握るフルールの手に力が込められた。
「うん。でもわかった。そのことで俺がきみを傷つけてしまったこと。きみの悲しみに気づくことができなかった。ごめん」
フルールがもう一度首を横に振った。
「もう、迷わないよ。誰かが俺に気づかせてくれたんだ。もう一度機会を与えてくれたんだ。大切な相棒がいたんだよ、俺には」
リュナは口から出てきた言葉に自分で驚いた。相棒がいた? だけどそれは間違っていない。そう、確信した。
リュナは体を真っ直ぐフルールのほうに向けた。彼女も同じように向き合う。
リュナは彼女に言葉をかけようとした。だがその前に、
「リュナ」
鈴のような音がフルールの口から発せられた。
「ありがとう」
フルールは、笑っていた。彼女の顔に、満面の笑みが浮かんでいる。
「よかった。やっと、言えた」
そしてその美しい瞳から、涙の滴がこぼれ落ちた。
それは、リュナの願いだった。フルールに声と笑顔が戻ること。彼女の心に希望が灯り、美しくこの世界を生きられること。
風が吹き、彼女の亜麻色の髪をなびかせる。
風が彼女の赤色のリボンを盗んでいった。高く、遠くへ、飛んでいく。
だけどもう、大丈夫だ。彼女の希望はここにある。
この世界は尊く、そして美しい。
リュナはこの場所へ生まれ落ちたことを幸せに思った。
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